第49話:システム管理者の休日と、計算外の甘味
「……殿下。いえ、アルス様。本日の稼働時間はすでに規定の百二十パーセントを超過しております。これ以上の演算は、システム管理者ご自身の『オーバーヒート』を招きますわ」
王宮の執務室。書類と青白い魔力光を放つホログラムの地図に囲まれたアルスの手から、ロザリアがスッと羽ペンを取り上げた。
帝国の統合から数週間。エリュシオン王国は未曾有の復興と拡張のラッシュに沸いていた。旧帝国領への鉄道網の接続、関税の撤廃、そして新たな法整備。アルスは寝る間も惜しんで、大陸全土を覆う巨大な「新システム」の基盤構築に没頭していた。
「問題ない、ロザリア。私の思考回路はまだ最適化の余地がある。北部の食糧輸送ルートにおける、第三分岐点のダイヤ調整があと少しで……」
「ダメです。バルド様も『王子の頭から煙が出てるぜ』と呆れておられましたし、ルナ様に至っては『強制睡眠薬を注射してこようか?』と物騒な提案をしておりました。……今日は、完全なる『オフ』です」
ロザリアの有無を言わさぬ微笑みに、アルスはわずかに目を見開き、そして小さくため息をついた。
彼が構築した論理の中で、「構成員の適切な休息が長期的な生産性を向上させる」というデータは確かに存在する。自分自身を例外とするのは、自己矛盾であった。
「……分かった。休日の導入を承認する。だが、具体的な『休息のプロトコル』が私にはない。睡眠をとればいいのか?」
「いいえ。せっかくですから、王都の視察という名目で……少し、外を歩きませんか? もちろん、お忍びで」
ロザリアの提案に、アルスは渋々ながらも頷いた。
数十分後。二人は身分を隠すための地味な外套を羽織り、活気に満ちた王都の市街地へと足を踏み入れていた。
かつて、宰相の圧政下で死んだように静まり返っていた王都の面影は、もはやどこにもない。大通りには、東の鉱山から運ばれてきた鉄器や、北の旧帝国領から届いた珍しい香辛料が所狭しと並べられ、商人たちの威勢のいい声が響き渡っている。
遠くからは、定期的に王国と地方を結ぶ蒸気機関車の力強い汽笛が聞こえていた。
「驚いたな……。計算上では理解していたが、物流の速度が三倍になれば、市場の熱気はそれ以上の指数関数的な伸びを見せるのか。この屋台の並び、動線の効率が悪いな。区画整理を――」
「アルス様。今日は視察であって、業務ではありませんわ」
歩きながらも街の構造を分析し始めるアルスの袖を、ロザリアが軽く引く。彼女の指先がアルスの手に触れ、そのまま自然な動作で指が絡められた。
アルスの視線が、繋がれた手に落ちる。物理的な接触。体温の共有。彼の脳内で、心拍数の上昇という「原因不明のアラート」が鳴るが、彼はそれを意図的に無視した。
「……そうだな。業務外の行動だった。しかし、目的を持たずに歩くというのは、酷くエネルギーの無駄遣いに感じてしまう」
「無駄ではありませんわ。貴方が作り上げた『数字』が、どうやって人々の『笑顔』に変換されているのか。それを知ることも、管理者としては必要なことではありませんか?」
ロザリアに導かれるまま、二人は広場の一角にある、甘い匂いを漂わせる屋台の前で足を止めた。
そこでは、旧帝国領の特産品である果実を、薄い生地で包んで焼き上げた新しい菓子が売られていた。物流網が繋がったことで、かつては敵国だった場所の文化が、こうして王都の日常に溶け込んでいる。
ロザリアが二つ購入し、一つをアルスに手渡した。
「さあ、アルス様。熱いうちにどうぞ」
アルスは渡された菓子をじっと見つめた。
「……小麦粉と果糖、それに少量の乳脂肪分か。カロリーの摂取効率としては悪くないが、歩行しながらの摂食は消化器官に――」
「あーん、ですわ」
ロザリアが自分の分の菓子をちぎり、アルスの口元へと差し出した。
周囲の雑踏の音が、一瞬だけ遠のいたような気がした。アルスは瞬きを一つし、ロザリアの少し悪戯っぽい、しかし愛情に満ちた瞳を見つめ返してから、大人しくその菓子を口に含んだ。
「……どうですか?」
「……甘いな。果糖の純度が高い。だが……悪くない」
アルスの率直な感想に、ロザリアは嬉しそうに花が咲くような笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、アルスは気付いた。この菓子が美味しいと感じたのは、果糖の純度やカロリー効率の問題ではない。ロザリアと共に歩き、彼女から手渡されたという「状況」が、味覚というデータに極めて巨大な付加価値を与えているのだと。
「人間の感情という変数は、本当に予測が不可能だな。……私の計算式が、また一つ書き換えられた」
「ふふっ。アルス様の辞書に『楽しい』という言葉がインプットされるまで、今日はとことんお付き合いいただきますからね」
繋いだ手を少しだけ強く握り返し、アルスは静かに頷いた。
空は青く澄み渡り、彼が整備した王都は平和な喧騒に包まれている。冷徹なシステム管理者の脳内を占めていた無数の数式は、この時ばかりは、隣を歩く女性の温もりという、たった一つの絶対的な「定数」に上書きされていた。




