ウルの滞在
陽の光がいっそう強さを増した頃、屋敷の門にひとりの客が現れた。
その姿を見た瞬間、レウの目は驚きに見開かれることとなる。
「……ウル?」
「レウ、久しいな」
白い肌に、分厚い装い。
まるで北国の風を纏ったような男が、レウに向けて微笑んだ。
それはレウの故郷で、長く彼の世話をしていた使用人。ウルであった。
灰色の外套を翻し、陽射しを避けるようにして立つその姿は、今となっては懐かしい最果ての冬を思わせた。
アダンはその場に腕を組み、軽く眉を上げてみせる。
「レウ、知り合いかい?」
「……はい……。ずっと昔に、僕がとてもお世話になっていた方です……」
心なしか、レウの声は弾んでいた。
懐かしさと安堵に満ちたその微笑みに、アダンの胸の奥に小さな棘が刺さっていく。
鋭いアダンの視線をものともせずに、ウルはレウの姿を上から下まで見つめていた。
「……それにしても、驚いたな。お前が、そのような服を着ているとは」
その言葉にレウは赤面し、慌てて裾を押さえてしまう。
今のレウの姿は、この国の風習に合わせた薄手の衣であったのだから。
それはウルに比べて袖が短く、胸元が軽く開き、布の隙間からは小麦色の肌が覗いていた。
「こ、この国では……その、暑いので……」
「……なるほど。ずいぶんと、この国に染まったものだな」
ウルはわずかに、寂しげな笑みを浮かべていく。
「だが、よく似合っているな。……まるで、別人のようだ」
アダンの胸が、わずかに波を打ちはじめていく。
言葉は穏やかでありながも、その響きが、どこか自らの胸を掠めていくような気がしていた。
しかしそれを悟られぬよう、領主としての柔らかな笑みを浮かべていく。
***
ウルの滞在は、数日に及んだ。
仕事で隣国へと向かう途中であり、たまたまレウが嫁いだ領地が近くにあったがために、祝福をしに寄ったのだと酒を片手に笑っていた。
アダンはウルがレウの使用人であるということを耳にしてからも、二人のことが気掛かりでならなかった。
レウの輿入れ後、ウルは商人となり国々を歩き回っているのだと今宵も静かに語り出す。
「それにしても、この国は香辛料も豊富で、とても素晴らしいものですね……」
「それはどうも」
「……レウ、残さず料理は食べているか?」
「……もちろんだよ、この国の料理は……とてもおいしいんだ」
ウルは礼儀正しく、物腰も穏やかであった。
しかしふとした瞬間に見せるレウへの視線が、どこか懐かしさと使用人にしてはやけに近い親しさのようなものを含んでいた。
レウもそれに応えるようかのに、昔話を語っては、ウルと共に笑い合う。
アダンはその光景を遠くから見つめながら、心の中で息をつく。
――どうして、気になって仕方がないんだ……。
眠りにつく時間になってもなお、ウルに見せたレウのどこかあどけないような微笑みがアダンの脳裏から離れずにいた。
やがて、アダンは自らの胸の内に芽生えた幼稚な感情に気づいていく。
――嫉妬だ、これは。
翌朝、アダンは庭でレウと話をするウルの姿を見かけていた。
何気ないような顔をして近づいては、二人の会話に割り込んだ。
「レウ、午後の打ち合わせの件なんだけど、少し……君の手を借りたいんだ。いいかな?」
「はい、アダン様……」
「……では、また後ほど」
と、ウルが笑って立ち去っていく。
その背を見送りながら、アダンは思わず口を開いた。
「……君は、あの人の前ではずいぶん柔らかい表情をするんだね」
「えっ……?……そうでしょうか……」
「気づいていないのかい?」
そのような言葉に、レウは少し困ったように眉を寄せた。
「……ウルは、僕にとって……家族のような人なんです。……ウルが使用人として僕の家にいてくれたから……、僕は……。今日まで生きることができたんです……」
「そうか……」
家族のような、という言葉に、アダンの心は少しだけ平穏を取り戻していく。
だが同時に、なぜだかその優しい響きが、ひどく遠くにあるように感じられた。
***
やがて、ウルが出立する時がきた。
「この国の陽は、思っていたよりも穏やかだった……」
そう言って笑うウルに向けて、レウは名残惜しそうに手を取った。
「……また、会える?」
「……きっとな……。……でも、その頃には、お前はもっと陽の光に馴染んでいることだろう」
ウルはそう言って、アダンへと向き直る。
「どうか、レウを頼みます」
アダンは、静かに頷いた。
「もちろんですとも。彼は、私の妻ですから」
「ありがとうございます。……レウ、いつまでも幸せにな……」
静かな別れの後、部屋を通り抜ける風がレウの身には少しだけ涼しいものであるかのように感じられた。
アダンはそっと、小さな肩に手を置いた。
「……寒いかい?」
「……いえ……。ちょうどいいです……」
レウの褐色の肌に、夕陽が優しく落ちていく。
それを見つめながら、アダンは静かに微笑んだ。
「もう、手放せそうにはないな……」
「えっ……?」
「君がこの国に馴染みすぎて、あの着膨れた服でさえ……今となっては、懐かしいよ……」
「アダン様……」
レウは頬を染めて、静かに笑みを返していく。
穏やかな陽はゆっくりと傾き、二人の影をいつまでも長く伸ばしていくのであった。
その日の夜、屋敷はいつもよりひどく静まり返っていた。
風が遠くの海を渡ってくるたび、木々がゆっくりと音を立てる。
レウは自室の窓辺に、腰かけた。
空は深い闇の色に染まり、南の星が眩い光を放っていた。
――あの場所では、こんなに多くの星を見ることはできなかった。
すると、愛しい者の声が響く。
「まだ、起ききていたのかい……?」
レウはわずかに驚き、立ち上がる。
「……すみません。風が、気持ちよくて……」
「なるほど」
アダンは、窓のそばまで歩み寄る。
爽やかな風が、二人の間を抜けていく。
「帰ってしまったな、彼」
「……はい……。少しだけ、寂しいです」
「……いつか、また会えるさ。今宵はこうして、ともに祈ろう」
「ありがとうございます……。でも、アダン様……。今は、ここが僕の居場所ですからね?」
そのような言葉に、アダンの胸の奥は確かな熱を秘めていく。
そしてその言葉を、ゆっくりと噛みしめるように繰り返した。
「ここが、居場所……か……」
しばらく、沈黙が流れていく。
外では夜虫が鳴き、どこか遠くで潮の音がひどく穏やかに響いていた。
「……レウ、」
「……はい……」
「ウルが来てから……。君が、彼に笑いかけるたびに……俺は、どうしようもなく胸がざわついていたんだ」
「……えっ……?」
「見ていて、とても苦しかったんだ。彼の言葉に笑う君が、まるで、俺の知らない君のようで……」
アダンは自嘲気味に笑って言った
「まるで、子供だよなあ……。領主のくせに、君の使用人に嫉妬するだなんて……」
レウはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑みを浮かべた。
「僕は、嬉しいですよ……?」
「……嬉しい?」
「はい。……アダン様が、僕をのことをちゃんと見てくださったことが……」
言葉のあとに、柔らかな沈黙が落ちていく。
風が二人の髪を揺らし、灯の明かりがひどくゆったりと揺れていた。
アダンは静かに、手を伸ばす。
レウの焼けた肩のあたりに、そっと触れた。
冷ややかな風の中においても、その肌は、まだ陽の熱を覚えていた。
「……温かいな、君は……」
「陽の光の、せいですよ……」
「違う。君のせいだよ……レウ」
レウの頬が、赤くなる。
その色は、夕陽にも、燃え盛る炎にもよく似ていた。
「……アダン様」
「うん?」
「……僕も、同じです。ウルと話をしていても……、心のどこかでずっと……、アダン様の顔を……思い出していました」
その言葉は、囁きのように小さく、しかし確かな音で響いていく。
アダンは言葉を失い、ただその手を強く強く握りしめた。
互いの指先が重なり、鼓動が重なる。
風が止み、世界がふっと静まった。
どちらからともなく、寄り添い合う。
触れた肩越しに、呼吸が伝わる。
「レウ」
「……はい……」
「愛しているんだ、君のことを……心から……」
「……僕も、……愛しています……」
その夜、二人はしばらく言葉を交わさずに並んでいた。
互いの温もりと夜風の柔らかさの中で、心だけが、そっと一つに溶け合うかのように。




