第9話 初めて音を産んだ夜
十六歳になると、国王の側近として、合理的な知見で執政への助言を求められるに至った。
私は王の私室、歴代の王のみが閲覧を許される「統治録」が保管された最奥へと足を踏み入れた。そこには、私がこれまで「非効率な旧時代の遺物」として切り捨ててきた、血塗られた黒曜国の歴史が、重厚な革表紙に綴じられて並んでいた。
「……これを見ろ、音無。貴様が『不備』と断じた法典の正体だ」
王の傍らに立つ秋官長・消墨が音無を家畜と見下した時と同じ顔で指し示した。
消墨の隣で王も冷徹な威厳をたたえていた王が、どこか悲壮な瞳で語る。
「この国は、異界からの『鬼神』か、あるいは一人の『鬼才』の暴走によって、一瞬にして国の半分を焼失した歴史がある。個の力、個の才は、あまりに不安定だ。ゆえに我らは建国以来、厳格な法で個性を削ぎ落とし、平庸な大衆を均質化することで『国』という種の生存を維持してきた」
消墨がうなずいて、言葉を継ぐ。
「法に従えぬ者は家畜以下……。それは、突出した個が全体を喰らい尽くさぬための、唯一の防壁なのだ」
音無は棚から一冊の書を抜き取り、そのページをめくった。そこには、音無の効率的な計算とは対極にある、泥臭く、非合理的な「血の連鎖」が記録されていた。
(ーー血筋の維持……異母兄弟による交配の記録か)
音無の視線は、氷のように冷ややかだった。
黒曜国には、王の血を濃くし、その強力な霊性を安定させるための過酷な慣わしがあった。歴史上、王の直系に王女が生まれたことは一度もない。ゆえに、王にならなかった王子たちの間に生まれた異母兄弟を政略的に配偶に据え、一族の血を煮詰めるようにして、代々の「王の器」を守り抜いてきたのだ。
(――歪な慣わしだ。この『血の檻』が生み出した必然というわけか)
音無は統治録を乱暴に棚へ戻した。
(――非効率だ。一族を掛け合わせ、個を尊厳を殺して種を存続させる統治。単に進化を拒絶した臆病者の慣わしに過ぎない)
目の前にいる王もまた、その交配で生まれてきた一人。
私への王の執着は、大衆を生かすための生贄として一国のための大義名分があるとでも言いたいのか。
反吐が出そうな心地で、その虚無の時間をやり過ごした。
王宮の片隅、夜の静寂。私は鏡の前に前のめりに座り、自分の喉に指を当て、玉藻の唇の動きを必死に再現しようとする。
訓練は、自傷に近いものとなっていた。
私は鏡の前で、人体図の通りに喉の筋肉を制御しようと指を突き立てる。王宮の夜は死んだように静かだが、私の視界には、自分の喉から漏れる歪な振動の波が、汚れた霧のように立ち込めているのが見えた。
(ーー違う。この波ではない。彼女の波は、もっと……凪いだ水面のような、柔らかな円を描くはずだ)
焦燥が喉を焼き、焦がす。
ふいに、玉藻の手のひらの温もりを思い出した。火傷をした私の手を包み、慈しむように撫でてくれた、あの時の彼女の唇の動き。
『あなたの可愛い手に、傷が残りませんように』
その記憶の波形を、喉の奥に無理やり流し込む。
私は目を閉じ、口腔の形を、舌の位置を、ミリ単位で調整した。
そして、肺に残ったすべての空気を、祈るようにして声帯へと叩きつけた。
「……ッ、……タ……!」
その瞬間、指先に伝わったのは、これまでとは全く異なる、澄んだ、強烈な振動だった。
鏡を見れば、私の喉から、細く、けれどまっすぐな一筋の波が、闇を切り裂くように放たれていた。
(――出た)
自分の口から「音」が生まれた。
その実感は、王に使役される屈辱も、差別による呪いも、すべてを洗い流すほどの衝撃だった。
私は、自分の喉を抱きしめるようにして、床に崩れ落ちた。
生まれて初めて、私は「自分」という存在が世界と繋がったことを、その振動を通じて確信したのだ。
私は鏡の中の自分を、憎しみをもって見つめた。 この喉は、空気を震わせる術を知らない。私の世界はいつだって、雪が降り積もった後のように暗く、しんと静まり返っている。
懐から、玉藻とやり取りした紙の端を出す。そこには彼女の美しい筆致で『玉藻』と書かれていた。
彼女が自分の名を名乗った時の、あの唇の動き。 最初に、一度唇を強く閉じ、弾く。 次に、口を大きく、丸く開ける。 そして、舌を上顎に打ちつける。 最後に、再び、丸く……。
私は、玉藻に習った読唇術の記憶を、逆回転させるようにして喉に命じた。
「……ン……ンッ……」
喉の奥で、獣のような、あるいは壊れた楽器のような不快な音が鳴った。自分の喉が震える感触に、私は吐き気を覚えるほど驚愕した。これが「音」を出すという、肉体の拒絶反応なのか。
私は、彼女が私を呼ぶ時の、慈愛に満ちた表情を思い出す。彼女の名前を、音として、彼女の耳に返したい。
私は、指で自分の喉仏を強く押さえつけ、逃げようとする空気を無理やり震わせた。
「……タ……」
乾いた、砂を噛むような音だった。
「……ア……オ……」
私の口からこぼれ落ちたのは、言葉ですらなかった。ただの、湿った吐息と、震える肉の音だ。 けれども、私の胸の奥で、五百年間凍りついていた何かが、その「音」によって初めて熱を持った。
「……タッ、ンマ......オ」
私は繰り返した。何度も、何度も。
「た、ま、も」
鏡の中の私は、いつの間にか泣いていた。 誰もいない無音の部屋で、私は初めて、愛する人の名前を呼ぶという、人間が持つ最も原始的な術式を、独りきりで完成させたのだ。
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<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。紫の髪。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。
紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。
錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
・玉藻
音無より年上の初恋の女性。
黒髪、黒い瞳。黒曜の純血思想の蔓延る社会で、他衆との混血のため、奴隷主人に買われて王宮で下女として働く。音無の自室には掃除をしに週一でやってくる。故郷に異母兄弟がいる。音無のために「幸運」の花言葉を持つ白詰草を活ける。
・消墨秋官長。
黒曜国の冷徹無慈悲な法を司る高官の男。
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