【零章:月魂の虚空】2話:優越を知る者への憐憫
<前回までの登場人物>
・紫暮 音無
零章の主人公。
耳が聞こえず、言葉が話せない。左右で異色の双眸(右目は灰色の弱視、左目は紫色のオッドアイ)の少年。
三十年を超えられない短命な紫耀の里で生まれ、親に売られた。紫耀と黒曜国では不吉とされる身体障害者だが、聴力と一部の視力が閉じた分、圧倒的な演算能力を持ち、他者の感情や生命の脈動を「衆波」として視覚的に捉えることができる異能者。錬丹術を扱う熟練の術師を凌駕する鬼才。
夜空を見上げれば、天空には冷え切った月が二つ。
巨大な白銀の月と、もう一つは、人の形を保ったまま輝く巫女。 修羅ノ世を終わらせるため、創世の月魄は双子の姿を模した。兄巫女は奈落に淀む魂魄を掬う人柱となり、妹巫女は天上の闇を払って現世を形造る「月守」として君臨する。
月魄ノ世の全容は、八色の衆波が万物を巡る。 紅灼の熱砂、茶壌の農地、翠樹の密林――それら自治領域の結節点に、黒曜国は王宮を構えている。
切り立った硬質な岩壁「鬼神の懐」に囲まれた、軍事の要衝。 ここでは、月と太陽の光波を生命霊力へ変換する「錬丹術」こそが、国家の歯車であり、法そのものだった。
案内された王宮の回廊は、天を衝くほど高い天井を擁し、等間隔に配置された「月光石」の淡い白光が、影を削ぎ落とすように空間を満たしている。
空気中には、古い書物と強い沈香を混ぜ合わせたような、肺の奥を圧迫する重苦しい香気が漂っていた。 廊下を歩けば、鏡面のように磨き抜かれた黒大理石が、素足の体温を容赦なく奪い去った。里の土の温もりとは無縁の、拒絶の温度。
すれ違う官吏たちは、糊のきいた黒色の法衣に身を包み、私という「商品」を、ただの計算すべき数値として一瞥する。彼らの歩法は、石板に刻まれた法典のリズムそのものだ。
「今日からお前が纏うのはこれだ。その薄汚れた布は捨てろ」
背後からついてくる無愛想な女官が、盆に乗せた、光を吸い込むような漆黒の長衣を差し出した。
(ーー拒絶は無意味だ。理解した。)
肌に触れた瞬間の絹の冷たさは、滑らかでありながら、死装束のように私の存在を縛り付けた。
壁一面を埋め尽くすのは、緻密な極小文字で刻まれた法典の石板。 その一画一画から放たれるのは、一切の揺らぎを許さぬ、凍てついた湖底のような黒き静寂。そこには、里で浴びた罵声のような生ぬるい感情など存在しない。 ただ、冷徹な秩序だけが、私の喉元に鋭い刃を突き立て、絶対的な服従を強いていた。
初日に連れて行かれたのは、王宮の北翼に鎮座する「鑑定の間」。 国が買い上げた「資源」の価値を天秤にかけ、序列という名の等級を魂に刻印する場所だ。
重厚な黒鉄の扉が開くと、肺を圧迫するような古い羊皮紙の乾燥した臭いと、高価な香木を燻した煙が入り混じった、権力の香気が鼻腔を突く。
正面の豪奢な黒檀の椅子に、一人の男が踏んぞり返っていた。 糊のきいた黒い法衣は、微塵の皺も許さぬほどに整えられている。胸元で鈍く光るのは、地位と権威の象徴たる銀の法典章。秋官長の名は消墨。後年、音無の手によってその片足を「法」の火炎で焼き切られる運命にある男である。
彼は、運ばれてきた音無を一瞥すると、鼻を突くような不快な衆波を撒き散らした。腐敗した肉に群がる蝿のごとき、粘着質な侮蔑の波動だ。
「……これが紫耀の里から届いた掘り出し物か。笑わせるな」
秋官長は手にした細い白樺の杖で、音無の顎を無造作にしゃくり上げた。
黒曜の誇りたる漆黒の髪はなく、不吉な紫の混じった出来損ない。左右で彩度の異なる歪な双眸。男が音無を「故障した道具」と見なしていることは、衆波を読まずとも明らかだった。
髪を掴み上げる指の節くれ、瞳を見下す傲慢な口角の歪み。秋官長の周囲を漂うのは、毒々しいまでに澱んだ、暗紫色の優越感だ。
(ーー他者の色彩だけで充足を覚える者が、劣等と断じた存在に、その能力のみで追い抜かれる時。果たしてどんな色を奏でるのか)
脳裏で精密な演算が開始される。音無の瞳に感情の灯火はない。ただ、秋官長の喉元の血管が刻む微細な脈動と、放たれる波の不規則な揺らぎを、氷のごとき冷静さで記録し続ける。
「おい、聞こえているのか、この土人形が」
秋官長は、音無の静止を「恐怖による硬直」あるいは「知性の欠如」と断定し、卑屈な笑みを深めた。
「ああ、そうだったな。こいつは耳も聞こえぬ、言葉も解さぬのだった」
秋官長は嘲笑と共に、音無の頬を杖の石突きで小突いた。
「どれほど稀有な術の才があろうと、この国では『法』に従えぬ者は家畜以下だ。せいぜい王宮の末端で、一生文字の石板を磨いていろ。お前のような混じり物が、黒曜の純潔な理に触れることなど、万年を待とうと有り得はしない」
ーー恥辱。失望。
言葉の波形が、音無の脳内で静かに反響する。未来を見通す脳裏の演算が終了した。
(ーーこの男が私よりも劣等だと気づいた時。彼は優越側の感情を完璧に理解している分、より鮮明な屈辱という逃げ場なき地獄を味わうだろう。気の毒なことだ)
音無は、秋官長の膝下を、ただ静かに見つめた。この時の私にはまだ、憐憫という感情があった。自分を蔑む人々は、例外なく私よりも極めて知性が低く、能無しの劣等に過ぎない。この指一つで容易に人の肉を断てる術理を知っている身からすれば、無知ゆえに牙を剥き、私を怒らせる危険を犯す者たちは、心底から同情すべき対象だった。
「不気味な小倅だ。さっさと連れて行け。……吐き気がする」
秋官長が吐き捨てた汚濁の波は、音無の足元に触れる前に霧散した。 音無は一言も発さず、官吏の嘲笑を背に受けながら、鏡面のように磨かれた大理石の廊下へと歩を進める。
窓から差し込む冬の陽光が、彼の影を長く、鋭く床に引いた。その一歩一歩が、将来この国の「理」を蹂躙し、全土を沈黙で統べるための、冷徹なカウントダウンであることを、まだ誰も知らない。
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