第四十八話 剣の片割れ
差し出された酒に我は沈黙して、ライゼンの顔を見た。血まみれ、痣まみれの顔である。傷からして大人数で暴行を受けたのだろう、と予想がついた。
無言の我にライゼンは「つれねえなぁ」と言って、瓶に口をつける。そしてほんの少し残った酒を一口に飲み干すと、ああ、と言った。
「酒はやっぱりいいな。痛みが消える」
「……」
酒に酔ってなどいるから、こんな目にあっているのではないのか、と我は思った。そうでなければ、店主のように毅然としていたのではないか、とも思った。だが、実際に目の前に居るのは酒に溺れたろくでなしである。
ライゼンは汚い袖で顔を拭いて、それで、と言った。
「お前さんは、なんで俺に会いに来たんだ?」
「……店主の事を聞こうとしたのだ」
「……へえ、兄貴の? 理由を聞いてもいいか?」
我は少し悩んだ。だが、ここで嘘をつく意味がない。余計に話が拗れるだけである。我は素直に事情を話すことにした。
「詳細は省くが、我には今、倒したい相手が居る。だが、我一人では到底歯が立たない。であるから、周りの人間の力を借りてそやつを倒したいのだ」
「……そいつぁ、つまり……兄貴と戦うって訳か。誰かは分からねえが……兄貴が剣を握るってことか」
ライゼンは確認するように言ったが、その目には確認とは別の色があるように思えた。驚くような、怒るような、何色とも捉えられない感情が巡っている。暫く我とライゼンの間に沈黙があって、ライゼンは小さく笑った。
「はっ……残念だが、そいつは無理だな」
「……何故だ?」
「兄貴はもう、剣を握らねえ。二度と誰も斬らねえ……あんたが願ってるようには、動いちゃくれねえよ」
その声には確信めいたものがあった。ライゼンはそっぽを向き、血の混じった痰を遠くに吐いた。そして酒の残りが無いことを何度も確認すると、自分の目の前に放り投げる。
我は何か地雷のようなものを踏んだ感覚があったが、そこからどうすればいいのかが分からなかった。明らかにライゼンは機嫌を悪くしているが、我にはその機嫌を直す手段がない。酒の一つでも手渡すのが最適なのだろうが、そうすればきっと、ライゼンとの会話は出来ないだろう。
暗い路地裏に身を寄せるライゼンは、深くため息を吐いた。続けて、乱雑に斑の髪を掻き毟る。
「……体が悪いのか」
「体が悪いだけだったら、どんなに良かっただろうな」
ライゼンはぼうっと目の前の壁を見つめている。ひび割れた砂岩の壁を見つめる目は、昔を思い出しているようだった。喜びと悲しみと、郷愁と懐かしさがぐるりぐるりと表情になって、最後に消える。
ライゼンは沈黙に、なぁ、と言った。
「……どうして俺が、酒を飲むか分かるか?」
「……生憎酒には疎い。惚けた言葉を言うことになるだろう」
「どうでもいいだろ、そんなの。どうせ俺は酔っぱらいだ。酔っぱらいに掛ける言葉なんて、気にするだけ無駄だろ」
続けて地雷を踏まないよう、我なりに考えて前置きをしたが、特に意味はなかったようである。我はため息を吐いて、言った。
「……お前は、何もかもを忘れたいのではないか? 酒を飲んで、記憶を飛ばして、暗い過去から目を背けようとしている。我はそう予感した」
我の言葉にライゼンは静かに笑った。そして、ゆっくりとその視線が我に向いた。伸びたままの髪と髭に囲まれた血塗れの顔から――二つ、青い瞳がこちらを見ている。静かな瞳だった。
死期を悟った鹿のような、どこか見覚えのある瞳である。それを見て我は悟った。ああ、この男は……あの店主と確かに兄弟なのだろう、と。
「合ってるが、違うんだ。惜しい。俺は確かに忘れたい。忘れたいが、それよりも――」
俺は俺を、壊したいんだ。ライゼンは笑った。それはこれまでで最も自然で、似合った笑みであった。我は過去の我が己の背後から迫っているのを感じた。ずっと昔から考えていたことである。
――酒を飲んで、何もかも捨ててしまえれば。
力も、出自も、立場も……あの人のことだって、全部忘れて蜥蜴に戻ってしまいたい。そうして消えることが出来れば、どれ程幸せか。けれども、我はそうならない。できない。我は酒で酔うことが出来ないのだ。逃避など、当然許される訳もない。
肩に手を置く過去の冷たさに震えながら、我は次の言葉を待った。
「俺はな……ずっと昔、強かった。兄貴はもっと強かったが、それでも俺は強かった。俺達は昔……軍隊に居たんだ。その頃はミルドラーゼとかエーテルホワイトとか、そんな国があんまりなくてよ……代わりに戦争が多かった」
「……」
「俺達の親父はろくでなしでな、よく俺と兄貴を殴った。母ちゃんは娼婦でよ、殆ど家に居なかったんだ」
今思えば、兄貴の方が強いのは当たり前かもしれねえな、とライゼンは言った。
「俺よりも何年間か長く、あの親父に殴られてんだ。そんで、俺が生まれたら、俺の分まで庇ってくれた。顔から血を流しても、兄貴は親父の前で泣かなかった」
すっと、仏頂面の店主が、子供の姿となって脳裏に浮かぶ。簡単に想像ができた。
「毎日が地獄みたいで……だからなのか分からねえけど、軍隊なんざ楽だったな。俺と兄貴は砂漠で戦った。敵が誰だとか、どんなやつらなのかとか知りもしねえで戦った」
「……」
「沢山殺した。百人に囲まれたって、俺達なら平気だったからな。生き残るためなら、どんなに酷いことだってやった。どうでも良かったんだよ。俺ら以外の人間がどうなろうったって、興味が無かった」
ライゼンはもう一度、頭を掻いた。もう顔からの出血は止まっていた。
「そしたらよ……いつの間にか、こう呼ばれてたんだ」
――双子の悪魔ってな。ライゼンはこともなさげに言った。誇る訳でも、卑下する訳でもなく、淡々と記憶を語る声色だった。
「俺達なら何でもできる気がした。誰だって殺せると思ってた。でもな……悪魔はもう、死んじまったんだ」
「……誰に殺されたのだ」
「…………誰にだろうな」
ライゼンの言葉は静かだった。まるで死人のような響きを持っていた。
「……あの酒場はな……元々、兄貴のものじゃなかったんだ」
急に変わった話の流れに、我は静かに耳を傾けた。酒に焼けた声が、気だるげに過去を語るのを、ひたすらに聞いていた。
「あの酒場には……アマルティアって女店主が居たんだ。そりゃあまあ、可愛い子でよ……まだ若いのに、両親が死んじまって、一人で酒場と組合をやってたんだ」
「……」
「あの子は、皆にはティアって呼ばれてた。いつも足元かカウンターにエリザベスが居たもんだ。ティアちゃんはよく走る子だった。あちこちから依頼をかき集めて、酒を集めて……忙しいだろうによく笑う子だった」
ライゼンは軽く笑った。昔を懐かしむ笑みである。華やかとは言わないものの、暖かな笑顔であった。
「俺達は、軍隊の休暇でミルドラーゼに居た。あんまり宿から出ねえ兄貴を引っ張って、あちこちに出掛けてよ……そんで最後に、あの酒場に入ったんだ」
多分、一目惚れなんだろうな、とライゼンは笑った。
「兄貴が入り口で動かなくってよ、こっち向いてニコニコ笑うティアちゃんを見て固まってたんだ。俺は『おお?』って思った。兄貴はびっくりするぐらい女に興味が無かったからな」
「……」
「だから、俺は兄貴を応援したんだ。何度も宿から引っ張り出して、適当な床屋だの美容室だのに兄貴を放り込んで……悪魔だった俺達は、分からないなりにどうにか、人間に好かれたくて頑張ったんだ」
ばっちりキメた兄貴はマジでカッコいいんだぜ? とライゼンは言った。誇らしげな顔を見れば、それが真実であることがわかった。しかし、ライゼンは続きを語らない。笑顔のままで固まっている。我の目にはそれが、この先を語ることへの拒否に見えた。
我は催促せず続きを待った。最悪、語られなくとも良いと思った。こうして路地裏で凭れるライゼンを見れば、悪魔の小さな恋がどんな結末を迎えたのか、用意に想像がつくからである。
「……でも――でも、駄目だった。兄貴は、俺達はどれだけ繕っても悪魔でしかなかったんだ。……店の中に、詳しいヤツが居たんだろうな。俺達の事を、俺達がこれまでやってきたことをティアちゃんに話したんだ」
「……」
「そしたらよ……当然、嫌われちまうよな。ああ、当たり前なんだ」
俺達は、誰だって殺してきた。女でも子供でも、関係なかった。ライゼンは笑みを崩していないが、その口元にやるせない感情を覗かせて、静かに歯を食い縛っていた。
「俺達に怒鳴り散らすティアちゃんに、俺は慌てたけど、兄貴は冷静だった。すぐに弁明しようとした。俺達にはそれしかなかったって、楽しんでた訳じゃないって言おうとした。けど、ティアちゃんは取り合ってくれなかった」
「……」
「後で知ったことなんだがな……ティアちゃんの両親は、戦争で死んだんだ。町で普通に暮らしてたら、軍隊が入ってきて無差別に殺された。赤ん坊だったティアちゃんは見逃されたらしいが……そんな訳で、ティアちゃんはどうしても俺達が許せなかったんだ」
無差別に誰も彼もを殺してきた悪魔が、そんな悪魔に両親を殺された女に恋をする。なんとも矛盾していた。釣り合っていないと思った。どの口をと蔑まれ、嫌われようが当然なのかもしれぬ。
「兄貴はどうしたらいいか俺に聞いてきた。生まれてから十七年、兄貴に本気で頼られたことは一度もない。だから俺はこれまでの全部を込めて、『仲直りに行け』って言ったんだ。どれだけ断られても、頭を地面に着けて謝れって」
兄貴とティアちゃんは結構いい感じだったから、本気で説明すればなんとかなると思ってた、とライゼンは言った。しかし、その言葉の続きに「でも」が入る。
「伝令が入ったんだ。ここから少し離れた場所に召集されて、俺達はまた、悪魔にならなきゃいけない。俺はまだ大丈夫だったが、兄貴はもう無理だ。一生懸命恋をして、人間になろうとしてた」
「……」
「だから、俺はその伝令を隠した。返信に、『兄貴は重い病気で行けない』って書いて、代わりに俺が一人で戦場に出ることになった」
俺は結局、召集の日まで隠し通した、とライゼンは言った。店主に仲直りを言い含め、自分は単身、戦場に向かったのだろう。己一人ですべてを背負い、これまでの兄への恩義を返すために、相当の無理をしたに違いない。
だが、ライゼンの顔は暗かった。
「……俺は悪魔だ。けど、兄貴に比べりゃ弱い悪魔だ。一人で歩くには、戦場は厳しすぎた」
「……」
「俺は、負けたんだ。周りを兵士に囲まれて、いつも頼りにしてる兄貴の剣が無くて、何処にも逃げ道が無かった。背中を守ってくれる誰かが居なかった。兄貴がいりゃ、道を剣一本で開いて、俺が笑いながらその道を守るんだが……俺一人じゃ、無理だった」
元々守りや受け流しを専門とする剣であるのならば、ライゼン一人で戦場に向かうのは愚行と言わざるを得ないだろう。受け流した隙を、誰かが突いてくれるからこその受け流しである。たった一人で受け流しを続けた所で、何の意味も無いのだろう。
「俺は捕虜にされた。手足を縛られて、敵に連れてかれたんだ。……でも、俺は五体満足でここにいる。それがどういうことか、分かるだろ?」
「……誰かが助けに来たのか」
「ああ……兄貴だよ。どうしてか俺の嘘を知った兄貴が、俺を助けに来たんだ」
嬉しいことの筈だろうに、ライゼンは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そんな顔のまま、ライゼンは続ける。
「お陰で俺は助かった。生き延びられた。……でも、兄貴はもっと別の事をするべきだった。ティアちゃんと仲直りをするべきだった。……なのに、兄貴はそうしなかった。逃げたんだ」
「……」
「兄貴のことだ。きっと、沢山考えたんだろう。けど、それで出した結論が逃げじゃいけないんだ。兄貴は俺に怒ったが、俺はそれよりも兄貴を怒った。生まれて初めて兄貴を殴った。もし俺が死んでいたとしても……きっとそのままなら、兄貴は悪魔を辞めることが出来たんだ。ティアちゃんと、幸せになれた筈なんだ」
筈、という言葉が妙に目立った。それが悲劇の合図であるような、予め引いてあった道に乗ったかのような音に思えた。
俺達はボロボロの体でミルドラーゼに帰った、とライゼンは言った。
「そこで、俺達が見たのは何だと思う?」
「……分からない」
「……空っぽのカウンターだよ。ティアちゃんは――殺されたんだ」
我は息を飲んだ。店主は、仲直りの道から逃げた。逃げたが、本当ならば戻れた筈である。外れた道から元に戻って、ライゼンの言葉に激励されながら、もう一度弁明が出来た筈である。だが、その機会はもう訪れなかった。
「誰に殺されたと……いや、分からねえよな。殺したのは、どっかの兵士崩れだよ。俺達が……双子の悪魔が暴れた戦場で生き残ったそいつが、仲間の復讐の為に――関係の無い女を殺したんだ」
「……」
「……棺に入ったティアちゃんの姿を見ることすら、俺達には出来なかった。もし出来たとしても、出来なかった。そんな……そんな都合の良いこと、出来るわけがねえんだ」
結果論であろうと、事実は事実である。ティアは、双子の悪魔への復讐に殺された。この二人が関わらなければ、幸せに生きていたのだ。関わったとしても、人を無差別に殺していなければ……そして、店主がしっかりと向き合ってさえいれば、悲劇は防げたのだ。
事実だけを抜き取れば……この二人が、遠縁でティアを殺したようなものである。ライゼンは苦しそうな顔をした。今にも吐きそうな青い顔である。
「俺達は馬鹿だった。自分勝手に人を殺した。殺した人間の事を何一つ考えなかった。殺した人間に家族がいることも、殺された人間の悲しみや怒りも……この時に初めて知ったんだ」
「……」
「その瞬間、俺達の体は重くなった。剣は、それよりも重くなった。命を殺すことが堪らなく怖くなって、そんなことを平気でやってきた自分達が怖かった。剣を握って相手を見れば、どうやって殺そうかって真っ先に考える俺自身が……怖かったんだ」
だから、とライゼンは口にした。その顔は青を越え、蒼白になっている。
「だから……俺は剣を振らない。兄貴も剣を振れない。俺は悪魔の俺が怖くて、そんな自分を忘れたくて……ああ、酒を飲んでるんだ」
「……」
「飲んで、飲んで、飲んで……壊れたいんだ。人殺しの悪魔になった俺を、もう二度と誰も殺せやしない役立たずにするために」
我はこの時になってようやく、店主の言葉を理解した。我がリサと大きく言い争い、家を飛び出したあのときに……店主は確かにこう言ったのだ。
――……悪いことは言わない。さっさと仲直りをしておけ。
その言葉が、どれだけの重みをもって放たれたのか。今ならばきっと理解できる。たった一回の仲直りから逃げ出して、これまでの全てを失ったからこその言葉だったのだ。
ライゼンはどうしてか、荒く息をしていた。激しい運動などしていないというのに、顔を強くしかめていた。それに対して、我が吐ける言葉は無かった。あるわけがない。
この二人の境遇は……どうにも我に似ていた。自分のことですらまともに抱えきれない癖に、他人をどうこうすることが出来る筈もない。
最早、どう力を借りようかと考えることが出来なかった。ただひたすら、この場に相応しい言葉を探して、我は何度も沈黙を吐いた。




