第三十三話 金色の日々、凄惨たる屈辱の日々
俺は……名前のない蜥蜴は、同じく名前のない洞窟で生まれた。人気のない上に広い洞窟は魔物に好まれてて、暗く湿っていた。
そんな中で、俺はたった一つの卵から産声を上げた。暗い世界から逃げたしたくて殻を引っ掻いて……そうして外に出てみれば、真っ暗だった。すぐに目が慣れたけど、周りには誰も居ない。
親はどこにも居なかった。それどころか俺の周りには砕けた卵が幾つかあって、いろんな色をした兄弟たちが柔らかい体を潰されて死んでいた。
何があったのかは分からないし、知りたくもない。けど、俺は小さな偶然で生まれてきた。ちょっとだけ卵の殻が固かった。それだけが俺をこの世に落としたんだ。
当然、生まれたばっかじゃ頭が働かない。状況整理とかを考えられる訳はなく、取り敢えず本能でここから離れた方が良いってことは分かってた。血の臭いがしてたから、直ぐに死体を狙うやつが来る。
急いでそこから離れたかったけど、同時に離れがたかった。自分一人で動くことに、本能的な怖さを感じたんだ。けどこのまま待つわけにもいかないから、よく知りもしない洞窟の中を一人で進んだ。
しばらくすると後ろからうるさい物音が聞こえて、俺の判断が間違ってなかった事がわかった。
それからしばらく洞窟を動き回って、誰にもバレないように頭を這いつくばらせて辺りを進んだ。ちらっと見た他の魔物は俺の何倍も大きくて、見ただけで勝てる見込みが無いのは分かった。
俺の体は弱かった。もしかしたら早く産まれすぎたのかも知れない。けど、そうしなければ死んでいた。
まだほんの少し濡れているような細身の体で、俺は俺が食えるような何かを探した。苔を最初に見つけて食おうとしたが、嫌な臭いがしたからやめた。
人間の手の平より少し大きい位の俺じゃあ、まともなものは食えなかった。洞窟の中は数えきれない位の魔物が歩き回ってて、常に殺し合いをしてた。
出来れば死んだ片割れの肉を一摘みでも欲しかったんだが、怖くてそんなことは出来なかった。見つかったら豆を潰すみたいに踏み潰される。こっちは牙も生え揃ってない幼体の蜥蜴だ。
それからあちこちに行ったけど、食い物にはありつけなかった。それどころか何度か魔物にバレそうだった。何でか最初は分からなかったが、尻尾を見て理解した。
俺の体は、最悪な事に金色だったんだ。神様の悪戯か、遺伝子の魔法か、生き残るのに一番向いてない体色だ。赤とか青なら、もしかしたら毒があるとか思われたかもしれない。なんなら黒だったら最高だし、紫なんて誰も食おうとしなかっただろう。
けど、俺は金色だった。
暗くても少し目立つような、最低の色。その上毒があるようには到底見られないから、腹ごしらえに食われてもおかしくない。どうしようかと思ったが、どうにかできるだけの頭はなかった。仕方無いから諦めて、出来るだけ目立たないように地面に張り付いた。
それでしばらくすると、食えそうなものを見つけた。死んだハエだ。誰にも見向きされずに地面にひっくり返ってる。俺は安堵してそれを食った。思い返すだけで鳥肌が止まらないが、その頃の俺にとってそれは随分とご馳走だったんだ。
それから、昼も夜も無い中を目的もなく彷徨よった。時々心臓を縮み上がらせながらゴミみたいなエサを見つけて食った。勿論生きてる虫も狙ったが、あいつらは速い。その上目が良いから、どんくさい俺じゃあ到底捕まえられなかった。
それから何日も経って、ようやく体がしっかりしてきたって時に、初めてしくじった。猫だか狐だかよくわからない魔物に見つかったんだ。思えば、慢心してたのかもしれない。壁とか天井とか、岩の隙間を全力で駆け抜けて、ようやく撒いた時には完全に息が切れてた。
本当に運が良かったと思う。どこかで躓けば間違いなく魔物の胃袋の中だった。なんとか逃げ切ったと安心してたら、次は蜘蛛の魔物に見つかった。残念ながらこいつからはうまく逃げ切れなくて、尻尾を根本から食いちぎられた。それでも必死に壁の罅に体を押し込んで、ようやく相手が諦めてくれた。
無くなった尻尾から血をだらだら流してると、外は絶対に歩けない。そんなことは恐ろしくてとてもできない。結局血が完全に止まるまで三日間、身動き一つせずに罅に体を埋めてた。正直怖くてもう外に出たくなかったけど、腹は当然空いてくる。
それに、血を多く失ったから栄養が必要だった。
貧血だかなんだかで、ビビりながらフラフラして、そこら辺を適当に歩いてると、また別の何かに見つかった。必死に後ろを振り返らずにさっきの隙間に逃げ込んだら、なんとか逃げきれた。多分狼かなんかの魔物だったと思う。
産まれてからずっと逃げてばかり、傷ついてばかりで、正直参ってた。どうすりゃいいのかも分からないし、もう痛いのは嫌だった。そんな泣き言言ってられるうちがマシだったって事に後々気がつくんだが、そのときは怖くて怖くて仕方がなかった。
金色の体とか、外を堂々と歩くとか、そういったことは強いやつだけができる傲慢なんだって事を、その時は痛いほど学んだ。結局また丸三日、怖さを空腹が上回るまで動けなくて、そのあとによくわからない虫の死体にありついた時は本当に喜んだ。
それからも何十回、何百回死にかけて、その度に生き延びた。生き延びたって言うと、なんか格好を付けすぎだな。運良く死ななかった。毎日毎日何かから逃げて、何日かに一度、怯えながら餌にありついた。
運が悪いと餌が全く無くて、動けなくなるくらいまで腹を空かしてた。その時は自分の指を齧ったり、そこら辺の石ころに噛みついたりして誤魔化して、なんとか死なないように生き延びた。
そんなクソみたいな生活が何ヵ月も続くと、まともな物なんて殆ど食ってないのに体がでかくなってきた。勿論良いことじゃない。体を維持するのにもっと食い物が必要になるし、骨格がでかくなるだけだから強くなる訳じゃない。ただ中身のないでかさだけが増えてった。
何よりも最悪だったのが、馬鹿みたいに目立つってことだ。体が小さくても死ぬほど目立つのに、更に目立ってきた。そんな傲慢を背負えるほど強くもねえのに、どんどん体だけは傲慢になってった。
余計餌を食えなくなって、余計死にそうになった。以前使っていた壁の隙間はもう使えなかった。逃げることばかりが上手くなって、けれどそんな事に悲しみとか悔しさを抱けるほど強くもないから……ああ、とにかく必死だった。
体がでかいと攻撃を避けるのにも一苦労で、よく下手をして流血した。
すると更に目立つ。更に食い物が必要になる。なんとか探しに出て、また怪我をする。そして最初に戻る。
最低の循環だった。それを続けたら死ぬのは俺でも分かってたから、洞窟の隅でひたすら怪我が治るまで絶食をした。意外なことにこいつはかなり有効で、爬虫類特有の代謝の低さでなんとか生き延びた。
そんな生活が続いてたある日、俺は閃いた。この金色の体が悪いのなら、色を変えてしまえばいいんだ。その頃は洞窟の中に岩だけじゃなくて、色んな石があることを知ってたから、その中の一つ……石炭に目をつけて、その粉を体に擦り付けた。するとどうだ、ビックリするぐらいバレねえ。
本当に、本当にバレなかった。金色から黒ってのは、それはそれはびっくりするぐらいの違いだ。食える餌の幅が馬鹿みたいに広がって、なんとか空腹を減らせた。でも当然、俺が強くなった訳じゃねえ。そうだ、俺は一切強くなってない。偶然の閃きと、石炭っていう魔法の石ころの力でなんとか生き延びられていたんだ。
けど、俺は慢心した。今までの反動かもしれない。ずっとずっと、この金色が嫌いだった。この金色を死ぬほど恨んだ。それを簡単に捨てられて、その先にはびっくりするぐらい悠々とした生活が待っていた。ってなると、気が大きくなるのもおかしくないかもしれない。
とにかく、俺にとってその瞬間は間違いなく人生の絶頂で、初めての全能感ってものを感じてたんだ。
するとまあ、勿論ずたぼろにされるわけだ。多分、あと少しで死ぬところだったと思う。ずっと前に見つかった、狼の魔物に見つかったんだ。その時は本当に少しだけ血が出てたんだが、舞い上がってた俺は、この黒い体なら大丈夫だ、と慢心して……ああ。
血の臭いを覚えられてたんだろうな。逃げても隠れても振りきれねえ。壁際に追い込まれて、横っ腹を噛みつかれた。死ぬほど痛いが、それどころじゃねえ。死ぬ。なんとか足をばたつかせて狼の顔を蹴って、それでどうにか牙が滑った。塗ってた石炭の粉もいい仕事をしたのかもしれない。
その後はもう無我夢中だった。だらだら血を流しながら走って、走って、走って、走った。俺の短い命の中でも最速で走った。覚えられる限りで一番狭くて複雑な道を完璧に通って、壁も岩も穴も使って移動して……それでようやく俺は逃げ切れた。
逃げ切れた……んだが、血が止まらない。思ったより大きく噛まれてたんだ。もう少し深かったら、走ってるうちに内蔵が全部溢れてたかもしれねえ。黒い体になって、本当に本当に少しだけ肉を体に付けられたのが命を繋いだ。
でも、このままじゃ死ぬ。生まれてきて初めての出血量だった。尻尾を食いちぎられたときよりも抜群に多かった。その上怪我が深すぎて肉までいってるから、治るまでに時間がかかる。
直ぐに貧血でくらくらしてきて、フラフラの体を引き摺って隅っこに隠れた。怪我した腹を押さえて丸くなって、眠ることなんて痛くて出来ないから、ずっと目を覚ましてた。
目の前が暗くなってきて、体が軽くなってた。それに、ビックリするぐらい寒い。洞窟の中ってのは血で噎せ返ってて蒸してたから、初めて寒さを知った。
本当に、幾つもの偶然に助けられて俺は生き延びた。けど、もう動けねえ。
体が重すぎる。これで何かに見つかったら本当に終わりだ。このまま動かなくたって死にそうなんだ。
だから、俺は耐えた。耐えて耐えて、死にそうなのを耐えた。誰も来ないことを祈った。神に祈った。神様なんて信じちゃいないし、なんならそんな奴の事を知りもしなかったけど、あれは間違いなく誰かに祈ってた。
三日、四日と過ぎて、七日が経った。なんとか血が止まったが、相変わらず動ける気がしねえ。そのくせもう限界だった。いつもならもう一週は我慢できた。けど、今は無理だ。血を流しすぎた。体の中身が足りない。体の中の栄養を全部使いきってしまって、それでも足りなかったんだ。
血が必要だった。栄養が必要だった。けれど、それを作り出すための物が、もう体のどこにもこれっぽっちとして残ってない。
それなのに。それなのにだ。ああ、神は俺を裏切った。産まれた初めから俺の事なんて一切救ってくれやしなかったのに、その癖俺を裏切った。信じちゃいないのに裏切られた。最低だ。
血溜まりの臭いを、遠くから嗅ぎ付けたみたいだ。見たこともない魔物が棍棒を持って、俺を見つけた。ゴブリンだった。必死になって逃げたせいで、知らない場所まで来てしまったのかもしれない。
目が合った瞬間に逃げようとしたが、逃げられねえ。無理だ。けど、そんなことも言ってられねえから、必死で足を動かした。
でもやっぱり、いつもみたいに足が動かない。自慢の逃げ足は根っこから腑抜けてしまって、思ったように回らなかった。そうこうしてる内に俺は追い付かれて、一発棍棒を食らった。
痛いどころじゃねえ。全身の骨が砕けたみたいだった。
なんて強いんだ、勝てない。血を口から吹き出したんだが、笑えるくらい少なかった。とにかく、普通じゃあり得ないくらいの量だ。俺はまるで、空っぽの布袋みたいだった。
もう、動きたくても動けない。死ぬのを待つしかない。殺される。
これまでの記憶がちっぽけな頭の中を巡って――ああ、と俺は思った。なんだ、そうでもないじゃないか、と。別に……別に死んでも良いじゃないか。何が悪いんだ。生きてて何の良いことがある? これだけ苦しんで、神様は何一つ俺に優しくしてくれなかったじゃないか。ろくなことがなかったじゃないか。
意味がないんだ。生きる意味が。必死にしがみつく物が、俺には足りなかった。
だから俺は金色の瞳で魔物を見つめて、その棍棒を見つめて、目を閉じた。もう、どうでもよかったんだ。身体中を走る痛みとか、穴が開いたみたいな空腹とか、それらからとにかく逃げたかった。ここじゃないどこかに生きたかった。
血まみれで、骨砕けで、空腹で。祈っても走ってもこの様で。惨めでしかなかった。笑えるくらい惨めだった。
そんな時にさ――声が……声が聞こえたんだ。それは走馬灯の一つじゃなくて、死にかけの幻聴じゃなくて、本当に聞こえた声だ。それは確かにこう言った。
「君、大丈夫か?」
凛と張った声だ。耳馴染みなんてない言葉と声だったけれど、どうしてか安心するような声だった。思わず俺は瞳を開けた。瞼ですら鉄みたいに重くって、それでもなんとか半開きにまでした目で、俺は見た。
ゴブリンなんて居ない。何処へ行ったかわからない。俺の目の前に居たのは、一人の女だった。
金色の髪、金色の角、金色の瞳。赤と黒の服を丁寧に着こなしていた女は、金色の瞳で俺を見つめて言った。今でも覚えている。夢にだって見る、その一言だ。言葉なんて知らなかったけど、どうしてか頭に意味は入ってきた。
「――む、君は。私の髪と同じ色だな」
俺にとっての『あの人』は……そう言ってはにかんだ。




