第三十四話 至天の魔王、金色の蜥蜴。
「その体では、大分苦労をしただろう」
柔らかい声で目の前の女は言った。どういうことだって思ったが、なんとか目線だけ動かして見ると、俺の体の石炭は剥げてた。多分、血溜まりに寝そべってたからだ。
そんな事を思っていると、意識が遠くなった。眠いのとは全然違う。体の中の力を無理やり引っ張り出されてるみたいな感覚だ。
これは死ぬな、と思って目を閉じると、その途端に体が軽くなった。次に生まれて初めて、羽に包まれたみたいな温かさがやってきた。びっくりして目を開けると、俺の体の傷は初めから無かったみたいに消えていて、思わず硬直しちまった。
なんだ、何が起きた。魔法なんて俺が知ってるわけも無かったから、その時はこいつが神様なのか、と思った。俺にとっての神様は、俺の傷が治ったのを見ると、次に体の石炭に気がついた。
「この黒は……石炭か何かか? ……成る程、目立つ金色を隠しているんだな」
落ち着いた声色で言われると同時に、瞳が合う。暗くたってわかる。言葉がでないくらい、綺麗な金色だ。宝石なんて見たことなかったが、もし宝石があるんだったらこんな感じなんだろうな、って思った。
「……ふふ、綺麗か。嬉しいな」
どうしてかは分からないが、この人には俺の考えてることが伝わるみたいで、少し驚いたみたいに笑った。俺は知っている。金色とか、赤とかで着飾れるのは、強いやつだけだ。つまり、この人はそれだけの傲慢を背負える強さがある。
大嫌いなこの金色の体がどんだけ地獄を見るのかを、俺は死ぬほど知っていた。だから、この人の強さも痛いくらいに分かった。
貴方は誰だ、と言葉が分からないなりに心で聞くと、ああ、名乗っていなかったか、とその人は軽く笑った。そして一拍を置いて、こう言った。
「私の名前は――アイン。アイン・ディエ・コルベルト。竜王の娘で、魔王だ。巷では、『至天の魔王』だなんて言われているよ」
至天の……魔王。意味だけはちゃんと伝わってくる。ああ、この人が俺達の王なのか。そうか、それじゃあ強いわけだ。俺みたいな蜥蜴とこの人じゃ、格が違う。吐息一つで殺されてしまうような、生まれた境遇だけで俺を嬲り殺しにできるような、そんな人だ。
俺はあまりにも恐ろしくなって、頭を下げた。すると魔王様は困った顔をして、言った。
「そんなに怖がらなくていい。私は君を害するつもりはないし、君を貶すつもりもないんだ」
そう、なのか。でも、だとしても……俺がとれる行動はなんだ? この人に命を救ってもらって、何か返せるものがあるのか? 俺のすべてをかけても、どう考えたって馬鹿馬鹿しい位の物しか返せなくて、だからといって礼を告げる言葉も知らない。
それをきっと心で聞いたらしい魔王様は、びっくりしたような顔をして小さな俺を見つめ、柔らかく笑った。
「いいんだ。お返しなんて、要らないよ。……ああ、でも」
もし、君が本当に私に何かを返したいと、そう思うのなら――
「強くなるんだ。強く、強くなって、そしていつか……私のことを助けてくれたら、それで"あいこ"というやつだよ」
そうか、強くなればいいのか。貴方にこの恩を返すのなら、強くなれば……。魔王様は爽やかに笑った。俺にとって手が届く筈もない、遥かな高みから見下ろして、俺に微笑んだ。
その瞬間、きっと俺には魔法が掛けられたんだと思う。そうじゃなきゃ、そのときの心の動きをどうやったって説明できない。
鮮烈で、流動する感情が俺の中にあった。
――憧れだ。
俺は憧れた。魔王様の強さに、その在り方に、そしてその優しさに憧れた。俺と同じ金色で、それでも堂々と笑う笑顔に……堪らなく憧れちまった。
魔王様は、さて、と言って話を切った。
「それでは、元気でな」
きっと魔王様は忙しいのだろう。その忙しさの合間で俺を助けて、貴重な時間を使ってくれている。それを知っていても、俺には聞かなければいけないことがあった。俺の一生分の勇気を振り絞って、俺の一生分の時間を魔王にねだった。
――魔王様。
「ん?」
――俺は……貴方のように、なれるか?
すると魔王様は俺の目を見て、迷うような素振りも見せずに言った。
「なれるさ。ああ、なれるよ。間違いない」
心に風穴を空けられたようだった。開いた穴から脈打つ何かが雪崩れ込んできて、俺は呼吸を失った。そうか、なれるのか。俺は……。
固まる俺に魔王はくすりと笑って、そして一歩近づいた。そして服の裾が汚れる事なんて気にもせず、俺の目の前にしゃがみこんだ。
魔王様はこう言った。
「……君に、おまじないを掛けてあげよう。魔王直伝の、凄いやつだよ」
そうして魔王様は俺の金色の肌にそっと触れて、言った。
「君に、名前を与える。君は……そうだな。……ああ――ヴァチェスタだ」
その瞬間、洞窟の中に金色の光が飛んで、俺の中に何か温かい物が流れてきた。それがなんなのかはさっぱり分からないけど、思わず目を細めてしまうくらい、それは優しかった。
同時に俺は悟った。そうか、俺の名前は……ヴァチェスタというのか。魔王様に付けてもらった、大切な名前だ。
俺が俺を見つけたのをしっかりと確認して、魔王様は俺に背中を向けた。
「元気でな、ヴァチェスタ」
見えていなくても、その顔が笑顔なのはなんとなく分かった。そうして、魔王様は目の前から消えた。けれども、俺の中には温かい物が残っている。
ああ、強く。強くならなくては。魔王様に貰ったこの名前に相応しいように……強く。魔王様は、なれると言った。確かに言った。ならば、なれるのだ。なるしかない。他に、俺が生きる意味はない。
――強くなろう。
いつか、あの人の隣に立てるくらい、強く。
それからは、もう無我夢中だった。生きるために生きるんじゃなくて、強くなるために生きた。勿論、俺は弱い。相変わらず何かから逃げて、ゴミみたいな食い物を漁って、底辺を生きていた。
そう簡単に変われるはずがないのだ。俺はそこらを歩いている魔物の何十分の一ほどの強さしかなく、親は不明で、穢れた血統を継いでいる。けれど、それでも……俺には確かなものがあった。確かな名前があった。
俺は魔王様にまじないを掛けてもらったんだ。水のように初々しく、血液のように滾る……憧れっていうまじないを。
俺は必死に生きた。あの人に近づけるように金色の体で、誰にもバレない場所で全身を鍛え、観察眼と冷静な思考ってやつを養い、そして挑戦した。
勿論、挑戦が成功することは無かった。今まで通りヘタをして血を流し、洞窟の隅で絶食をした。何度も、何度も、失敗した。数えきれない程に失敗をして、死にかけて、血反吐を吐いて、それでも失敗した。
本当の本当に死にかけた時もある。それでも、成果らしい成果は一切無かった。それでも、俺は挑み続けた。
生きた虫を狙い、弱そうな魔物に決闘を挑み、二足歩行に挑戦し、両手で石ころを使って陽動をしたり、道筋を考えて作戦を立てた。
その度に逃げられ、負けて、転び、失敗し、失策した。
そんな事をひたすら繰り返して、繰り返し続けて……いつの間にか、何ヵ月も失敗し続けた俺は――ある日、初めて勝った。
俺の尻尾を食ったクモと同じ魔物の頭蓋骨を、天井から振り下ろした石ころで砕いたんだ。初めての勝利だった。大きすぎるご馳走だった。急いでそれを胃袋に収めて、俺は二本の足で立ち尽くした。
やった。やってやったぞ。俺が……この洞窟の最底辺が、勝ったんだ。
その日から、段々と作戦が上手くいくことが多くなっていった。勿論失敗して返り討ちに合うことの方が多かったが、それでもなんとか勝つ時だってあった。
勝ってまともな食事にありつければ、体が強くなる。筋肉がついて、反応が鋭利になる。さらに素早くなって、より相手を狩れるようになった。
搦め手を恥知らずに使いまくって、小手先の手を打ち続けて、俺は強くなっていった。段々と食える魔物が増えていく。勝てる相手が増えていく。けれど、慢心だけはしなかった。
俺は俺の上を知っている。神様みたいな強さを持っている人を知っている。だからどれだけ強くなろうと自分が強いだなんて思わなかった。
戦って、負けて、勝って、食って。
そんな生活を、二年近く続けたある日……俺の体に変化が起きた。全身が溶けるみたいに熱い。けれど、不快な熱さじゃなかった。なんだか懐かしいような熱さで、妙に心地いい。
その日の夜、生まれて初めての夢を見た。誰もいない真っ白な空間に立っている夢だ。
誰も居ない筈なのに、俺の目の前から声が聞こえた。
『お前は、何になりたい』
低くて、掠れてて、そのくせ微妙に厳かなその声に、俺は迷わずこう答えた。
「あの人みたいになりたい」
分かった、と声は呟いた。夢が終わって目が覚めると、俺は魔物では無くなっていた。白魚みたいな白い肌に、両手と両足。五つの指で頭に触れてみると、髪があった。顔には目と鼻、口と耳がついている。
ああ、と俺は思った。
どんな原理かは知らないが、俺は大きく成長をしたのだ。すかすかな頭には、どこで知ったか分からない『進化』とかいう知識があって、どうやら俺はそれを成し遂げたらしい。つまり、薄汚い蜥蜴の魔物から、弱々しい蜥蜴の魔族へと、俺は生まれ変わっていたのだ。
金色の瞳、金色の髪、金色の鱗、金色の角。肉体はこれ見よがしに隆々としていて、よく分からないが多分顔もきれいだ。俺が望んだ姿、そのままだった。
そして、同様に――
「……あ」
声も出た。喋ることができる。けれども、喋る言語が分からなかった。言葉に触れたことがあまりにも無くて、これでは声を出しているだけだった。けど、不満はない。
俺は、俺が欲しいものを手にいれることができた。後は……後は、それを持って上に昇るだけだ。
言葉は、上に登りながら覚えよう。そう決めて、俺は洞窟の外へ踏み出した。より強くなるために、俺が目指す理想へ近づけるように、一歩。
魔族の姿を得ても、やることは変わらなかった。いつだって俺は挑戦者だった。魔物の上に立っても、魔族の中では下の下だ。だから、また戦った。俺に挑んでくる強大な魔物を捩じ伏せながら、手当たり次第に魔族へ決闘を挑んだ。
勿論、全敗だ。運良く殺されなかっただけ、という時もある。びっくりするぐらい歯が立たなくて、思わず笑いが込み上げた。
ならば、と俺は体を鍛えた。大岩を背負って山を登り、丸太を抱えて足腰に負荷を掛けた。
戦うことだけを、強くなることだけをひたすらに考えた。それだけが俺の存在証明で、生きる意味だから。あの人に追い付きたい。その一心だけで俺は戦って、負けた。今思い返しても、あの頃は戦っては負けている記憶しかない。より強い相手へ、より大きな敵へ。
戦っている内に何とか言葉を覚えたのだが、覚えた言葉は基本的に俺に向けられる罵倒や罵りばかりだったので、随分と俺の辞書は薄汚い物になっていた。丁寧な言葉遣いだとか、当然字の読み書きとかもできないし、粗暴な言葉ばっかりを覚えてた。
そんな生活を何年か続けたが、やはり壁は厚い。魔族は基本的に恵まれた血統の奴ばかりで、そこら辺の蜥蜴の俺では太刀打ちができないのだ。あいつらが言う『貴い血脈』だとか『生まれが違うんだよ』とかの言葉が死ぬほど嫌いで、だとしてもその言葉聞くときの俺は地面に伸びていたから、どうしようもなかった。
そもそも、俺みたいな屑が魔族になれただけでも奇跡のような物なのだ。他は竜族だったり、スライムの王族だったり、狼族の長だったりで、こちらは蜥蜴だ。
生まれつきの地力が違いすぎる。俺は見た目だけ竜人に似ていたが、実際は欠片ほども彼らに及ばず、随分と罵倒された。
『くたばれ紛い物が』
『気持ちの悪い異分子が』
『竜の真似事をして楽しいか?』
強くなっても強くなっても、上が居る。頂点は見上げられないほど上だ。俺の血みどろの何年間の上を、やつらは生まれた時から約束されていた。
何度も俺は自分の生まれを憎んだ。俺が、俺でなければ。もう少し良いところに生まれてさえいれば。
屈辱だった。どれだけバカにされようと、心が荒むことはないと思っていたが……この血脈の話をされては、口が開かなかった。
どうしてだ。どうして俺は、こんなにも卑しい。こんなにも無様なんだ。どうして神は俺にこんな仕打ちをしたんだ。
どれだけの努力を持っても、高潔な心を持っていても、過去だけは変えられない。消せぬ烙印のように絡み付いて、俺の両足を縛る。
俺は死ぬほど俺のことが嫌いで、俺じゃない誰かになりたくて、けれどもそんなことは絶対にありえない。無理なんだ。
どんなに馬鹿でもそれくらいは知っていたから、過去に希望を持つことなんて出来なかった。だから、俺は後ろを向けなかった。前を、未来を見据えることでしか希望を持てなかった。
それでもふと、歩いてきた道を振り返って、自分の中身に触れる度……言葉にできない感情が溢れてしまう。
それを誤魔化す為に俺は……我は己の身を偽って、こう名乗りを上げるんだ。
「我が名はヴァチェスタ! 誇り高き竜族の末裔である!」
正直、この名乗りがちゃんとした意味で通っているのか不安だった。他の竜族の名乗りを真似しただけだったからだ。意味も正直分かっていなかった。時々この名乗りさえ舌を噛んでしまう時もあったし、相変わらず言葉は苦手だった。
そんなことを何年かやっていると、多少は体が動くようになってきた。体の動き方を理解してきたっていうか……まあ、多少手足が動いた程度じゃ、魔族の奴等には傷一つつけられなかったけれど、それでも俺にとっては大切な成長だった。
その成長を続けるために、俺は戦った。何度も、何度も戦った。その分だけ負けて、死にかけた。手酷く全身の骨を折られて、唾を吐かれた時もあった。そんな時だって、俺は残った顎の骨で脛に噛みついてやった。魔族の体はしぶといくらいに頑丈で、手足が飛んだ位じゃ死ぬことはない。
それを生かして、何度も何度も戦ったある日……俺は、一人の魔族の男の足元に転がっていた。当然、手も足も出ずにこんな様になってるわけだが、俺を見下ろす男はじっと俺を見て動かない。荒い息を吐き散らして、俺は言った。
「何だ……て、てめ、え」
言葉と同時に体を捻って、五本に揃えた指を喉元に素早く叩き込む。いつもよく使う不意打ちだが、当然のように止められて手を握りつぶされた。なら、と握られた手を支点にして小さく飛び、男の顔に両足を打ち込んだ。捕まれた手を引っ張って、全身をぴんと伸ばした蹴りだ。
これは中々自信があったんだが、簡単に避けられる。自力が違いすぎるんだ。
蹴りを外して地面にぶっ倒れた俺を……いや、俺の目を、男はじっと覗き込んできた。気持ち悪い、真緑の目だ。唾を吐いてやろうとしたが、その前に男が口を開いた。
「お前、どうして戦ってんだ?」
「……あ?」
「噂になってんだよ。ずっと戦ってる雑魚が居るってよ」
俺は舌打ちをして、掴まれてない方の手で顔を殴ろうとしたが、簡単に避けられた。代わりにカウンター気味の拳が顔にぶちこまれたが、痛くない。
男がもう一度こっちを見てきた。相変わらず気持ちの悪い色の目玉だ。蜥蜴……蜥蜴人の魔族か?見た目には普通の魔族っぽいが、やっぱり元の種族の特徴は残っている。
折れた奥歯を吐き捨てる俺を見て、男は口を開いた。
「答えろ」
俺はその言葉に舌打ちをして……それで、小さく言った。
「……会い、たい……奴が、いるんだ」
「……強くなければ、会えないのか」
「会え、ねえよ。……そんなの、俺が、許せねえ」
男は俺の言葉を聞いて、何かを考えてから手を離した。俺の拳はぐちゃぐちゃで、血が吹き出している。ようやく自由になった腕をぐるぐる回していると、男が小さく咳払いをした。
「お前、強くなりたいんだろ?」
「あ? ……まあな」
さっき言っただろうが、ってそう口に出そうとしたが、それよりも先に男が口を開いた。その顔はよく分からないが楽しそうで、とはいっても不気味なものじゃなかった。
顔に書いてあるまま、面白いやつを見つけた、みたいな顔だ。
「それじゃあよ、俺の所に来てみるか」
「……どこだよ」
「……魔大陸遠征部隊、開拓班。魔王様の命令で、このだだっ広い大陸を先陣切って調べまわる、命知らず共の居る場所だ」
はっ、と俺は息を飲んだ。飲んだと同時に、考えて、考えると同時に頭を下げていた。折れた手を地面に着けて、頭も着けて、俺は言った。
「た、頼む! 俺も、そこに……そこに連れてってくれ!」
男がびっくりしたように一歩下がったが、知ったことじゃない。魔王様の命令で、ってことは、それを手伝えばほんの少し位は恩返しにはなるはずだ。なら、考えるまでもない。
男はしばらく黙って、入りゃ明日にでも死ぬかもしれねえぞ、と言った。
「それでもお前は――」
「うるせえ、今だって、同じだろうが」
「……クク、面白い奴だ。なら、後悔するんだな」
もう、お前は船に乗っちまったぜ、と男は言う。対照的に、俺は笑っていた。こんな情けない雑魚の身分だが、呆気なく潰される今の俺だが……それでも、魔王様に何かを返せるのかもしれない。あの人に、ちょっとでいいから近づけるのかもしれない。
だから俺は、喜んで船に飛び乗った。地獄の日々と、初めての仲間を手に入れることになる船へと。
その面舵が……絶望の嵐に向いていることを、一切知りもせずに。




