第百二話 眠るリサ
精神を統一しつつ街並みを眺めて十分程が過ぎた時、パシャパシャとリサが風呂から上がる音が聞こえた。少し待つと、部屋の隅にある扉が音を立てて開く。ちらりと一瞥すると、リサが風呂上がりの髪を白い布で乾かしながらこちらを見ていた。
健康的な肌は湿り気をもって上気しており、見慣れた茶髪はしっとりと肩に触れている。当然であるがいつものように後ろで括られてはおらず、普段より幾分か重い色合いの髪は自然に垂れていた。
あまり見ない……というか、初めて見たリサの姿である。思わず目を丸くしていると、リサは途端に眉を下ろして怪訝な顔になった。
「何?」
「……すまぬ。見慣れん姿であったから驚いただけである」
そ、とリサは軽く言って、ベッドへと腰掛ける。濡れた髪から雫が垂れぬよう、何度か布で髪を拭いていた。いつもの癖で無防備なその姿を見続けそうになり、我は早々に背を向けた。向いた視界には衣装棚がある。不自然にならない程度に息を吸って、我は棚を開いた。ああだこうだと服を買ってしまったが、どう組み合わせたものか……着たときを思い出して組むとしよう。
一番バジルの反応が良かった服を選び、我はどうしたものかと思った。リサが使っているような布がない。あるにはあるが、手拭いやそういった類いのものばかりである。
我は横目にリサを見た。リサは視線に敏感なようで、ちらりとこちらを見ると、納得したような顔をした。
「タオルなら備え付けのが向こうにあったよ」
そうか。ならば問題は無さそうである。我は服を抱えて風呂場へ向かった。途中に通りすぎたリサは口に輪を咥えながら髪を一纏めにしており、肩と足のよく見える無防備な服装である。
やはり、こうして見るとそこそこ整った顔をしているのだな、と客観的な事を考え、我はドアノブに手を掛けた。
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それほど広くない湯船に、ゆっくりと体を押し込める。規格が合っていないのか、膝を若干曲げなければ入りきらない。深さも微妙である。そして、当然だが尻尾は入らない。これに関しては適当に壁に凭れさせている。
風呂が小さいのは宿の格が云々と言えるが、我はその点をあまり気にしていない。それよりも気に障る部分があったのである。
最も気になるのは、宿屋という施設の都合上、風呂と便所が一続きという点だ。流石に布のカーテンで区切りはあるが、それを剥げばほぼ対角線上に便所がある。
空間を詰める必要があるというのは分かるが、なんとなく不愉快であった。我はカーテンできっちりと便所との区切りを付け、ようやく湯船で息を吐いた。
今日一日で色々な事があったが、どうにか落ち着ける瞬間を迎えることが出来たのだ。船の設備に比べれば不満は残るが、充分である。
壁に凭れさせた尻尾の先を小さく振って、我は考えた。
目的通り、オズワル支店には辿り着けた。先人と顔見知りとなり、冒険者となり、依頼を受けられる立場にもなった。欠片の主についてや、この国における白狼という魔物の存在、環境は把握した。協力者についても存在が示唆されている。
唯一気候が致命的な弱点であったが、魔道具によってそれも解決した。
ようやく、である。これで始まりだ。これまでの道のりは、この開始地点へ辿り着くまでの回り道に過ぎない。もうすこし賢い道もあったのだろうが、それをここで考えるのは野暮である。これから後十五日。今日を入れねば二週間が期限だ。それまでに我はルゥドゥールを狩らねばならない。百年を生きた狼を殺して、欠片を返して貰わねばならないのだ。
しかし今回の戦いは……正直言ってかなり厳しい。期限が極端に短いのもあるが、相手と環境が悪すぎる。ルゥドゥールを狩りたいと口に出して、この国の強者の何人が鼻で笑うかである。ストライク等の例外を除いて、一般にとって白狼という魔物は敷居が高いらしい。我は相対したことが無いのでなんとも言えぬが、余程手強い相手だろう。
だが、やるしかない。どんな手を使っても、目的を達成せねばならない。我には二年……正確には一年と何月という大きな期限がある。……とにかく、毎日何かしらの取っ掛かりを掴まねばなるまい。明日はまず冒険者組合に向かって、何か街中での依頼を受けるとしよう。
そこまで考えて、我はゆっくりと湯から上がった。体感ではそれほどでも無いが、長く湯船に浸かっていた。指に醜い皺が寄る前に出るべきである。
壁から突き出た引っ掛かりに垂れ下がる白い布を掴んで、我は体を拭いた。続けて用意した服に着替える。黒く硬い生地の長ズボン――穴は空けておいた――と白い長シャツ。シャツの上には青みがかったジャケットを着るのだが……このジャケットは冬用で襟が長く、なんと服の内側や襟、裾に黒い毛があしらわれている。これに関しては温かい以前にくすぐったいのだが、仕方があるまい。
最後にズボンを黒革の帯革で締めれば終わりである。
ズボンに穴を空ける作業が面倒であったので、手早くこのズボンにだけ穴を空けておいた。他はおいおいやるとしよう。我は風呂場の鏡で自分の姿に欠陥が無いことを確め、やはり美しいと一つ頷いて風呂場から出た。
風呂場から出ると、途端にリサの視線を感じる。左を向くとベッドがあり、その上で胡座を掻いていたリサが我を見ていた。
我と目があった瞬間に素早く視線が外れたことを鑑みれば、間違いなく見惚れている筈……なのだが、この女は我の思い通りにはならない。いっそそのまま生娘のように顔を赤らめれば分かりやすいのだが、リサの顔色は変わらぬ。
一応の確認を含めて、「おかしいところがあったのか」と聞くと、リサは渋々といった形で我を見た。
「別に。もう出掛ける服装だったから驚いただけ」
「……我は眠らぬからな」
「知ってる」
驚いて目をそらすとは中々意味不明なのだが、リサがそう言うのならば気には留めぬ。さて、と思いながら我はベッドを迂回し、椅子に腰掛けた。扉前のここが我の定位置となるだろう。
相変わらず動かぬリサを一瞥して、我はぱっと口を開いた。
「夕食は下で摂るのか」
「そうだと思う。もう行ってもいいんじゃない?」
「……そうするか」
正直、昼食とあまり時間が離れていないので空腹ではなかった。が、二人きりの無言というのは気まずさを掻き立てる。ならばさっさと食事を摂った方がマシである。
そんな考えの元に下の階へ向かった我らであるが……結論から言って、この選択は正解であった。一階の食堂で出された食事は思った以上に美味で、それについての話題が続いたのである。食堂にはこの宿に泊まる他の客も当然居り、彼らに食事を運んでいたのは一人の少女であった。
短い黒髪と快活そうな黒い瞳……予想であるが、ここの店主の娘らしき少女である。我は小太りかつ無愛想な店主との落差に驚き、余程母親に似たのだろうかと思った。若年ながら笑顔を振り撒いて丁寧な接客をしており、客の前で露骨にめんどくさそうな顔を披露する店主とは似ても似つかない。
恐らく身長からして、この宿に泊まる時に感じた視線も少女の物だろう。我らはそういった話題で多少の華を咲かせ、そうして部屋に戻った。
窓の外をちらりと一瞥すると、夕焼けを過ぎて夜である。勘であるが八時頃だろう。流石に寝るにはまだ早いはずだ。リサはベッドの上に座って本を読んでいる。恐らく日頃から夜はこうして過ごしていたのだろう。様になっているというか、慣れている。
我は手持ち無沙汰に呆然としていたが、本を読むリサを見て、日頃と同じく過ごせばいいのだと理解した。同じく、といえば勿論鍛練である。初めてから三月は経とうとしているが、成果は芳しくない。精々回数が数回伸びた程度である。だが、確かな成長はあった。停滞ではなく成長したのだ。それならば絶望することはあるまい。
鍛練を始めた我をリサがちらりと見たが、特に何を言うでもなかった。正直あまり目に入れられても困るので、実に助かる。
リサが本を読み、我が体を鍛える。一つの部屋で二つの時間が過ぎていき……そうして深い夜になった。我は疲労こそすれ眠気など無いが、どうやらリサは違うらしい。鍛練の最中に、リサが本を置いて背伸びをした。うぅん、と小さな呻きがその口から漏れて、リサが瞼を擦る。
普段は凛と吊り上がったリサの瞳は、人間的な眠気の前に緩んでいた。我はその姿を鍛練の最中にまじまじと見ていたが、すぐに気を取り直して視線を外した。普段は強気が第一印象のリサだが、ああして緩んだ顔をすると、その印象は薄まる。
リサは置いていた本を持ったが、少しと読まずに本を閉じた。続けてちらりと我を見る。気遣うような目であった。
「……どうした」
「え……うーん。……眠くなってきた」
「そうか」
我はぶつ切りにそう言った。どう反応していいかよく分からなかったのである。分からないなりに肯定の意を示すと、リサは何かを考える仕草をして、ベッドから立ち上がった。そしてベッドの両脇にある魔力灯に触れると、何かを弄る。
指先が何かを回し、放たれる光が弱まった。……成る程、我を気にして完全には消さぬのか。
「……我は夜目が利くぞ」
「……分かってるけど、真っ暗な中で色々やってもらうってのはちょっと……」
少しばかり心配性だが、それはそれでリサらしい。我はそうかと返して、鍛練を再開した。下に布を敷くなりして音は殺しているが、一応気にはしておこう。
リサがもう片方の魔力灯を弱め、続けて開いていたカーテンを閉める。そうしなければ朝日で強制的な目覚めを受けるだろう。
すべてを終えたリサは少しの間何かを考えて立ち止まり、我を見た。その仕草と顔に、例のよくわからない何かが紐付いていて、我は思わず口を開いた。
「どうかしたのか?」
「……何でもない」
「何でもないようには見えなかったが……」
「何でもないの」
一応食い下がっては見たものの、予想通りである。我が想像していた以上に人間の『何でもない』の力は強く、一度効力を発揮されれば踏み込むに踏み込めない。我が声を掛けたことで何かが途切れたのか、リサは深く息を吐きながらベッドに寝そべった。薄着のリサが眠気に目を擦りながら横になると、本格的に無防備である。
これは両親云々を関係無しに、上に上がったら殺すと言われる訳だ。薄暗い部屋になったせいか、我の視線はリサに勘ぐられることはなかった。代わりに「金髪」と声がして、我はいつものように返事をした。
「何だ」
「……寝込み襲ったら殺す」
「襲うわけがないだろう。我は人間の男ではない。散々に言ってきたつもりだが……」
「一応言っとかないとと思って……」
そう付け加えるリサの声は低かった。元々高い声ではないので、眠気で怠くなっているのだろう。リサの言葉を最後に会話が切れ、静寂の中に我の吐息と関節の軋む僅かな音が響く。我がしばらく無心で体を動かすと、すぅ、と音がした。驚いて動きを止めると、もう一度聞こえる。リサの寝息だ。
強気なリサにしては案外可愛らしく、見れば布団が呼吸にあわせて僅かに上下している。眠ったらしい。我はしばらくそれを見、頭を振った。リサが寝ようと、我がすることは変わらない。変わるべきではないし、変わるはずがないのだ。
ただ……そうは思っても、我は眠っているリサの顔を少しだけ見てしまった。見ると言っても不可抗力の延長線だが、我ながら何故そんなものに視線が引かれたのかと疑問だった。
深く考えず、我はため息を吐いた。止めよう。考えてもどうにもなるまい。我は布の上に腕を立てて、そして折る。少しでも筋力を水増しするため、全盛期に近づくためである。
深夜に一人、鍛練を続けて――そうして、我にとって二日目のアルベスタの夜が過ぎていった。




