日常の終わり
この物語はフィクションです。
「近日中、M市には近づいてはいけない。」
その日会社で囁かれていた妙な噂が気になって、俺は帰宅後もネットの海を渉猟していた。
M市はN県の中心地で、俺たちの住む東京市からはリニア新幹線で約30分と程近い。
「ゆうちゃん、お夕飯ができたわよ?」
ノックをして部屋に入ってきた愛子はしきりと俺のパソコンのウィンドウを覗き込もうとする。
「今行くよ。ああ、今日はちょっと仕事の続きがあってね。」
「あなたが家に仕事を持ってくるなんて久しぶりね。エロサイトでも見てるかと思ったわ」
「愛子だけで十分だよ。もみもみ」
「こら、いつも嫌だって言ってるじゃないの!」
「ははは、まあまあいいからいいから」
本気で嫌がっているようだった。
出産後の愛子はすっかり母の顔になっている。
でもスキンシップは取れるうちに取っておこう。
いつまでこの幸福が続くかどうか分からないのだから。
リビングでは産まれたばかりの望が柔らかなベッドの上ですやすやと寝息をたてていた。
まだ生え揃っていない髪を優しく撫でると、もちもちした頬を震わせて、眠りの中でそっぽを向いてしまった。
「さっきおっぱいあげたばかりなんだから、望を起こさないでね!」
「ごめんごめん、じゃあご飯食べようか」
最近の愛子は母親らしくなるとともにちょっとヒステリーじみてきて怖い。
俺の好きなハンバーグを中心に栄養バランスの摂れた料理が二人分並べられた食卓に着くと、たちまちリビングのテレビが自動的に起動し出した。
「ん?」
予期せぬ災害などの最も重要度の高い速報のみがこの設定にされていたので、実際にこの機能を確認したのは初めてだった。
情報の溢れているこの時代では、無数の情報から取捨選択を迫られる人々の労力を省くため、余程のことがなければ情報の認知が強制されることはない。
この時代では発言権より黙秘権が、知る権利よりも知らされない権利が人々に必要とされていたのだ。
「緊急速報です。N県M市のリニア駅で大規模な爆発があり、乗り合わせていた乗客を含む少なくとも90名以上が死亡。現場付近で見つかった犯行声明と見られる文書からは、東京市を含む主要都市リニア駅での同時多発テロを仄めかす記述が見つかったため、市内の全駅では厳戒態勢が敷かれるとともに、予告の為された都市の住民にはきわめて異例となるテロ予告による緊急速報命令が政府により発令されました。繰り返します……」
淡々と読み上げられた原稿の静かな暴力で、眠っていた望が泣き出した。
「あら、のんちゃん大丈夫よーっ」
何かが動き出している。
大変なことになったので、愛子にもこの話はできないと判断した。
泣く望をあやすために、揉まれたのと授乳で大分大きくなったおっぱいを咥えさせようとする彼女を見ながら、俺は職場の妙な噂について深入りすべきかどうか決めかねていた。




