「あなただあれ?」
『あなただあれ』
急いで病院に駆けつけて、やっと目を醒ました愛子に言われたのがそれだった。
「先生、愛子の状態を…教えてください…!」
聞きたくない。
まるで死刑宣告をされるみたいな沈黙に呑み込まれそうになる。
「車に跳ねられたショックで脳に記憶障害が出ています。ただちに命に別状はありませんが、壊死した脳細胞を移植手術で補った方がよろしいかと思われます。」
「それで愛子の記憶は元に…戻るんでしょうか?」
「記憶のメカニズムは非常に複雑です。残念ながら現代の科学を以てしましても、失われた記憶と失われていない記憶、今保持されている記憶とこれから思いだされる記憶との境目を見極めるには、被験者の内的な体験を客観的な言葉にしてもらいながらの、地道な脳細胞記憶マップの作成が必要とされます。例えるなら、箱の内側から施錠された記憶の鍵穴があり、その鍵は箱の中にある。その鍵を外側から開けるには、鍵穴の様子を丁寧に確認しながら、別の鍵を作るしかないのと同じことです。人間のなかで脳細胞から記憶が引き出され、五感のスクリーン上に再生される形式は、外部から見れば暗号化されているのです。単純な記憶なら別ですが、一般的には記憶の解読には高額な器具を使って、長い時間を掛けなくてはなりません。長々と説明致しまして恐縮ですが、結論としましては、元の記憶が戻るかどうかは今の時点ではまったく分かりません。」
涙が滝のように溢れて来た。
愛子と過ごした楽しい記憶が走馬灯のように駆け巡った。
「ただし」
その医者は続ける。
「新しい記憶を焼き付けることは比較的容易にできます。あなたの記憶を使って、ということになりますが。壊死した脳細胞を取り除き、そこにあなたの記憶を転写した新しい脳細胞を移植するのです。あなたがやるべきことは、彼女との思い出を出来るだけ思い出すだけです。記憶を転写するかどうかはさておき、脳細胞自体の移植には、救命用人工知能が86%の高い割合で支持しています。どういたしますか?」
走馬灯のなかでも、俺の聴覚だけは異様に冴えていた。
崖っぷちの思考で頭をひねる。
「もう過去の記憶は戻らないかもしれないんですよね?」
「ええ。戻るとしても、いつ戻るかは分かりません。」
今の愛子は俺との記憶をきれいさっぱりなくしている。
そしてこれからもなくしたままかもしれない。
記憶は膨大なものだ。
俺の記憶を申し訳程度に焼き付けるのは、俺のエゴでしかないんじゃないか?
そんな洗脳のような真似はできない。
以前と同じようにはもう俺を愛せない愛子に、今そんな記憶を押しつけるのはあまりに酷だ。
待つしかない、でも、待ったところで、俺も愛子も報われるかなんて分からない。
「今夜一日だけでいいです。考える時間をいただけないでしょうか…?」
それが俺のようやく捻り出した決断だった・・・
???「もう、ゆうちゃんったら意気地なしねっ!」
俺「!?」
???「ゆうちゃんの考えてること大体分かってるわよっ。あなただけの記憶であたしを染めるのが怖くなったんでしょ?」
俺&医者「!?!!??!?」
車に轢かれたのも、頭を強打したのも、本当だったらしい。
だが記憶喪失は愛子のいたずらだった。
説明されたように医者も愛子の言動から記憶喪失を診断しただけだったのだ。
誰も嘘をつくはずのない場面でつかれる嘘は簡単に真実になってしまうものだ。
医者にこっぴどく怒られて、愛子の脳細胞の補充だけして、俺たちの日常は無事帰って来た。
「ゆうちゃん大泣きしてたから、あたし愛されてるなって実感できたよっ///」
やれやれ、さて物語の最後に、この2090年では、交通事故を防止する技術も格段に進歩し、よほど予測不能な動きを見せない限り、GPSとレーダーを駆使した車の自動予測機能がほとんどの事故を未然に回避するので、国内の自動車事故件数は一年間で二桁にまで減少していたことは補足しておこう・・・