00話 プロローグ
如月理沙は、笑って流すのがうまかった。
声をかけられたら、誰であってもまず相手の目を見る。
名前を呼ばれたら、話しかけていいって思わせる顔を作る。
冗談を振られたら、冗談っぽく返す。
困ることを言われても嫌な顔はしない。
笑っておけば場は崩れない。
いつの間にか、そんなやり方が身についていた。
昼休みの終わりかけ。
机の上にはノートやお菓子、飲みかけのペットボトルが散らばって、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
あたしの席のまわりには何人かの男子生徒が集まっていた。
「如月さんてさぁ、彼氏とかいないの?」
「えー、いないよー?」
笑って返す。
否定しすぎず、乗りもしない温度で流す。
「マジで? 如月さんならすぐできそうなのに」
「そんな簡単にできたら苦労しないよー」
「え、可愛いのにもったいな。じゃあ俺、立候補しとこっかな」
周りから「おいおい」と笑いが起きる。
「いや、俺マジだって」
「なら俺も候補入れてよ」
「増やすなって」
「まずお試しで一回とか」
「じゃあ俺も付き合いたい」
冗談の形をしたまま、次々と声が重なっていく。
嫌だって言えば、たぶん一度は止まる。
けど、そのあとに「冗談なのに」って空気が残る。
相手が傷ついたような顔をして、周りが気まずそうに笑って、最後にはこっちが「ごめん、そんなつもりじゃなくて」と言わなければいけなくなる。
そこまで見えてしまうから、強くは言えない。
笑って流せば、その場は終わる。
あたし以外は、誰も嫌な思いをしないで済む。
軽い空気のはずなのに、気持ちだけが重かった。
机の下で、指がスカートの布をつまんでいた。
気づいて、そっと離す。
(……笑っとこ。それが一番いい)
「もー、みんなしてまたそういうこと言うー」
明るい声。
いつもの顔。
あたしの笑顔は、今もちゃんとできている。
そのときだった。
あたしの横の窓越しの廊下を、誰かが通り過ぎようとした。
視線をほとんど上げず、そのまま通り過ぎていく男子生徒に見えた。
次の瞬間。
「……嫌がってるだろ、気づけよ」
足は止めない。
声も小さい。
誰かを責めるような熱もない。
低い声が、通りすがりにこぼれただけだった。
あたしのまわりの笑い声が、ぴたりと止んだ。
彼は振り返らないまま、廊下の先へ歩いていった。
何事もなかったみたいに、姿が消える。
「……え、別に冗談じゃん」
「なんだアイツ」
「B組の松前だよ、松前真咲。なんか暗いヤツ」
さっきまでの軽いノリが、ひとつ外れたまま戻らない。
自分に向いていた視線が、少しずつ散っていく。
「いや、ほんと冗談だって」
「如月さんモテるからさ〜」
誰かが無理に場を戻そうとする。
でも、もうあたしの耳には遠かった。
(松前くん、ていうんだ……)
名前を知っただけ。
たったそれだけなのに、少し距離が縮まった気がした。
さっきの言葉が頭の中でくり返される。
低い声でぼそっと。
『嫌がってるだろ、気づけよ』
少ない記憶で、彼の普段の姿を思い出そうとした。
よくイヤホンをしていて、誰とも積極的に話さない。
目立たない人だったはず。
(……助けてくれた)
普通なら、見て見ぬふりをする場面だったはずだ。
むしろ関わらないほうが当然で。
なのに、松前くんは通り過ぎるついでみたいに助けた。
心臓の音がまだ速い理由は、それだけじゃない。
(なんで……? あたし、困った顔なんてしてないのに)
あの人は、歩きながら気づいていた。
立ち止まりもしなかった。
笑ってごまかしていたのに。
誰も気づいていないと思っていたのに。
あたしはちゃんと笑っていた。
なのに、あの人は気づいた。
嫌がっていたことを。
笑ってごまかしていたことを。
周りが冗談だと思っていた空気の中で、あたしが息苦しくなっていたことを。
ただ一言ぼそっと言って、そのまま行ってしまった。
だから余計に、声だけが残った。
(……こういう人、いるんだ)
胸の奥で何かが動いた。
うまく言葉にできない感覚。
でも確かに動いた。
低くて、短くて、そっけない声。
でも、あの場ではっきり、自分が嫌がっていることを拾った声。
もう一度、廊下のほうを見た。
姿はない。
(……松前真咲)
名前を心の中でくり返した。
まだ話したこともない。
どんな人なのかも、ほとんど知らない。
その名前だけが、やけにはっきり残った。




