小さな正しさ
※この物語はフィクションです。
あなたが観測するまでは。
朝。
宮島悟は、ホームに立っていた。
通学時間。
人の流れは一定で、誰も周りを見ていない。
スマホ。イヤホン。無表情。
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悟は、何もせずにそれを見ている。
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昨日書いたノートが、頭に残っている。
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『できてしまう』
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電車が近づく音。
風が吹く。
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その時だった。
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前に立っていた男の足が、わずかに滑る。
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バランスを崩す。
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体が、線路側に傾く。
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「っ——」
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周りの誰も、まだ気づいていない。
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悟だけが、それを見ている。
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時間が、少しだけ遅く感じる。
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「……」
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考えるより先に、意識が動く。
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“倒れない状態”
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それを、想像する。
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男の体が、途中で止まる。
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不自然な角度で。
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そして、ゆっくりと元の位置に戻る。
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「……あれ?」
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男は、自分で体勢を立て直したと思っている。
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周りも、気づかない。
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何も起きなかったように、電車が入ってくる。
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悟は、その光景を見たまま立っている。
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「……」
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少しだけ、息を吐く。
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「……助かった、よな」
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誰に言うでもなく。
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答えはない。
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ただ、結果だけが残る。
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“何も起きなかった”という結果。
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■
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昼。
講義中。
窓の外。
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強い風が吹いている。
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校庭の端。
小学生くらいの子どもが、ボールを追いかけている。
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その先。
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車道。
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「……あぶな」
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悟の視線が止まる。
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子どもは気づかずに、そのまま走る。
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車が来ている。
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ブレーキは、間に合わない距離。
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悟の目が、細くなる。
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「……止まれ」
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小さく言う。
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違う。
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「“当たらない”」
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その方が正しい。
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瞬間。
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車の動きが、ほんのわずかにズレる。
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子どもと、すれ違う。
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接触しない。
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そのまま通り過ぎる。
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「……」
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子どもは何も気づかない。
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ただ、ボールを拾って戻る。
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運転手も、気づかない。
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悟だけが、見ている。
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「……」
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何も起きなかった。
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また。
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“何もなかったこと”になる。
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帰り道。
コンビニ。
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レジ前で、財布を開いた女性が立ち止まっている。
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「……すみません、ちょっと足りなくて」
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申し訳なさそうに、商品を戻そうとする。
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店員も困った顔をしている。
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周りは見ていない。
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悟は、少しだけそれを見る。
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「……」
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ほんの一瞬。
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“足りている状態”
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それを、思い浮かべる。
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女性が、もう一度財布を見る。
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「……あれ?」
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小銭が、一枚増えている。
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本人も理由が分からないまま、支払いを済ませる。
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「ありがとうございました」
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普通のやり取り。
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何も起きていない。
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悟は、それを見届ける。
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「……」
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外に出る。
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夕方の空。
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風が吹いている。
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「……悪くないな」
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小さくつぶやく。
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胸の奥が、少しだけ軽い。
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人を助けた。
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誰も気づかない形で。
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誰も困らない形で。
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「……これなら」
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少し間。
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「問題ないだろ」
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自分に言い聞かせる。
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その瞬間。
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世界が、わずかに“静かになる”。
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風が止む。
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音が遠くなる。
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悟は、ゆっくり振り返る。
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誰もいない。
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だが。
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“見られている”
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あの感覚。
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評価でも、否定でもない。
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ただ、観測されている。
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「……」
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悟は、目を逸らす。
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「……別に、いいだろ」
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小さく言う。
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返事はない。
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ただ、世界はそのまま続く。
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何も起きなかったかのように。
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少しだけ、正しくなっただけで。
——この物語は、あなたに観測されたことで成立しました。




