この世は観測されるまで存在しない
※この物語はフィクションです。
あなたが観測するまでは。
「この決定は——なかったことにする」
空調の低い音だけが、会議室に流れている。
誰も座っていないはずの席に、老人が一人、静かに腰を下ろしていた。
年齢は分からない。
ただ、そこにいるだけで、空気の温度が一段下がったように感じる。
向かいに座る男が、手元の資料に目を落としたまま口を開く。
「しかし、それでは説明が——」
言葉が、途中で止まる。
ペンを走らせていた別の男の手も止まり、ページをめくる音が消える。
時計の秒針だけが、規則正しく動いている——はずなのに、どこか進んでいないように見えた。
老人は、ただ一言だけ言う。
「問題は、確認されていない」
それだけだった。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が“そうだったこと”に変わる。
「……そうでしたね」
先ほどまで言いかけていた男が、小さく頷く。
「記録にも残っていませんし」
「ええ、そもそも問題など——」
誰も疑問を持たない。
さっきまで確かにあったはずの“何か”が、最初から存在しなかったかのように扱われる。
老人は、何も言わない。
ただ、そこに座っているだけで、すべてが“整う”。
昼。大学の講義室。
ざわついた空気。スマホの光。ペンの音。
宮島悟は、開いたままのノートを前に、窓の外を見ていた。
何も書いていない。
隣の席の男が、体を傾けて話しかけてくる。
「なあ、昨日のニュース見た?」
「どれ?」
「ほら、あの政治のやつ。結局なんもなかったらしいぞ」
悟は少しだけ考えて、肩をすくめる。
「“なかった”ってさ」
間を置いて、続ける。
「誰も見てなかったら、最初から存在してないのと同じだよな」
隣の男が笑う。
「何それ、哲学?」
悟は答えない。
ただ、窓ガラスに映る自分の顔を一瞬だけ見る。
講義の途中、ふと音が途切れた。
教授の声が、途中で切れる。
「——つまり、現代社会においては——」
その続きが、聞こえない。
ざわめきも、ペンの音も、すべて遠くなる。
悟はゆっくり瞬きをする。
次の瞬間、音は戻っていた。
誰も気づいていない。
昼休み、食堂。
テレビが流れている。
「本件については、確認できる資料が見つかっておらず——」
どこかで聞いたような言い回し。
悟はトレーを持ったまま、小さくつぶやく。
「またか」
その瞬間、テレビ画面がわずかに揺れた。
ノイズが走る。
ほんの一瞬、見知らぬはずの老人の顔が映った気がした。
気のせいかもしれない。
すぐに画面は元に戻る。
周りの誰も、反応しない。
帰り道。
信号待ちの交差点で、スーツ姿の男たちが話している。
「価格は調整済みで」
「上の了承も取れてます」
「記録の方も、処理してありますので」
聞こえてはいけないような言葉が、普通に流れてくる。
悟は、ほんの少しだけ視線を向けた。
その瞬間、風が止む。
車の音も、人の足音も、遠くなる。
一人の男が、不自然に言葉を切る。
「……いや、この話は」
短い間。
「なかったことにしましょう」
他の男たちが、迷いなく頷く。
「そうですね」
「その方がいい」
話題が切り替わる。
さっきまでの会話が、最初から存在しなかったかのように。
信号が変わる。
音が戻る。
風も吹き始める。
悟は、何も言わずに歩き出した。
夜。部屋。
スマホの画面を見つめる。
さっきの話に似た内容のニュース。
『問題は確認されていません』
指が止まる。
「……さっき、あったよな?」
画面が一瞬だけ遅れる。
表示と現実の間に、ほんのわずかなズレが生まれる。
悟は無意識に手を見た。
指先が、ほんのわずかに光った気がした。
瞬きをする。
何もない。
ベッドに倒れ込み、天井を見る。
白い。やけに白い。
「……まあいいか」
小さく息を吐く。
「どうせ、戻るし」
部屋の電気が、ほんの一瞬だけ明滅する。
その刹那——
悟の背後に、誰かの気配が立った気がした。
振り向く前に、消える。
何もいない。
——この物語は、あなたに観測されたことで成立しました。




