第一章 4-1
「リリィ?」
一体もう何刻経っただろうか。
始めの頃は耳を塞ぎたくなるほど激しかった妻の呻き声が次第に弱々しくなってきたことに、エゴールは急に胸騒ぎを覚える。
だって、赤ん坊はまだ頭の先すら見えていないのだ。
「リリィ、大丈夫か!」
エゴールは必死になって彼女の手を握りながら声を掛ける。
……なんて冷たい手だ。
顔色も悪いし、唇がどんどん蒼くなってきている。
このままではまずい。
しかし、助けを呼ぼうにもここは農地の端なのだ。
農奴の身分では、医者を呼ぶことなどできはしない。
廃材を組み上げて作った小屋に柔らかい藁を敷いて、ありったけの薪を焚いて湯を沸かしてみたものの、それ以外ろくな準備も出来ずに妻のお産が始まってしまったのだ。
しかも、リリィは昔から身体が丈夫な方ではなかった。
出産となれば、命の危険が伴うことは百も承知だった。
それなのに、自分の子を産みたいと言ってくれた言葉が嬉しくて、そのか弱い身体に子を成したのは誰だ?
「全部僕が悪い」
エゴールは震える手で頭を抱える。
「君が側にいてくれるだけで幸せだったのに! 神様どうか彼女を連れていかないで下さい!」
そう叫んだ途端、妻の睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと開かれたその瞳は、しばらく虚空をさまよってからゆっくりとエゴールの瞳を捉えた。
もしかしたら、もうあまり良く見えていないのかもしれない。
「……たの……いじゃ……い」
「っ?」
何か呟いたのか?
エゴールは浅く息をするリリィの口元に急いで耳を寄せた。
「あなたの、せいじゃ、ない……」
「!」
「子供が欲しい、と、言ったら……あなたは、真っ先にわたしを、心配してくれた……それでも産みたかった……わがままね」
「ああ、わかった。無理に喋らなくていい」
蒼い顔で必死に微笑もうとする妻の姿に、エゴールは涙が溢れて止まらなかった。
不意に膝が冷たく感じて視線を落とすと、膝を濡らしていたのは涙ではなく、赤黒い血の海。
気がつけば、リリィの股の間からとめどなく血が溢れており、辺り一面の藁がぐっしょりと濡れそぼっていたのだ。
それは、あまりにも絶望的な光景で。
「リリィ。もう大丈夫だ」
エゴールはまだ乾いている藁をかき集めた塊を毛布に包み、胸の前に抱きかかえた。
「無事に生まれたよ、元気な男の子だ」
「っ? ……産ま、れたの?」
「ああ。良く寝ているよ」
やはり見えていなかったのか。
「疲れただろう? 君も少し眠るといい」
「そう……良かった、本当に……」
リリィは掠れた声でそう言うと、安心したようにゆっくりと瞼を閉じていった。
「おやすみリリィ」
***
半日ぶりに小屋の外に出ると、夏の夕陽が辺り一面を朱に染めていた。
エゴールは静かに歩きだす。
ひょっとしたら、という想いもあったが、冷たくなった妻の腹を切り開くなんて出来なかった。
彼女は良く頑張った。
今はもう静かに眠らせてあげよう。
道すがらリリィが好きだった白い花を二輪摘んで、小川のほとりまでやってきた。
これは何て言う花なんだろう。
何度も教えてくれた気がするのに、どうしても思い出せない。
彼女が楽しげに話していると、つい見惚れてしまって話が頭に入ってこないんだよな。
エゴールは朱に染まった水面を眺めながら、川縁に腰かける。
リリィは暖かい夏の間、裸足になって川に入るのが好きだった。
身体が冷えるから、といくら言っても『夏は短いのよ、楽しまなくちゃ!』と聞く耳を貸さなくて。
結局、風邪を引いて何度寝込んだことか。
「ふ」
無邪気に水の中を跳ねる彼女の笑顔を思い出して、エゴールは小さく微笑んだ。
――『短い人生なのよ、楽しまなくちゃ!』
「本当に君は……いつも僕の言うことを聞いてくれないんだから」
小川の緩やかな流れに、摘んできた二輪の花を流す。
愛するリリィと、それから、産まれてくるはずだった赤子の分だ。
涙も枯れ果てて窪んだ瞳で、エゴールはぼんやりと花の行方を目で追った。
二輪の花は、付かず離れず、ふわふわと楽しげに流れに乗る。
「お」
しかし、そのうち一輪が脇に流されて川縁に引っ掛かってしまった。
こんなの何の意味もないことはわかっている。
けれどエゴールは無意識に立ち上がり、その花を拾いに行った。
「?」
そこで、気づいた。
花の側にもっと大きなものが引っ掛かっていることに。
近づいてみると、どうやら木箱のようだ。
と言っても、収穫した作物を入れるような板木を適当に打ち付けた箱ではなく、とても緻密な彫刻が施された、見ただけで高級とわかる代物。
エゴールはそっと引っ掛かっていた花を川の流れに戻すと、その木箱を陸に引き揚げた。
見た目よりはるかに重い。
水を吸っているせいか?
それとも中に何か詰められているのかもしれない。
見慣れない金具の開け方に苦戦しつつ、恐る恐る木箱を開けてみると。
「こ、れは……!?」
中に入っていたのは、赤子だった。
戸惑いのあまり硬直していたエゴールだが、すぐにその小さな口元に耳を翳す。
……良かった、生きている。
上等そうな毛布にくるまれて、すやすやと寝息を立てている。
けれど、かなり痩せこけていた。
毛布をはだけてみれば、あばらの浮いた胴がなんとも痛々しく、皺の寄った腹の皮膚はつまんでも元に戻らないほどに乾いている。
「?」
そのとき、赤子が薄く目を開けた。
見たこともない美しい金の瞳に、エゴールは思わず息を呑む。
赤子は虚ろに薄目を開けたまま、微動だにしない。
この子は寝ていたわけじゃない。
泣く体力もなかったのだ。
エゴールは咄嗟に赤子を抱えて走った。
正義感でも同情でもない。
ただ、一日に二度も目の前の命を諦めるなんて御免だったのだ。




