第一話 走れ、光秀
――拝啓、御屋形様。
あなたは一体、どこにおられるのでしょうか。
なんとか追っ手との距離を引き離した頃には、空は不吉なほど赤く染まっていた。
俺たちは山道の脇にぽつんと建つ、今にも崩れそうな廃屋へ転がり込んだ。
喉の奥が焼けるように熱い。
肺が千切れそうなほど激しく上下し、吸い込む空気は喉を削るやすりのようで、吐き出す息にはどろりと鉄の味が混じった。
視界がチカチカする。
足の感覚はとうに失われていた。
草履は片方脱げ、泥にまみれた足袋の底からは、剥き出しの肌が石や枝を拾って悲鳴を上げている。
それでも、遠くから聞こえてくる馬の蹄の音や、木々を揺らす鎧の擦れる音が、鼓膜の裏側にこびりついて離れない。
いつ、また見つかるかわからない。
止まれば、死ぬ。
その本能的な恐怖だけが、鉛のように重い体を無理やり突き動かしていた。
「十兵衛様。ここで、しばし身を潜めましょう。替えの草履もございます」
声をかけてきたのは、五十代半ばほどの男だった。
顔つきは岩のように厳めしく、背筋はぴんとしている。
たぶん、光秀の家臣なんだろう。
「……あの、さ。今さらなんだけど、俺ってなんで逃げてるの?」
そう尋ねた瞬間、男は射抜くような視線を向けてきた。
「十兵衛様、何を申されますか!追っ手の気配は、まだ近くにございますぞ」
「いや、俺、昨日まで高校生だったし。この時代のことなんて、マジで一ミリも知らないからさ……」
「……このような折に、戯れを申されるのはお控えくだされ。笑えませぬぞ」
周りの男たちが、不安げに顔を見合わせる。
「殿は、何を申しておられるのじゃ」
「いつもの殿とは様子が違うぞ」
「ものの言いようも、まるで異国の者のようではないか」
(やばい、不審者を見る目だこれ。クラス替え初日に自己紹介でスベった時より気まずい)
その瞬間、頭の中に無機質な声がよみがえった。
『正体が露見した場合も、即終了となります』
廃屋の隙間から、ひんやりとした風が吹き込む。
遠くでは、鳥の鳴き声が山々にこだましていた。
まずい。
このままだと、歴史が始まる前に俺の人生が終わる。
「す、すまぬ。走り続けたせいか、少し頭がぼんやりしておるのだ。気にするな」
必死に周りの口調に合わせたつもりだったが、冷や汗が止まらない。
男はしばらく俺を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「左様でございましたか。……御心労も、いかばかりかと存じます」
俺が全力でうなずくと、男は声を落として続けた。
「道三殿が長良川の戦いに敗れ、そののち明智城も義龍方に攻め落とされました。我らは斎藤義龍方に追われる身。もはや美濃に、十兵衛様の居場所はございませぬ」
戦国時代って、負けたら終わりじゃないんだな。
負けて、城を焼かれて、それでもなお殺されるまで追われるのか。
明智光秀の人生、ハードモードすぎないか。
「まじか……」
思わず独り言が漏れた。しまった、と焦ってももう遅い。
「まじか、とは?」
「いや、その……『誠か』と言おうとしたのだ。舌が回らなくてな。はは……」
「左様。これは、命のやり取りにございます。ゆめゆめお忘れなきよう」
(いや、余計に怖いわ! ガチのやつじゃん! 歴史の教科書、もっとこう、キラキラした武勇伝とか載せとけよ!こんな泥臭いサバイバルが待ってるなんて、聞いてねぇぞ!)
――歴史なんか覚えたって、俺の人生には一ミリも関係ねぇだろ。
昨夜、親友のアッキーにぶつけた言葉が、ブーメランみたいに突き刺さる。
もし、こんな目に遭うと分かっていたなら、少しくらい勉強しておけばよかった。
……いや、普通はこんなこと起きないけどな!
「……わかった。案じていても、始まらぬということだな」
自分に言い聞かせるように呟いてから、俺は周りを見回した。
「皆、すまぬ。俺は少し混乱しておった。だが、ここで死ぬわけにはいかぬ。とにかく、越前まで逃げ延びよう!今はまず、ここで息を整えるぞ」
男たちの表情が、ぱっと明るくなった。
「おお……」
「殿がお戻りになられたぞ」
「左様。十兵衛様は、こうでなくては」
いや、戻ってはいないけどな。
明智光秀……。
あんたはどういう人だったんだ。
あんたにも、こんなに慕ってくれる人がいたんだな。
中身が完全に別人だということが、チクリと胸の奥を刺す。
けれど、今それを白状したら即終了だ。
俺は、さっきから一番よく話してくれる年配の男を見た。
「ところで……あんた、名前は?」
「彦右衛門にございます。十兵衛様、いかがなされました。……もしや、お忘れで?」
彦右衛門の目が、鋭く細められる。
(まずい、また疑われてる。)
「わ、忘れるわけなかろう! 呼びにくいから、もっと短い名はないかと思ったのだ。……よし、今日からあんたは『爺』と呼ぶ!親しみやすいだろ?」
「じ、爺……にございますか?」
困惑する彦右衛門を見て、少しだけ肩の力が抜けた。周囲からも、
「はは……」
「殿らしい」
と、小さな笑い声が漏れた。
昔から、距離の詰め方だけは雑だった。
アッキーだって、最初は俺が勝手にそう呼び始めた。
……あいつ、今頃なにしてんだろう。
「じゃあ、爺。悪いけど、しばらく頼む」
「はっ。この命に代えましても、お守りいたします」
(いや、重い! この時代の返事、重すぎる! もっと、『了解っすー』くらいのノリで守ってくれよ!)
「ところで爺」
「はっ」
「その越前って、どんな場所なんだ?」
爺は、少し安心したような顔で答えた。
「越前は、美濃の隣国にございます。峠を越えれば辿り着けましょう。朝倉義景様がお治めになっており、戦乱も比較的少のうございます」
「へえ……」
「土岐様とも縁があり、我らが身を寄せるには、もっとも都合のよき土地にございます」
「なるほど……。今の俺たちには、そこしか行く場所がないってことか」
(朝倉義景様に土岐様……ね。どっちもわかんねー。これ、どうにかなるものなのか……。せめて『織田信長』くらい、俺でも知ってる名前を出してくれよ……)
俺は、廃屋の窓から覗く茜色の空を見上げた。
夕闇が迫る空気の冷たさと、微かな火の粉のような光の粒。
信長に会うどころか、まずは生きて越前へ辿り着かなきゃいけない。
――拝啓、御屋形様。
あなたは、どこにおられるのでしょうか。
あなたを見つけるまで、どうか生きていてください。
「ところで爺」
「はっ」
「今日の飯はどうするんだ? 腹が減りすぎて、もう胃袋が背中にくっつきそうなんだけど」
爺は、悲しげに目を伏せた。
「……十兵衛様。我らは落ち延びる身。銭も米も、もはや底を突いております。今宵は、月を眺めて耐え忍ぶほかありませぬ」
「……マジか。月食って腹膨れるわけないだろ。俺は仙人か!」
前言撤回。
御屋形様。
どうか早く、出てきてください。
じゃないと俺、謀反を起こす前に、道端で餓死します。




