第零話 謀反、はじめました。
——拝啓、御屋形様。
どうか一刻も早く、俺に謀反をさせてください。
「というか、俺に謀反なんて無理に決まってんだろぉぉぉ!」
ただいま、絶賛逃走中。
名は明智光秀。
よりによって、日本史上もっとも有名な裏切り者の名前を背負わされてしまった高校生の虚しい叫びが、戦国の突き抜けるような青空へと吸い込まれていく。
◇ ◇ ◇
ことの始まりは、昨夜のことだった。
この日まで、俺はどこにでもいる普通の高校生だった。
坪井智明、十七歳。
成績は下から数えた方が早い。歴史の小テストで「本能寺の変」を「本能寺の恋」と書き間違え、親友のアッキーに腹を抱えて笑われたような男だ。
そのアッキーこと明田信央と、昨日、大喧嘩をした。
「だから言っただろ。トモはいつも、その場のノリで動きすぎなんだよ」
学生寮のダイニング。換気扇の回る音に、どこかから漂うカレーの匂い。
アッキーが呆れたように言った。机の上には開きっぱなしの日本史の教科書がある。
赤ペンで囲まれているのは、最悪なことに本能寺の変のページだった。
「うるせぇな。歴史なんか覚えたって、俺の人生には一ミリも関係ねぇだろ」
吐き捨てた瞬間、アッキーの瞳からスッと色が消えた。
「……関係あるよ。知らないまま生きてたら、お前はいつか、大事なものの意味にも気づけなくなる」
「説教かよ」
「心配してるんだよ」
その真っ直ぐな言葉が、当時の俺にはひどく重荷だった。
「うるせぇな! お前はいつも上から目線なんだよ!」
そんな言葉をぶつけて、俺は部屋を飛び出した。
ほんのささいな、くだらない喧嘩だった。
学生寮の冷たい廊下。背後で重く響いた、ドアの閉まる音。
そこまでは、はっきりと覚えている。
なのに。
次に意識を浮上させた時、俺は見知らぬ天井を見上げていた。
鼻を突く、古い畳と土埃の匂い。
障子を透かして刺し込んでくる、刺すように鋭い太陽の光。
身体を圧迫するような、妙に重苦しい着物。
そして枕元には、鈍く光る一振りの刀が置かれていた。
「……は?何これ。ドッキリ?それとも夢なのか?」
昨夜の説教の続きだろうか。
呆然とする俺の耳に、部屋の外から届いた低い声が響いた。
「十兵衛様、お支度を」
……今、十兵衛と言ったか?十兵衛ってまさか、あの——。
——明智十兵衛光秀。
聞き覚えがあった。
昨日、アッキーが何度も教科書を指さして口にしていた、あの不吉な名前だ。
脳裏に、断片的な知識が浮かんでくる。
本能寺の変、織田信長。
主君を討ち、三日天下で散った男。
「……いやいや、冗談だろ」
肌を撫でる空気の質感があまりにリアルで、嫌な予感だけが加速していく。
その瞬間だった。頭の中に、不釣り合いなほど明るい電子音が響いた。
『——システム起動。現代へ帰還する条件を設定します』
「は?」
『織田信長に謀反を起こしてください』
「は? え? 信長って、あの信長か?」
教科書に載っている、あの歴史上の怪物。
確か、『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』の男だ。
絶対に短気だし、少しでも機嫌を損ねれば首が飛ぶ。そんな直感が背筋を凍らせる。
そんな男に、謀反?
できるわけがない。
俺が青ざめている間も、脳内に響く無機質な声は無情に言葉を重ねた。
『織田信長が裏切られる歴史上の機会は、計十回』
十回。
不覚にも、一瞬だけ思考が逸れた。
意外と多いな、と。
十回もチャンスがあるのなら、どこか一回くらい、掠めることくらいはできるかもしれない。
……けれど、そんな風に考えた俺が甘かった。
戦国時代は、想像よりもずっと生臭くて、夏の湿り気を帯びた風はひどく物騒な匂いがした。
『十回の機会をすべて逃した場合、即終了となります』
「即終了って何!? 切腹か!? やっぱり切腹なのかよ!?」
『正体が露見した場合も、即終了となります』
「いや、待て待て待て!」
無理だ。
絶対に途中でバレる。
……いや、その前に斬り捨てられるのがオチだ。
遠くで雨の気配が立ち上り、湿った風が頬を撫でる。
ようやく理解した。
これは命を懸けた、とんでもなく理不尽な無理ゲーなのだ。
帰る方法は、ただひとつ。
織田信長に、謀反を起こすこと。
けれど、この時の俺はまだ知らなかった。
俺が放り込まれたこの時間軸において、明智光秀はまだ信長の家臣ですらない。
それどころか、斎藤家の内紛に巻き込まれ美濃を追われた直後の、ただの無一文の浪人だということを。
「まず、信長に会うところからかよ!」
叫んだ次の瞬間、襖が勢いよく撥ね飛ばされた。
「十兵衛様!斎藤方の追っ手がそこまで来ております!」
「追っ手!?」
「お早く!このままでは越前へ落ち延びることも叶いませぬ!」
襖の向こうから地を這うような怒号と、荒々しい足音が響く。
気づけば俺は、草履を片方どこかに飛ばしたまま、初夏の美濃を全力で駆けていた。
背後からは、鉄の匂いを纏った武士たちが鬼の形相で声を荒らげ、どこまでも追いかけてくる。
「十兵衛がいたぞ!逃がすな!」
もし、一生のお願いが使えるなら、間違いなく今だった。
部活でも、なんならシャトルランでも、こんなに走ったことはない。
(つか、草履が片方だけで山道は無理ゲーだろ……!)
背後から響く怒号を振り切るため、足の裏に刺さる小石の痛みに耐えながら、俺は必死に山道を駆け抜けた。
「待て、十兵衛!」
「待てと言われて待つやつがいるかよっ!」
俺は走りながら、どこまでも高く、遠い空を仰いだ。
重く湿った雲の間からは、一筋の光が差し込んでいた。
俺の長すぎる謀反計画は、こうして最悪の形で幕を開けた。
——拝啓、御屋形様。
どうか一刻も早く、俺に謀反をさせてほしいのです。
けれど、その前に!どうか、今すぐに!!
俺を、あなたの家臣にしてください。
じゃないと、謀反を起こす前に死ぬ!!




