358 拉致監禁事案が発生しました
その日はとても風が冷たく、強く吹き荒んでいた。
時期は俺たちがイジリーの村を発つ直前の事で、未だシェーン子爵は自身の身が拉致のターゲットとなっている事も当然知らない。
朝から義母たちのお出迎えをした後、彼は趣味にしている鷹狩に出かけるかどうか窓の外を見やりながら逡巡していた。
「……これは昼過ぎにかけて雪がまたチラつく気がするな」
風に弄ばれてガタガタと震えるガラス窓の外は、どんよりと薄暗い雲に覆われていて陽の明かりも大地を照らしていない。
鷹狩に出かけるためには天候に恵まれていなければ飼育しているハヤブサを空に放つ事ができない。
ハヤブサにとっても視界が不明瞭だし、天気が優れていなければ獲物となる小動物たちも巣の外に出てくる事が無いからな。
「残念ながら天気が回復するまで鷹狩はやめにするとしよう。この辺りの森では野生のコカトリスが生息しているというから、楽しみにしていたんだけれどね」
実質的な盟主連合軍の運営はマリアツンデレジアや女領主たちの合議によって行われている。
兵站業務の担当は連合軍の主計官奴隷というよくわからない肩書のモエキーおねえさんとその実家が担当しているし、河川とリンドル往還の輸送に従事しているのは現在のところダアヌ夫人派の商会だ。
戦力としては恐ろしく役立たずのリンドル兵を鍛え上げる訓練をしようというのも無駄なあがきだし、仮にそんな風に思いついたところで貴族軍人の教育を受けていないシェーン少年には差配は無理だった。
となれば、仮初めの盟主に過ぎないシェーン少年の日常は非常に退屈なものである。
「そういう事でしたら。気晴らしに街へ繰り出して、商店を見物するのがよろしいかと思いますよ」
「馬鹿も休み休みに言えよ。こんな片田舎にある日突然湧いた様な商店街に、何か魅力的な物産が並んでいるとは思えないね」
失禁して退場したままの官憲ホイヤに代わって、女の使用人がそんな提案をした。
確かに一棟貸しきりの宿屋に籠りきりでじっとしていても楽しいことは無い。
リンドル宮殿で政務に当たっていた頃は、朝に夕にと街の商人や官僚たちが登城して、会見ばかりの生活だったシェーン少年である。
けれどここは他人の領地だから、訪ねてくる人間も最低限の公務での事。
大概はマリアツンデレジアかアレクサンドロシアにお伺いを立てた後、決済の終わったものを少年が追認するために運ばれてくるだけだ。
「まあ食事ぐらいは気晴らしに外で済ませるのもいいかもしれない。ケイシータチバックが義母さま付きになってしまったので、この宿での食事は退屈でならないからな」
飯も不味ければ酒も不味い。
リンドルのブランデーで育った少年からすると、アレクサンドロシアちゃんが本領から大量に持ち込んでいる皮かすの残ったぶどう酒など口に合わなかったのだろう。
新市街にいくつか並ぶ食堂であれば、まだ各地から運び込まれた食材を使って上等なものが食べられる。
「ホイヤはどうしている。まだ気絶しているままなのか」
「確かホイヤさんは下着を交換するのに下がっておりますよ。呼んできましょうか?」
「いやいいさ……」
あの男はビックリするぐらい使い物にならないばかりか、連れていると禍を呼び込む様な気がして放逐しておく事にしたらしい。
リンドル宮でそれなりに忙しい生活をしていた合間に、配下を連れてお忍びの散策をした事は何度かあった少年は、どうせ魅力的な物産などあるはずがないと口にしながらも、密かに楽しみにしていたはずだね。
◆
それにしても。
ツジンが悪巧みをしているタイミングで外出を思いつくのは最悪としか言い様がない。
けれども年頃の少年が、担ぎ出されただけの仮初めの旗頭として過ごしているのは退屈でしょうがないのもよく理解できた。
俺がそれぐらいの年齢だった頃は、暇を持て余しては学校帰りにゲームセンターに入り浸っていたし、空手道場の帰りがけには無意味に買い食いをして遅くまで遊びまわっていたものだ。
両親には夜遊びの度に空手稽古の後にどこへ行っていたんだとこっぴどく怒られたものだが、中学生になるかならないかぐらいの年齢とは、そういうものである。
ある意味で政務から解放されている今、シェーン少年にとっても自由に過ごせる時間だったんだろう。
少年は護衛の騎士と使用人の女をひとり連れて宿屋を発つと、商店の並びを幾つか冷やかしながら時間をつぶして食堂に向かう事にしたのである。
そうして俺たちの送り出したエルパコ、あるいはシャブリン修道院到着後すぐにも飛ばした魔法の伝書鳩が届くより以前に、ツジンの工作員たちによる接触が行われた。
新市街に幾つかある食堂というのが、俺たちの懸念している敵の工作員がアジトにしていると思われる娼館の立ち並ぶ通りに存在していたわけだから、指令さえ出た後ならば容易だったのだろう。
「な、何だお前は。僕は娼婦などに用事は無いぞ」
雪かきをしていた市井の人間たちの中から、ふらりとお坊ちゃまを通せん坊したひとりの女がいた。
見るからに安い薄着のおべべの上から、無理やり外套を羽織った様な姿の娼婦である。
目深にベールを被っているものだから表情は知れないが、口元は焦っていたそうな。
今にして思えばそれも演技に過ぎず、女がツジンの一味であった事は間違いないが、その時のシェーン少年には情報が無かった。
「そのお姿を見たところ、何れ名のある高貴な身の上の方と存じますっ」
「どかないか女! このお方をどなたと心得る。盟主連合軍の総帥にしてリンドル子爵、シェーンさまであらせられるぞ」
「やはりお貴族さまで間違いないのですね。追われています、どうぞわたしをお匿いくださいっ」
身重のアレクサンドロシアちゃんは普段街を行き来するにも近頃馬車を使っていた。
けれど出来上がりつつあるささやかな市街地に過ぎないゴルゴライでは、馬や馬車を使うほど広くはない。
目抜き通りを曲がってちょっとした裏筋を抜ければ食堂まであと少しというところで、怯えた顔の娼婦が有無を言わさない様にしてシェーン子爵の背中に逃げ込んだのである。
「追われています、どうかお助けを!」
「どういう事だ?!」
「ただわたしを買ったお貴族さまの風体をしてくだされば、それで助かります。しつこい戦士さまに言い寄られて困っているんです!」
あまりに急な事で動転していた少年は、護衛の兵士や使用人と顔を見合わせた。
普段のお忍び視察といったところで、まさか子爵さまの少年が娼館の立ち並ぶ色町付近を散策する事が無いからな。
工作員の女はそんな適当な理由をでっち上げて、いかにも助けを求めるフリをして娼館の中にでも誘い入れようと考えたのかも知れない。けれど、
「そこで一体何をしているのかしら! ここはあなたの様な高貴な身の上の方が、あまり逗留していては格好のつかない場所であるけれどっ」
背後からそんな凛とした声を投げかけられて振り返ってみれば、そこにはおませ少女のラメエお嬢さまの騎乗姿が飛び込んできたのである。
たまたま警衛の兵士たちを率いて、交代で街中の巡視中だった。
「ら、ラメエお義母さま」
「シェーン子爵、まさかその娼婦を買うおつもりだったのかしらね!」
「とんでもございません。実は子爵さまが、この女がしつこい戦士に言い寄られて困っていると助けを求められていたところなのです」
あわてた兵士のひとりが言い訳をして、あらましを説明する。
さすがにラメエお嬢さまもそんな疑いを持っていたわけではないので、すぐにも衛兵に目配せをして娼婦を引き立てようとしたけれど、
「わたくしどもはちょうど、近くの食堂まで外食のために出かけていたところでして」
「ふうん。本当なの?」
「は、はい。こちらのお貴族さまにお助けを求めたところでした……」
「そういう事ならお前たち、すぐにもその娼婦を保護して番所までお連れして差し上げなさい。旦那さまの留守中、ゴルゴライの治安を取り締まるのも妻の務めだわ。もう安心よお姉さん」
ありがとうございます、などと殊勝な言葉を口にしながら、女は舌打ちした事だろう。
たまたま通りかかった巡回中のラメエお嬢さまに助けられて、拉致のための最初の敵の接触は阻止されたのだ。
運が良かったと言えるが、それはここまでの事だろう。
辺境は嵐の様な天候に見舞われ、徐々にその荒れ模様はゴルゴライに近付きつつあったけれど。
それでもシャブリン修道院を飛び立った魔法の伝書鳩は、いったん高く空に舞い上がったのちに乱れる空域を抜け出して、無事にゴルゴライの鳩舎がある領主館に到着したらしかった。
けもみみが必死で早馬を走らせるよりも早く、それは少年が昼食を終えた昼下がりの事だった。
◆
「シェーン子爵、シェーン子爵はいるかしら?!」
宿舎に怒鳴り込んで来たのは、先ほど新市街でシェーン少年とばったり顔を合わせたばかりのラメエお嬢さまである。
亡き母譲りの甲冑をドレスの上に纏った彼女が、サルワタ貴族の紅マントを靡かせながら少年の居室へと飛び込んで来たのだ。
「きみはラメエお義母さまか。どうしたんだ、そんなあわてて?」
「全裸卿より至急伝よ! 旦那さまからあなた宛に、しばらく外出を謹んで警備を厳重にする様、文を預かっているわっ」
ドカンと居室の扉が開かれると、少年の視界に飛び込んで来たのはラメエお嬢さまとマリアツンデレジアだった。
「義母さままで?! いった何があったんですか」
「とにかく緊急事態ですのよ。ラメエさん、例の文を」
「わかりましたわっ」
マリアちゃんに頷きを返したラメエお嬢さまは、執務机で書類の束と格闘をしていた少年のところへまっすぐガチャガチャと音を立てながら前進だ。
すると驚いた使用人たちを代表して、官吏ホイヤが前に出る。
「ここは盟主連合軍の旗頭にしてリンドル子爵領の若きリーダー、シェーンさまのプライベートルームですよ! 例え御台さまでも、許可なく何人も子爵さまに近づく事は許されませんっ」
「ホイヤ、ラメエ卿はシェーンさまの義母上のひとりだから問題ありませんわ」
「しかしそれでは規律というものが」
「ホイヤはしばらく黙っていろ! ラメエお義母さま、文とはいったい……」
面倒なホイヤを黙らせて起きながら立ち上がったシェーンお坊ちゃまが、息を切らせながら向かい合ったおませ少女に質問した。
「伝書鳩にしたためられた伝文だから詳細は分からないわ。ブルカ領軍の工作員が、あなたを拉致する計画を立てているとだけ書かれているのだけれども!」
「僕を拉致するだって? 連合軍の兵士に守られたアレクサンドロシアさまのお膝元で?」
そんな馬鹿な事を考えるブルカの軍師がいるだろうかと、少年はラメエお嬢さまの差し出した紙切れを受け取った。
小さな紙片にビッシリと文字を書き連ねたのは男装の麗人だ。
言葉足らずな俺が書くよりも、小さな紙面で最大限の情報を伝えるために、文字の達者な彼女にお願いした事は正解だったかもしれない。
「その文に書かれている事は、あなたのお義父さまから寄こされた事実ですのよ」
「ブルカ辺境伯の側近ツジンという男が、お爺さまの身柄を人質交換する交渉材料にギムル義兄と僕を狙っている? 工作員はゴルゴライの娼婦の中に潜ませて拉致を狙っているだって?!」
「そうよシェーン子爵。あなたが昼間に街で出くわしたあの女だけれどもね、」
尋問したところ、女神様に誓ってブルカ辺境伯軍の工作員である事を自白したわ。ようやく息を整えながら、オレンジ色の髪の毛をかき分けたラメエお嬢さまである。
すぐにも紙片を奪い取って暖炉の薪に紙片を放り込むと、そのままズカズカと軋む甲冑を鳴らしながらソファまで歩みを進めて、ドカリと腰を下ろしたのである。
続いてマリアツンデレジアも苦い顔をして隣に座った。
「より詳しい仔細については、エルパコ卿が追って届けてくれるらしいですのよ」
「今しばらくは状況が掴めるまでシェーン卿の外出は禁止ね。外出の必要がある場合は、このわたしが責任を持って警護に当たるから安心してちょうだい!」
ドンと成長期のお胸を保護する甲冑を叩いて豪語するおませ少女である。
すると遅れてシェーンお坊ちゃまの部屋にやってきたじいさんが、一例をしながら配下の野牛兵士たちに指示を飛ばすではないか。
「得体の知れない人間がシェーン子爵さまに接触しない様、この宿で務める人間の名簿を作成し、この老いぼれのもとに持ってこさせろ。マリアツンデレジア奥さま、ラメエお嬢さま、これでよろしいですかな?」
「構わないわ!」
「ええもちろんですのよ、義息子をよろしくお願いしますわ」
驚いている使用人たちを無視する様にやり取りが進むと、がやがやと野牛の兵士たちが走り回って警備の配置に就く。
これに黙っていられなかったのが、いよいよ衆目から目障りに思われ始めていたホイヤである。
「ま、待ってください! 勝手にリンドル家中の差配を取り仕切るとは何事ですかっ。盟主連合軍の輝ける彗星にしてリンドル子爵家の若き指導者シェーンさまの警護を、他の家中に任せるなんてあってはならない。
子爵さまを蔑ろにするなんて以ての外だ」
「うるさいわねさっきから、あんた何なのよ?」
「ホイヤという新米の官吏ですのよ」
胡乱な眼でホイヤを見返すラメエお嬢さまにマリアちゃんが説明した。
「ホイヤです!」
「ではホイヤ、リンドルの輝ける若き指導者の義母のひとりとして、お前に命じるわ。その気に食わない顔を引っ込めなさい、さもなくばこれ以上口が利けない様に首を跳ね飛ばすわよ」
組んでいた脚を解いて、前に進み出たホイヤをひと睨みしたおませ少女は、流麗な動きで腰の長剣を引き抜くと、そのまま白刃を突き付けるではないか。
「そんな横暴な! シェーンさま御台さま、お助け下さいっ」
「…………」
「あんたはまるで事態がわかってない。シェーン子爵が拉致される様なことがあれば、旦那さまに顔向けできないどころか盟主連合軍の終わりよ」
「これは決定事項ですの、よろしいですねシェーン子爵さま?」
御台として有無を言わせぬ態度で命令を下したマリアツンデレジアに、口をぱくつかせるホイヤを無視して少年は首肯した。
「じい、後の事は任せていいわね?」
「このやつがれめにお任せ下さい」
「マリアツンデレジアさま。それではわたしもこれで失礼するわっ」
「よろしくお願いいたしますの……」
剣を元の鞘に納めたラメエお嬢さまは、リンドル子爵家の義親子に最上級の貴人の礼を取ると、マントを翻して退出しようとする。
「ら、ラメエお義母さまはこれからどこに行くんだっ」
「騎士修道会の従軍司祭たちが、捕縛した女の異端審問をしているところよ。今頃は洗いざらい隠し事を吐き出しているはずだから、情報に従って娼館を家宅捜索する様に聖女ガンギマリーさまから命じられているわ」
少女は居住まいを正して「お邪魔したわねっ」とひと言放つと、つむじ風の様にその場を退出していった。
事態が好転したのかと言えばそうではない。
シャブリン修道院から放たれた魔法の伝書鳩は、嵐の中で四半刻をかけてゴルゴライへ確かに到着した。
けれど尋問する雁木マリと家宅捜索に乗り出したラメエお嬢さまの行動をあざ笑う様に、ツジン一味によって確かに拉致は実行されたのだ。
「ケイシータチバックはおりますか?」
自身の警護についていたリンドルの頼れる巨人メイドを呼んで、マリアツンデレジアはこう話を切り出した。
「イエス・マイ・ロード、こちらに控えております……」
「アレクサンドロシア卿と協議した結果、シェーンさまのリンドル帰還は予定を早めて行う事にしました。わたしはこれから船着き場にあるリンドル公商館に出向いて、セレスタの軍船で帰りの便を手配する予定ですのよ」
「わかりました御台さま」
「わたしやラメエ卿の留守にしている間、あなたはこの宿舎で片時もシェーンさまの側を離れてはいけませんのよ。くれぐれも義息子をよろしくお願いしますわね?」
「お任せ下さい!」
しかしこれが裏目に出てしまった。
ほとんど役に立たないと言ってもいいリンドルの弱兵をお供に連れてゴルゴライの船着き場に向かうその道すがら、ツンデレのマリアちゃんが襲撃されてしまったのだ。
◆
「シェーンさま、おられますでしょうか……?」
「何だホイヤか。しばらくきみの顔は見たくない、悪いが遠慮してくれ」
「それがその、この様な手紙を宿屋の主人から預かっております」
こればかりは家族全員にとって誤算だった。
「今度は何だ。あの全裸のお義父上から追伸が来たのか?」
「わかりませんねえ。本官はただ宿屋から手紙を受け取っただけですので」
「……貸してみろ。まったくきみは使えない官吏だ」
海老で鯛を釣るなんて言葉が元いた世界には存在していたけれど、シェーン少年周辺の警備が厳重になった事で手出しができなくなったツジン配下の一味は、密かにマリアツンデレジアを誘拐する事でシェーンを釣り出そうと考えたわけである。
「義母さまをかどわかしただと?! どういう事だこれは、説明しろホイヤ?!」
「ほいやああああっ!」
手紙にはこう書かれていた。
マリアツンデレジアを返してほしければ、シェーン子爵が単身で指定の場所まで来いと。
御台さまハイエースされる。




