第六話:アンガーマネジメントの極致
馬車が揺れるたび、アレクシスの肩が触れる。
国境の砦から王都への帰路。豪奢な馬車の車内は、息が詰まるほどの熱気に満ちていた。
「シオリ。君のあの激しい言葉、私の胸の奥深くにまで突き刺さったよ」
アレクシスの手が、栞の指先をそっとすくい上げる。
金糸の髪が揺れ、甘く湿った吐息が首筋を撫でた。
「今夜は、君のその尽きせぬ欲望を……私という器で、すべて受け止めよう」
背筋に悪寒が走る。
視界右下のウィンドウが、警告音と共にピンク色に点滅を始めた。
【心拍数:120bpm。羞恥・過緊張反応を検知】
ここで焦って口を開けば、魔法は再び暴走する。
『今すぐここで服を脱いで』などという誤訳が発動すれば、馬車の中で貞操が終わりを迎える。
かといってパニックになれば、『貴様の腕を切り落とす』という宣戦布告になる。
(落ち着け。私。感情を殺せ)
栞は目を閉じ、脳の冷却作業に入った。
円周率。サンスクリット語の動詞活用。生成文法におけるXバー理論の樹形図。
感情を論理の海に沈め、心臓をただのポンプとして機能させる。
ドク……ドク……。
脈拍がゆっくりと落ちていく。
【心拍数:80……70……60bpm】
ウィンドウの点滅が止まり、氷のような青白い光が点灯した。
「シオリ……?」
反応のない栞に、アレクシスが顔を覗き込んでくる。
【生体反応:フラット。出力モード:無補正】
栞は、焦点の合わない目でアレクシスを見据え、唇を開いた。
「離れてください」
空気を震わせたその声は、栞の意思と全く同じ「意味」を持っていた。
しかし、その音声は人間のそれとはかけ離れていた。
抑揚の一切ない、金属をこすり合わせたような、冷酷な機械の合成音声。
アレクシスの肩がビクッと跳ねる。
「シ、シオリ……? その声は、一体……」
「私は疲れています。一人になりたい」
平坦な、感情の完全に欠落した声が車内に響く。
アレクシスは栞の指先から手を離し、畏怖に満ちた眼差しを向けた。
「……そうか。神との対話を終え、霊的なトランス状態にあるのだな。すまない、俗世の欲で君を煩わせるところだった」
アレクシスが距離を取る。
栞は無表情のまま、心の中で安堵の息を吐いた。
第三の法則。感情を完全にゼロにすれば、抑揚(人間性)と引き換えに、正しい意味が伝わる。
*
王城。薄暗い回廊の奥。
豪奢なドレスに身を包んだ貴族の男たちが、通り過ぎる馬車を冷ややかな目で見送っていた。
「見ろ、あの女の顔を。血の通った人間のそれではない」
「我が軍の将さえも一言で平伏させたという。魔法か、それとも魔女の呪いか」
男の一人が、傍らに控える侍女の手に、小さなガラス小瓶を滑らせた。
「王子の心をこれ以上あの得体の知れない女に支配されるわけにはいかん。今夜の茶に、これを」
侍女は無言で頷き、闇の中へと消えていった。
*
自室のベッドに倒れ込むように座った栞は、深い疲労に襲われていた。
感情を殺す訓練は、精神を恐ろしく消耗させる。
コンコン、と扉が叩かれ、見知らぬ侍女が銀の盆を持って入ってきた。
「聖女様、お休み前のカモミールティーでございます」
「……ありがとう」
栞は機械的な音声のまま答え、差し出されたティーカップに口をつけた。
温かい液体が喉を下り、張り詰めていた神経が少しだけ緩む。
だが、数秒後。
ドクン、と。
胸の奥で、不自然に重い動悸が跳ねた。
視界右下のウィンドウが、突如として真っ赤に染まる。
【警告:致死性毒物(遅効性)の摂取を検知】
【強制生体反応:心拍数急上昇――140……160……180bpm】
「え……?」
カップが床に落ちて砕け散る。
栞は胸をかきむしりながら、その場にうずくまった。
毒の作用による、物理的な心拍数の暴走。
意思の力ではどうにもならない、絶対的な生理現象。
【感情制御不能。出力モード:暴走(無差別宣戦布告)】
息を吸うだけで、視界が歪む。
感情制御不能の暴走状態が、幕を開けた。




