第十一話:決戦の聖歌
言葉は、要らなかった。
吹きすさぶ雪原。
栞の視線が右の岩陰へ走る。それだけでアレクシスは剣を抜き、雪中から跳び出してきた魔狼の首を正確に刎ね飛ばした。
左手の指先で風の向きを示すと、彼はすぐに外套を広げて栞を吹雪から庇う。
言葉による意思疎通が断たれてから三日。
二人は魔王城へと続く峻烈な道のりを、完璧な連携で踏破していた。
翻訳魔法の介入がなくなり、「相手の目を見る」「息遣いを聞く」という、生物としての根源的なコミュニケーションが彼らの間で極限まで研ぎ澄まされていた。
灰色の雲を突き破るように、黒曜石の巨城が姿を現す。
開け放たれた大門。
その奥の玉座に、彼女はいた。
人の形を保ってはいるが、その背からは名状しがたい魔力の羽ばたきが漏れ出ている。
先代聖女――魔王。
彼女の周囲の空間は、異常な魔力の波によって陽炎のように歪んでいた。
『何故、来た』
玉座の魔王が唇を動かした。
その途端、栞の頭を物理的な衝撃が殴りつけた。
翻訳魔法の最終形態。
魔王の放つ絶望が、強烈なノイズを伴う『呪詛』となって空間に叩きつけられる。
『言葉など、呪いでしかない! 理解し合えぬなら、全てを無に帰す!』
アレクシスが呻き声を上げ、膝をつく。彼の耳には、この声が「世界を終わらせる神の宣告」として響いているのだろう。
凄まじい情報の奔流。精神が磨り潰されそうになる中、栞は一歩前へ踏み出した。
(違う。この声は――)
言語学徒の耳が、暴風のようなノイズの中に、微かな『リズムの乱れ』を聴き取っていた。
怒り狂っているように見える魔王の呪詛。だがその奥底で、子音の発音と母音の伸びが、震えるような哀しみを帯びている。
「……怖かったんですよね」
栞の唇が動いた。
日本語。通じるはずのない異世界の言語。
だが、栞は『真実の同期』を試みる。
心の中の「怒り」「恐怖」、そして目の前の同郷の女性への「哀れみ」。
その全てを、一欠片の嘘もなく言葉に乗せる。
「言葉が通じない世界で。愛が、呪いに変わる世界で」
心拍数が跳ね上がる。
自分を飾らない。論理で武装しない。
ただの織田栞という一人の人間として、等身大の感情を世界に晒け出す。
「私も、怖かった。何度も間違えた。でも――!」
バキンッ! と。
空間に満ちていた魔王の呪詛が、ガラスの割れるような音を立てて弾け飛んだ。
「伝えようとすることを、諦めちゃいけないんだ!」
栞の叫びは、魔法のフィルターを完全にすり抜け、本来の『声』として魔王城に響き渡った。
翻訳魔法を介さない、魂の波長。
魔王の仮面が砕け、その下から、幾星霜の時を凍りついて過ごしたような、脆く悲痛な女性の顔が露わになる。
『あ……あぁ……』
魔王の瞳から、黒い涙がこぼれ落ちた。
栞の言葉が、日本語のまま、彼女の心臓の奥底まで届いたのだ。
だが、システムの核を埋め込まれた魔王の身体が、限界を告げるように激しく明滅を始める。
暴走したバベルの楔が、魔王ごとこの世界を道連れにしようと最後の演算を始めたのだ。
『……壊して』
魔王が、掠れた声で囁いた。
『もう、終わりにさせて』
栞の視界に、消滅したはずのウィンドウが薄暗く浮かび上がる。
【警告:システム完全消去の最終承認シーケンス】
【管理者の『真実の言葉』を要求します】
条件は一つ。
翻訳魔法の残滓を焼き尽くすほどの、強烈で、絶対的な『感情と真実の同期』。
誰かを心の底から想う言葉。
栞は振り返った。
玉座の間で片膝をつきながらも、ただ真っ直ぐに栞を見つめるアレクシス。
言葉が通じなくても、ずっと信じてくれた人。
この異世界で出会った、私の大切な――。
栞は、彼に向けて、その言葉を紡ぐ覚悟を決めた。




