第十話:古代遺跡のデバッグ
砕け散る黒曜石の雨が、鼓膜を打つ。
もうもうと舞い上がる粉塵の中、地下空洞の中央にあった巨大な石柱は、無惨な瓦礫の山へと成り果てていた。
足元に落ちた古い便箋を握りしめ、栞はゆっくりと立ち上がる。
魔力という名の重圧が、嘘のように消え去っていた。視界の右下で明滅していたシステムウィンドウも、今は完全に消失している。
「シオリ! 無事か!」
駆け寄るアレクシス。その顔には、狂信的な恍惚ではなく、ただ一人の人間を案じる生々しい焦燥が浮かんでいた。
「ええ。私は大丈夫――」
無意識に紡いだ言葉。
だが、アレクシスの足がピタリと止まる。
金糸の髪を揺らし、彼はひどく戸惑ったように目を瞬かせた。
「……シオリ? 今、なんと言った?」
栞の息が止まる。
通じていない。
翻訳魔法というチート機能が、システムの崩壊と共に停止したのだ。
日本語特有の母音と子音の羅列は、リトス王国の住人である彼にとって、風の音や鳥の鳴き声と同じ、意味を持たないただの『雑音』。
「翻訳が、消えたの」
「シオリ、すまない。君の言葉が、私には……」
アレクシスが手を伸ばし、空を切る。
魔法の檻から抜け出した代償。それは、言葉という最も基礎的な架け橋の喪失。
薄暗い地下室で、二人の間には、絶対的な断絶の淵が口を開けていた。
*
崩落の危険を避け、地上の図書室へと場を移す。
栞はランプの灯りを頼りに、魔王――先代聖女が残した便箋を机に広げた。
数百年という途方もない時間を耐え抜いた羊皮紙。
そこに記されているのは、墨で書かれた古い日本語。草書体に近い文字の連なりを、栞は指先で丁寧になぞっていく。
『同郷の迷い子へ。この手紙を読んでいるなら、あなたは私の呪いに辿り着いたのね』
文字の並びから、先代の孤独な呼吸が伝わってくる。
『バベルの楔は、人間から対話の力を奪う檻。でも、完璧なシステムなんてない。この魔法には、一つだけ致命的なバグがある』
ランプの炎が揺れる。
栞の網膜に、真理の数式が飛び込んできた。
『心と、言葉。その二つに一ミリのズレもなくなった時、システムは演算を放棄する。あなたが心から怒り、心から「怒り」を口にした時。あなたが心から愛し、心から「愛」を言葉にした時。増幅回路は焼き切れ、本来のあなたの声が世界に響く』
ただ、それだけ。
栞は息を吐き出した。
恐怖しながら「愛」を語るから、恥じらいながら「威嚇」するから、魔法が暴走していたのだ。
自分の内にある『真実の感情』と『発する単語』を、完璧に同期させること。
それが、この世界から翻訳魔法を永遠に消し去るための、唯一のデバッグ作業。
顔を上げる。
向かいの席で、アレクシスがじっとこちらを見つめている。
その瞳に、もう『神の使い』を崇める狂信の光はない。
ランプの灯りに照らされた栞の震える指先。血の気の引いた唇。彼は言葉の代わりに、栞という人間の輪郭を必死に読み取ろうとしていた。
何を言っているか分からなくても。
魔法という補助輪が外れても。
彼は、理解しようとあがいている。
栞は便箋を折りたたみ、胸元にしまった。
そして、まっすぐにアレクシスの目を見つめ返す。
右手を胸に当て、次にもう片方の手で、北の窓の向こう――魔王軍が陣取る荒野の方向を指差す。
『魔王の元へ、行く』
声は出さない。
ただ、強い光を宿した瞳で、彼に手を差し伸べる。
『一緒に、来てくれますか』
沈黙が図書室を満たす。
数秒の空白。
アレクシスは静かに立ち上がり、栞の小さな手を、両手でしっかりと包み込んだ。
強く、確かな熱を伴うその手のひらが、力強く上下に振られる。
言語の壁を挟み、二人の手が硬く結ばれた。




