第一話:騎士と聖獣
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「おお、やっと見つけたぞ!」
老騎士は開けた視界の先に泉を見出し、感嘆の声をあげた。
「あれがミカエリスの泉か!?」
森全体を覆う乳白色の霧が、泉の周辺だけはじかれたように消えていた。五角形を形成したその全貌が一望できる。揺れる水面が光の瞬きを散らし、透き通る青い空間の中を泳ぐ魚の群や岩場を覗かせる。
丸みを帯びた双葉。その上にぽつぽつと浮かぶ、雫を吸う水色の蝶。彼は確かめるようにそれを眺めると、慎重に馬を進めた。泉の畔にいる獣に警戒してのことだった。馬に酷似した頭を垂れ、夢中で何かを喰んでいる後ろ姿が見える。四肢は短く中型犬ほどで、密集した体毛は熊のようでもあった。それが黄色と黒の虎模様をしている。
幻の珍獣『マウガル』だ。
老騎士は気付かれないようにと、徐々に馬で回り込んだ。喰んでいる獣の姿を覗き込む。小さな体躯に不釣り合いな巨顔が見えた。バリバリ、ガリガリと固い物が砕けるような音がしきりに聞こえてくる。その音が止むと獣はまた頭を垂れ、地面に生えた細かい緑の葉にかぶりつき、踏ん張ってそれを一気に引っこ抜いた。すぽんと見事に抜けたそれを獣はしたり顔で噛み砕く。その様はまさに豪快で、猛獣さながらに荒々しかった。しかし老騎士が注目したのはそちらではなく
「あれが食べれば十歳は若返るという、『ミカエリスのニンジン』だな」
獣が喰んでいた植物のほうだった。それを確信した老騎士は、しめしめと眼を光らせる。
「……」
老騎士の額に汗の粒が浮かんだ。警戒心のない獣の無防備な尻がふるふると揺れている。マウガルは危険獣に指定されていない。まだ未知なる存在であり、何も解明されていないのだ。滑稽にしか見えないが聖獣とも呼ばれてもおり、もし傷付けたりなどしたら罰せられてしまう。
老騎士に妙な戦慄が過ぎった。多くの戦場を潜り抜けてきた戦士の勘とでもいうのか、彼は肌でそれを感じていた。
その刹那。
「!?」
奇怪な雄叫びがあがった。獣である。
その声に老騎士は理不尽な怒りを覚えた。彼は動き出す機会を探るべく、息を潜めていただけなのに。
不可解が単なる“不快感”に変わった。
マトラがゆっくりと振り向く。なにやら言いたげな不信感に満ちた面。上目遣いで憎らしげな眼が、訝しげに光っている。何かを訴えようとしているのか
「なんだよ」
とでも言いたげに……
「弱ったなぁ」
老騎士から恐怖心は消えていた。しかし今度は面倒なことになってきた。そう思い、彼は兜に覆われていない顎をぽりぽりと爪で掻くのだった。
するとマウガルが威嚇してきた。鼻に皺を寄せて牙をむき出しにし、ふんふんと荒々しい鼻息を鳴らす。顔だけは老騎士の馬と同じくらいではあるが、肢体はその半分にも満たない。それが憤慨して威嚇すればするほど滑稽で、思わず失笑がもれてしまう老騎士だった。愛馬のハイカラ号も心の中では、やれやれと言っているような気がする。まるで相手にすらしていないのだった。
今度はマウガルが後ろ脚で地面を掻いた。突進してくるつもりか。しかし
「どうする、ハイカラ号?」
「勝手にやらせとけば」
実際に言葉は交わされなかったが、まるでそんな会話を交わしたように目配せする騎手と馬だった。
「ちょっと脅かしてやるか」
老騎士の顔に悪戯な笑みが浮かぶ。彼は手綱を強く引き寄せた。
するとハイカラ号がそれに応えるように激しくいなないて、前脚を高く上げた。さおだたせた馬から落ちぬよう、ふんばる老騎士には勇ましさが顔を覗かせた。何歩か空を掻いた後、ハイカラ号の馬蹄が地面に着地して大きく地を鳴らす。馬も主人もどこか得意気だった。
「〜〜っっ!?」
巨大な馬蹄が眼前に迫る脅威に、マウガルは恐怖のあまり動けなくなっていた。全身をこわばらせ、ガタガタと震えている。眼球は驚愕に見開かれ、飛び出しそうになっている。それを見た老騎士は、少し気の毒に思いながらも苦笑を漏らした。危険性がないと判断し、鐙から片方の足を外して下馬する。それは鎧姿で、なおかつ老体とは思えない身軽さであった。
「っ!?」
その瞬間、襲われるとでも思ったのか、マウガルはひっくり返ってしまった。腹を見せて地面に転がる。
「……」
「……」
主人と馬は唖然とした。降参しているらしい獣の姿に言葉を失う。
これは犬なのか? 馬なのか?……
目が点になる両者だったが、老騎士はともかくニンジンを取ることにした。腰をかがめて地面のそれに手を伸ばす。
次の瞬間。
「……?」
マウガルが俊敏に身を起こし、四肢で直立した。体勢を低くして体毛を逆立て、尾をぴんと張らせて凄味を帯びた凛々しい双眸で老騎士を見据える。すでにミカエリスのニンジンの葉を掴んでいた老騎士とマウガルの視線が対峙した。
「……っっ!」
「……」
唸る獣に対し、警戒心が薄れていた老騎士の対応は敏速には行われなかった。彼はいったんニンジンの収穫作業を中断して、腰帯に差した剣に手を伸ばす。柄に手を添え、相手の出方次第でいつでも攻撃できるように体勢を整えた。とはいえ切りかかったりはせず、襲ってきたら牽制だけするつもりであった。その辺のさじ加減は心得ている。
ふと彼を見据える獣の双眸が色を変えた。――そんな気がした。身構えようと僅かに足を運んだ老騎士の長靴が、砂利を踏む音が鳴る。風が唸りを生じた。高音で調和のとれない不快な合唱が、老騎士の意識を未知なるものに対する探究心へといざなう。彼は小さな獣の反撃に期待を覚えた。心の奥に潜んでいた、好奇心旺盛な少年の閃きが両眼に踊った。
その時だった。
獣の口が動いたのである。
「チャンジーパイシツインゲンデワイコ〜ワイコ〜、チャンジーパイシツインゲン…………トラトラデマウマウ〜〜〜〜っっ!」
獣の口から呪文が言い放たれた。バンジョーの弦を鳴らしたようなカラカラした乾いた声である。その瞬間、老騎士の心臓を鉄槌に打たれたかのような衝撃が襲った。その衝撃で息が詰まった彼の瞳孔が開く。
「な、なんと、呪文を使うのか……!?」
予期せぬ出来事に老騎士は狼狽し、胸を押さえながら、じりじりと後退した。マウガルは怨恨の念を両眼に宿し、威嚇を続けた。この顔は馬なのに体はその半分にも満たない大きさで、虎模様という滑稽でしかない珍獣が、いまや獅子の風格を現していた。地面を踏み締める四肢が、力強さを増したかのように猛々しく見える。
「いったい今のは何の呪文……」
老騎士は困惑した。彼は魔法の知識がほとんどない。先刻マウガルが唱えた怪しげな言葉が、何かの呪文であることぐらいしかわからなかった。
目に見える攻撃は受けなかったが……。彼は心臓に圧迫感を覚えながら、数歩後退して足を止めた。視線がミカエリスのニンジンと獣とを交互に捕らえて彷徨う。“あれ”を持ち帰らねば、その使命感だけが彼の足をその場に止どまらせているのだった。心臓が目に見えぬ魔手でぐいぐいと締め上げられていくようだ。酸欠に陥りながらも彼は懸命に動いた。敵を見据えながら少しずつ前進していく。徐々に距離を詰め、ミカエリスのニンジンの葉に手を伸ばそうとした。
その時だった。
「神聖ナルコノ、ケモノアシの森ヲ脅カソウトスルフトドキ者メ。思イ知ルガイイ……」
獣の呪詛めいた口調に焦った老騎士は、言下に弁明した。
「待て。わしはただ、このニンジンを採りにきただけなんだ。さっきはちょっとからかってみただけで、危害を加えるつもりはなかった!」
「……」
マウガルは冷酷な眼で老騎士を見据えた。弁解の余地もない、と言ったところか。
「モウ遅イ」
「遅い……?」
断言されてしまった老騎士の額から汗が流れ、血の気が曳いた。
「スデ二、オ前二ハ呪イヲカケタ。コノ後失敗シタ最初ノコトガ、トラウマ二ナルヨウニ」
「な、何だと……!?」
老騎士は愕然として青ざめ、獣はそれっきり口を噤んでしまった。もはや何も語ることはないらしく、背を向けるとそのまま森の奥へと消えて行った。




