シュピーゲル家の執事
朝早く起き出したエリーゼは、侍女服に着替えて部屋を出た。
屋敷の外周を歩くと、予想通り掃除用具置き場を発見することが出来た。ほうきとちり取りを手に入れ、エリーゼは玄関の掃き掃除を始めた。
無心で掃き清めていると「おい」と、声をかけられた。
まだ聞き慣れない声だが、誰のものかすぐ分かった。テンションが急激に下がりどんよりとしたのを押し込め、エリーゼは声の主の方へ振り返った。
「あら、おはよう。ホフマン」
エリーゼがにこりと笑って挨拶すると、ホフマンは不機嫌そうな顔をして立っていた。ホフマンから酒の匂いが漂ってきた。昨夜は相当飲んだなと、エリーゼは推測した。
「そんなことをして、何をたくらんでいる?」
ほうきとちり取りで、何をたくらむのか、逆にこっちがききたいと思う。被害妄想がすぎる男に若干呆れながら、エリーゼは感情を隠し返事した。
「何も。ただ、住居を綺麗に掃除しているだけですわ」
「……貴族令嬢がすることではない」
「一応、身分を立ててくれて、ありがとう。でも、私は形だけの貴族令嬢だと自覚しているから、気遣いは無用よ」
「……」
ホフマンは、まだ立ち去ってくれない。
面倒だがハッキリ意志を伝えないといけないようだ。
「ホフマン、私はここに遊びに来たわけじゃないわ。だから、あなたも私をお嬢様扱いしなくていいわ。私は、この家で出来る仕事をしに帰ってきたの。だから、掃除しているの」
「余計なことを……」
「余計なことと、使用人のあなたに言われる筋合いはないわ」
「生意気な、勝手なことをするな」
「勝手なことかどうか判断するのは、お兄様やお義姉様よ。あなたではない、立場をわきまえなさい。ホフマン」
ホフマンの喧嘩腰の売り言葉を買い言葉で返す。しかし、敵意を敵意で返すのは茶番に思えて、エリーゼはホフマンから視線を外し、掃除を再開した。
しばらくホフマンの不満げな視線を感じていたが、気にしない様に掃除に集中していると、いつの間にか彼は姿を消し、何処かへ行ってしまっていた。
解りやすい敵意は、実はそんなに怖くない。
本当に怖いのは、気配を消し存在すら感じることができない敵意だ。
かつてエリーゼは、王都のシュピーゲル家の侍女の敵意に気づけず、心の隙に入られ、侍女の恋人に転生術をかけられてしまった。事後しか知らないが、その様子を想像しただけで、恐ろしくて震えてしまう。
それに比べると、ホフマンは口で攻撃するだけで、手も出してこない。
悪口さえ聞き流せば、害はないのだ。
「エリーゼ様」
今度はリタが様子を見にやってきた。
しかし、ホフマンと違いリタの表情はにこやかで、最悪だった気分が吹き飛ばされた。
「! お義姉様、おはようございます!」
「おはようございます、早いですね」
リタは、ちり取りを手に取り、集めたごみの近くに差し出した。
エリーゼは、その意図に気づき、ほうきでちり取りへゴミを掃き入れながら、返事する。
「いつもの習慣で目が覚めてしまって……」
「せっかく帰ってきたのだから、少しゆっくりしてもいいのに……」
「働いていないと、落ち着かなくて。掃除をしていると、むしろ心休まるのです」
「……」
(お義姉様に気を遣わせてしまったわ……、でも、本当に体を動かすと頭がスッキリするのよねー)
社畜とまではいかないけれど、何もせずボーッとしておけと言われると苦痛に思えるのだから、充分毒されていると自覚している。
「お義姉様は、これから朝食の用意ですか?」
「そうね、用意というほどもないけど」
朝食は、パンと紅茶だけの簡単なものらしい。
この家は、前世の食生活にとても似ていて、暮らしやすい。
王都のシュピーゲル家は、朝からしっかり重めの料理が出てきていたが、あれは料理好きの父が用意していたからだと思い至る。
エリーゼは、是非紅茶の用意をさせて欲しいと願い出て、リタの快諾を得た。
「掃除道具を片付けてきます」
エリーゼはすぐに片づけを済ませ厨房に向かい、リタと合流した。
朝食後、エリーゼはアロイスの執務室に来ていた。
そして今、しばらく放置されていた帳簿の記帳をしている。
アロイスもホフマンも事務仕事が苦手らしく、未処理伝票が溜まっていた。
エリーゼは、久々の作業に没頭して黙々とペンを走らせた。品目と数字を手書きで書いていく作業は、楽しいなとしみじみ実感した。パソコン管理しない、売上帳や仕入帳のルーズリーフに、直接書いていく事務作業を経験済みなのでエリーゼは、自信を持って作業を進めた。
「エリーゼ、王都で経理もしていたのか? すごいな!」
何も聞かずサクサク記帳を進めるエリーゼをみて、アロイスは感嘆の声を上げた。感心した視線に、エリーゼは苦笑いで返す。
前世の記憶を頼りにやっていると言えないので、苦しい言い訳を重ねる。
「主にやっていたことではないので、見直しはしてくださいよ。お兄様」
知識として持っていただけで実践経験はないというと、アロイスはそれ以上ツッコんで訊いてこなかった。
「いや……、本当にお前には驚かされっぱなしだ。俺より字も綺麗だし、完璧だぞ」
「……」
それは、私も驚いた。
異世界補正みたいな力が働いているのか、この世界の字は書けるし、帳簿の内容も読めたし、記帳方法も同じだった。
花の名前も同じだし、ラルフの謎手紙も読めたのだから、予想はつくことだが、実際問題に直面して対処するまで、分からないものだ。
「勉強した知識が、役に立って良かったです」
「本当に助かるよ」
アロイスに礼を言われると、エリーゼは嬉しかった。
達成感を噛みしめながら、ふと、ホフマンを思い出した。
今日エリーゼが帳簿の処理を始めてから、結構な時間が過ぎているのに、領地経営補佐役のホフマンが執務室に姿を見せていないことに、違和感を感じた。
「お兄様、ホフマンは執務室に来ないようですが、あの方は普段、どのような仕事を任せていますの?」
「あいつは、交渉事が上手いから、資材の価格交渉とか、商談の時同行してもらっている。そういう外回りの仕事がない時は、リタのサポート役で家のことも色々としてくれている」
交渉役とは、営業職みたいなものかと思う。
しかし、家の事ってどこまでサポートしているのだろうかと、答えの中にさらに疑問が残るという事態に直面した。
「そうなんですね……」
エリーゼは、根掘り葉掘り訊きたくなるのを押し殺し、何でもない様に振舞う。
「どうした? ホフマンと何かあったか?」
察しの良いアロイスが訊いてきた。
告げ口するようで、一瞬ためらったが、早くホフマンとの関係を改善したくて、朝の出来事をそのまま報告することにした。
「朝、玄関の外を掃除していたら、余計なことをするなと言われましたわ」
「掃除……?」
「そうなんです! ただ、ほうきで掃き清めているだけなのに、『何を、たくらんでいる』とかいって……、訳が分かりませんでしたの」
「それは……、掃除はホフマンがするからしなくていいっていう意味かも」
「はぁ!?」
「自分の仕事を取られるかもと、心配しただけだよ。きっと」
「……」
あっけらかんと当然のように断言するアロイスに、違和感しかない。
「リタが妊娠してから、掃除や洗濯はホフマンがしてくれている。今の時間は、裏の洗濯場でシーツとか洗っていると思う。ホフマンの母親がメイドで、幼い頃から仕事のやり方を仕込まれていて、家事スキルはプロ級だぞ。本人も好きらしく、家事仕事なら喜んで任せてくれと言ってきた」
(ホフマンが、まさかの家事男子! 前世で、若い女子に嫁にしたいと好まれる、モテ要素高いあの!?)
嬉々として家事をこなすホフマンを想像して、次に大好きな家事仕事を取られるかもと必死に抵抗する妄想までしてしまう。
その妄想はエリーゼの萌えツボをギュッとおさえてくれた。その結果、切れ長の黒い目の強面が可愛く見えてきて、うっかりキュンとしてしまった。ギャップ萌えは、エリーゼの大好物だから仕方ない。
本当のホフマン像は、エリーゼのそれとは180度違うものだった。
「キツイ言い方をしたのは、焦ったからだろう。あいつは、基本優しい奴だから大丈夫だ。ただ、親しくなろうとすると、急に人見知りになるから、もう少し長い目で付き合ってやってくれ」
家事男子な上に、ツンデレ属性ですって!?
脳内変換を素早くして、口角が知らずに緩んでしまう。
「――――分かりました、お兄様……」
「うん、よろしくな」
アロイスの清々しいポジティブシンキングに、エリーゼは脳内で脱帽した。
アロイスが言うには、ホフマンは性格は控えめで優しいらしい。そして、家事スキルは、相当高いという。
嬉々として洗濯する彼を、今度覗いて見てみようとエリーゼは思う。
実際にこの目で見るまでは、信じられないからだ。
それより、堂々と見に行ってどんな顔をするか見るのも、楽しいかもしれないと妄想を膨らませた。
エリーゼの好奇心は、止まらなかった。
「ホフマンはいつからここに?」
「おじい様が亡くなってからだよ。引退した領地管理人の紹介で、来てもらった。だから、一年も経っていないかな」
古い付き合いでもないのに、深い親密度であり、謎が深まった。
しかし、今その謎を解く必要性は感じなかった。
またの機会に訊いてみようと、エリーゼは思った。
「エリーゼ」
「はい」
「帰って来て、何か思い出したか?」
ホフマンの分析に支配されていた思考が、アロイスの問いで消し去った。
「――――いいえ……、まだ、……何も……」
胸が締め付けられるように苦しくなった。
思い出すわけがない。
すでに、魂は別人に入れ替わってしまっているのだから。
でも、転生したことを秘密にしなければならぬことで、アロイスには言えないのだ。
「そうか……」
少し寂しそうな顔で、アロイスは静かに受け止めた。
「お兄様が知る私と、今の私は、違いますか?」
エリーゼは思わず訊いてしまった。
アロイスは、一瞬エリーゼと同じ紫の目を曇らせたが、すぐに透き通る美しい視線をこちらに向けた。
「そうだな、全く違う」
「!」
アロイスの断言する声は、鋭い針の様に思え、エリーゼの心に深く突き刺さった。
(やっぱり、お兄様は目の前のエリーゼが、別人だと分かっていたの?)
ひどい動揺に、エリーゼの身体が震えた。
久しぶりの更新になります。
突然の家族の病気発覚で対応に追われ、更新ができず、すみませんでした。
おまけに台風直撃で、停電したのが原因で、電化製品がおかしくなりダブルパンチでした。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
出来上がり次第更新のスタイルで、頑張りますので、見捨てないでくださいね!




