キミと俺とあいつら
希望が叶ったのはルークの最終公演から二ヶ月ほど後の事だ。音大のキャンパスなんて滅多に入らないからあちこち珍しく感じた。十代後半から二十代前半の若者達を眩しく見やりながら、指定された教室を探す。
「鷹野さん、ですよね」
そうだよと頷くと、うわあ、感激っす、と彼はぱあっと表情を明るくして。こんな所で何をという話から道案内を頼んだ。
その男子学生はギター専攻だそうで、丁寧に道を教えてくれた別れ際、サインいただけませんかと勢い良く頭を下げられてしまった。快く引き受ける。彼はバッグから教則本とペンを取り出して、うわあ、マジで嬉しいっす、と再び感動していた。
「僕、鷹野さんの番組すげー楽しみにしててーー……あの、ラジオ、いつも聞いてます!」
「ありがとう。やー嬉しいな。どう、ラジオ? あんなんでも面白いかな?」
「面白いです! クラシックだけじゃなくて色んなやついっぱい紹介してくれるじゃないですか? 聞いてる奴結構いますよ。是非続けてほしいっす!」
「よかったーあれなあ、プロデューサー説得すんの大変だったんだよ。怖いオジサンでさ。クラシック界から来てるんならクラシック推せよって頭堅ぇの。……おにーさんも頑張ってね。すげー頑張ってんの、これでも分かるけど」
サインした教則本はぱっと見だけでもボロボロだったが、書き込み具合もなかなかの物だった。基本は大事。こんな時代もあったのだ、自分にも。
「ありがとうございますっ! ちょーやる気出ました!」
声からも表情からも興奮具合が明確で。彼は夢の途中にいる。
「よかったらまたラジオにメール頂戴? 俺こーゆーのは忘れない方だから、ラジオネームでも教えといてくれたらあーあの兄ちゃんだなってわかるし」
「マジすか?! じゃ、あの、アッキーで送ります! あの、もし、できたら、アドバイスお願いします」
「オッケー。俺でいいならどんと来いだよ。……アッキーって、本名から?」
「あ、はい。下の名前がアキラって名前なんであだ名速攻アッキーに決まって」
「そっかそっか。アキラ君か。……こっちの業界に来るなら、ライバルになるわけだ。負けねえからな」
そんな、恐縮です、と彼は首がもげそうなほど左右に首を振る。面白い。アッキーという渾名で森矢を彷彿とさせたのはこちらの勝手だ。
「あの、……鷹野さん、留学ってやっぱ、した方がいいっすか」
「迷ってんの?」
ええ、あの、と彼の歯切れはよろしくない。
「金銭的に難しいとか技術面がとか、何か理由がありそうだな。んー……ぶっちゃけした方が経験になるけど、国内でも出来る事たくさんあるし。でもマジ本物になりてーって気持ちがあるなら、やれる事は全部やってみた方がいいぜ。せっかく若いんだから何でもやってやる的な」
「そっすか……やっぱり……」
「何が何でも留学しろって事じゃねえの。おにーさんの気持ちがおにーさんを動かすわけ。そんで、やってるとこは絶対誰か見てるから努力は惜しまない事。俺も留学は迷ったし、結局今は日本に居っぱなしだからあんまエラソーな事言えないけどさ」
迷える若者には大したアドバイスにならなかったかもしれない。でも、何かの足しにはなっていればと思う。聞いて下さってありがとうございましたと彼ははにかんで、ペコリと頭を下げてから立ち去っていった。その背中からは彼の心境は分からなかったけれど、きっと志と運があれば彼の行く道はそう悪くはならないはず。
楽器の腕一本で生きていける人間はほんの一握りだ。現実は厳しい。それは自分が言わずとも誰かしらから言われているだろうから言わなかった。ーー大丈夫。楽器が好きでいられるのは誰でも、一生可能な事だ。
指定された教室の前で、こほん、と咳払いを一つ。コンコントノックすると中からすかさずドアが開かれる。
「こんにちは、お待ちしてました」
「こんにちは。鈴谷さん」
「中に居ますよ。どうぞ」
鈴谷はすっと半身引いて中に促した。防音室。ピアノが一台あって、その椅子に莉緒が座っていた。
「どーも、ご無沙汰。元気にしてた?」
「ほ、ホントに来た……ショウちゃん……!」
「リオ姉慌てすぎ。言ったじゃないちゃんと来るよって」
「だって、そんな。鷹野さんお忙しいのにまさかホントに来るなんて」
今オフだからねえ、とこちらはあははと笑うだけだ。どれだけ過密スケジュールだと思われているのたろう。さすがにそこまで引く手数多ではない。ラジオも隔週だしテレビの教育番組は録画が多いから、演奏会に呼ばれなければほどほど空き日が出る。
「私も同席していいですか? 鍵の事もあるし、一応許可は貰ってますけどお二人、部外者さんなので」
「どうぞどうぞ。何なら一緒にやる?」
「是非ともって言いたいところなんですけど、私、実はチューバ専門なので」
ギターにピアノにチューバ、というのはあまり無い組み合わせではある。耳を肥やしますと鈴谷はパイプ椅子にちょこんと腰を下ろした。
「リオちゃんこそ、休みに引っ張り出してごめんな」
「とんでもない! 声を掛けて下さっただけでホントにもうーー……私、嬉しくて昨日もなかなか眠れなくて」
「そんなに?」
「鷹野さんが呼んで下さったんだから緊張も楽しみも最高潮です」
莉緒はにこにこと笑顔を向けていて、その真っ直ぐさにあてられそうになる。かわいい。
自分がプロだから喜ぶのだろうか、彼女は。それとも兄嫁の友人だから? 一緒に弾いた楽しい思い出のある相手だから? 何だろう。どれも当てはまるし、彼女自身の中でどのパーセンテージが多く占めているのかなんて余計な詮索だと嘲笑われるだろうか。
「いいね、かわいいおねーさん二人と密室ってそそるわ」
「鷹野さん……また冗談ばっかり」
「夢みたいなシチュエーションだぜ? これ」
「現実になったご感想は?」
「サイコー。いい音、出来そう」
鈴谷はくすくす笑って、ではサイコーなのお願いしますと告げる。
「リオちゃん、前やったやつでいいの?」
「はい! 私あの曲すごく好きで。またご一緒できるなんて夢みたいです」
夢じゃないよ。現実だこれは。
「じゃあ、いいのヨロシクな」
以前はもっと広い場所で人の注目もたくさんあった中でだったから莉緒もひどく緊張していた。でも今日の彼女はとてもいい顔をしていると思う。普段はきっとこうなのだ。ピアノが楽しくて、音楽が好きで、わくわくしながら指を動かす。
ーーうん、いいな。この感じ
横目で軽やかに旋律を追いかける彼女を見て、自分の中にふわりと穏やかな気持ちが生まれていたのをようやっと意識していた。これを、どうやって言葉にしていこう。
* * *
「師匠、俺ルークんとこ行ってきていいっすか」
「ナニソレ唐突」
どうした、と師匠は目を剥いている。
「旅行でか」
「や。本腰入れてってやつです」
「……心境の変化? 何。お前こっちの仕事どーすんだよ」
「や。聞いてみたら、なら向こうのスタジオでやりゃいいじゃんって話で。案外簡単に話進んでて自分でもビックリっつーか何つーか……」
「ルーク使って好き勝手通してんのかお前」
恐ろしい奴だなと師匠はからからと笑っていた。反対する気は無いらしい。事実ルークはかなり力があって、事務所同士の繋ぎにも番組関係者への説得役にもなってくれた。世界的有名人怖い。彼のにっこりゴリ押しというやつを見せられて、自分はもしかしてとんでもない奴と友達なのかもと今更ぞっとしたという話。こんなに自分の立場を有効に使っていく奴だったか。
「いいよ。俺んとこも特に問題ないし」
「マジすか。ありがとうございます」
「あんだけ国内に固執してた奴が何でまた、ってのは聞かせろ」
ええー、それは……と目を泳がせる。改めて気持ちを晒せというのは何とも照れ臭いものではある。
「俺、世界に出なきゃこの先何も残せねえなって。まだまだなんで。……やっぱ、ルークは本物だし、あいつんとこでやってたらもっと自分が上にいけるんだろうなってちゃんと考えてみました。武者修行的なあれです。ルークもガシガシ使うから覚悟しとけって」
「あの王子様に扱き使われるわけか。面白えな」
「ですねー玉乗りでも覚えて帰ってきます」
「そりゃ楽しみだな」笑い。「……ん、覚悟してくならいいよ。お前は危なっかしいまんまここまで来てるからせいぜい王子様の下で働いてシャンとしてこい」
師匠はにんまり笑い、定期的に便りは寄越せよと言い添えた。以前留学した時には言われなかったから驚いた。
「お前向こうで女作ってそのままトンズラすんなよ。くれぐれも」
「そんな余裕あるかなあ……つーか、まあ、多分そーゆーのはもう無いんで」
「遂にいい女見つけたのか?」
どうでしょう、と肩を竦めて濁しておいた。これが本物なのだろうなと自問自答して確認している最中でもある。自分の気持ちもまだ口にしていないし、莉緒の気持ちはまだ訊けていないけれど、即時振られるパターンは回避したいところだ。
「まあいいや。お前の人生なんだから好きにすりゃいんじゃねえか」
「そうさせてもらいます。……じゃあ、すんません。今日はご報告だけなんでこれで」
「鷹野、ちょっと待ってろ」
師匠はかたりと席を立って別室に行ってしまった。何だろう。出されたコーヒーを啜って待つ事しばし、師匠は片手をグーにして戻ってきた。
「……え、殴られる……?」
「しねえよ、」笑い。「これも持ってけ。餞別」
掌にコロリと転がされたのはなんの変哲もないピックだった。少し先が削れている。何でまたこんな物をと師匠の顔を見上げた。
「森矢君が最後うちに来た時に忘れてったやつだ。返そうと思った矢先に、ってやつだったな」
懐かしい物を見るような眼差しだった。
「……師匠よく失くさなかったですねこれ」
「そりゃあな。大事な生徒の形見みたいなもんだから」
師匠も森矢に目をかけていたし自分と同じくかわいがってくれていた。あまり持ち物は増やさない質なこの人にもこういう一面があったんだなと、しんみりした心地でピックを見つめる。ーーオマエ、皆に大事に思われて幸せだな。
「もう渡しても平気そうだしな。連れてけ。そんで自分がいいなって音作ってこい」
「はいっす。……うん、あいつに関してはもー大丈夫」
師匠の目から見たら自分はずっと不安定だと映っていたのかもしれない。今なら素直に認める。頑なになっていたし、森矢の事は引きずってきていた。
「頑張れよ」
ありがとうございます、と頭を下げると、髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でられた。痛えっす、と訴えると「バカ息子がやっとバカから卒業しそうなのを喜んでんだよ」と言われてしまった。愛だな、愛。
「鷹野君、いい顔になったね」
久しぶりに森矢の実家に出向き、さやかについて来てもらって彼の墓参りをした。手を合わせて立ち上がった時に、彼女はにっと笑ってみせる。
「ですか。……すんません、無理言ってついてきてもらって」
「んーん、あっくんに嬉しい報告できるんだから私も嬉しいよ。……いつ行くの?」
「あれこれ始末しなきゃなんで、再来月ぐらいになると思います」
「そっかあ、」
あっという間だね、とさやかは少し寂しそうだ。
線香の煙と匂い。煙草とは違うそれには本当に慣れない。自分にとって何とも日常生活離れしていて、この先もきっと慣れやしないのだろう。
「あっくんの病気が分かってからも、いなくなってからも、ホントあっという間だった。今まで、忘れた日なんか無いよ。……寂しいなあ、鷹野君にも滅多に会えなくなっちゃうのか」
「呼んでくれたら俺、すっ飛んできますって」
「そう? ふふっ、ありがと」
「まー……俺より旦那さんになる人の方がちゃんと側にいてくれるわけですけど」
「ははは、まあね」
さやかは来春結婚を控えている。夫になる人はこれまで音楽とは特に縁が無かったそうなのだけれど、彼女とその両親があれこれ話すのを「新世界だ、うん」と興味深く聞き入っているのだという。人生、無くすものがある代わりに新しく手に入るものもある。
「皆どんどこ結婚してくから俺寂しいっすわ」
「鷹野君もすればいいじゃん」
「やー……うんって言ってくれるといいんすけどね」
「あらま。あっくん聴いた今の? 鷹野君いい人いるんだ?」
「まだ告白すらしてないんすけどねーはは〜……」
「それは一大事だねえ。鷹野君やっぱり本気になったらもだもだする人だったんだ?」
我ながららしくねえなあとは思っている。思えば厄介事が多い身の上ではあるし、やたらうるせー奴を黙らせるにはどうするかと悩んでもいた。女性関係が派手だったのが仇になるやも。ならないでか。相手はきっと純情真っ白な子だ。ーーだがしかし。
「……逃がす気は無いんで。一応」
「こっわ! 鷹野君こっわ!! ブラックケイ君!」
「ブラックって……悪者にしないで下さいよ至って真面目なんすから」
「こんな鷹野君見たことないもん。うーん……そのお嬢さんが心配……」
「あれ、年とか言いましたっけ俺」
「んーん、何となく? 鷹野君世話好きなとこあるから年下じゃないかなあって」
こっわ。女の勘こっわ。
「上手くいったら教えてね」
「はあ、まあ、出来たら」
自信なさそうな鷹野君なんて珍しい物見たなあ、とさやかはころころ笑って。参ったなと頭を搔きながら、オマエの姉ちゃんにゃ敵わねえわと森矢の事を考えていた。
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