君のいない日常
強く、つよく。
ここから見える観客席の景色が好きだった。舞台上からすれば対照的に薄暗いそこは、意外と人の顔がよく見えて面白い。楽器を構えればしんと静まって、動き出せば曲に聞き入る姿達。純粋に音に酔いしれているのもあればこちらの技量をつぶさに観察しているらしいものもある。(偶に見かける、眠ってしまっているやつなんか最高にウケる。いいね、高級な子守唄じゃねえの!)演目が終わった時に起こる拍手から「ああ、やってやった!」と誇らしさが湧き出てくる。音に包まれるというのはこれを言うのだと、自分は何度も経験してきている恵まれた身だ。
昔から共演者を食ってしまう自分も、ありがたいことに世界的に有名な弾き手と共演させてもらう事もあるわけでーーその時はさすがに大人しくしているつもり。本人はそのつもりでも終わってから「やってくれたな」と言われる事はある。この時は、留学していた先で馬が合った二年先輩が相手だった。現在相手もプロギタリスト。ただし知名度と格は断然あちらの方が上である。
「君とやるといつも僕は追い回されてしまう。本番になるとケイは兎を狩る獅子みたいだな」
「冗談だろ? 俺の方がいっぱいいっぱいだったぜ?!」
「どこが。どこに追い込まれるのかと思ってドキドキしたよまったく……でも、最高だった。さすがだ」
「ん。俺もすげー楽しかった。ーーでもさ〜追い込んでイかせるなら女のがいいに決まってんだろ。ルーク」
「ふっ、ははっ。……変わらないな。ケイは」
とん、と肩口を拳でひと叩き。久しぶりの再会でもあったせいだろう。最後に来日してから久しいというのであちこち案内もしたし積もる話もあった。留学先で意気投合して、よく知った仲なので軽口だって叩くし喧嘩だってする。打ち合わせで険悪になろうがじきに折り合えるものだ。観客がいるからには最上級を演じるのがプロ。
「ケイ。君は本当に、日本に留め置くのが惜しいよ」
「そうか? いやあ照れるな」
「僕の所に来てくれたら今よりもっと高みに行けるのに」
「あははは! ルーク。俺みたいのなんか連れてきたら事務所にどやされちまうぞ?」
この遣り取りは何度かなされていて、しかし自分がうんと言う事はない。相変わらずだねと両肩を竦めてみせるルークの表情は実際残念そうではある。こんな申し出を袖にする事には慣れている。生憎、国内ならまだしも世界中飛び回る仕事は苦手なのだ。
一人、観客のいないホールの舞台上で佇む。ライトアップはされていて目を上げると眩しいくらいだ。自分の足音ですら響くような静寂。がらんとした風景を味わえるのもこの世界にいるからだ。それは確かに幸福で、同時に【こちら側】は孤独でもあると思っている。ーーおい。今日はどうしてるよ。
* * *
鷹野恵亮の朝は基本的に遅い。仕事が入っていなければ昼過ぎまでだらだらと寝ている。サラリーマンが聞いたらひたすら羨まれそうな態だが、自分は彼らの休日に忙しい身分なのだから気持ちの上では五分五分ではなかろうか。
ごろりとベッドに寝転がったままメールチェックをして、時間を確認してのろりと起き上がる。ふあ、と欠伸を一つ。矢橋から生存確認のメールがあって、やれ食生活はちゃんとしているかとか酒は過ぎるなとか書いてある。お前は俺のオカンかと言うと「ほったらかしよりマシやろ!」と小言が倍々になるので止めている。暇なのか。そっちこそちゃんと主婦やってんのかよと思いつつ、文面はシンプルに「いつも通りやってる」とだけ打って返信した。昔から実の両親より友人や先輩後輩達の方がメールや電話の遣り取りが多い。元々放任主義であり、息子が堅気の仕事に就かず仕舞いなのもあって干渉してこなくなったのだ。気楽なような薄ら寒いような家族関係。ぽい、とスマホを放って、冷蔵庫へ。喉が乾いているのを烏龍茶で潤して、また欠伸。疲れが残るようになったよなと自嘲しつつ顔を洗いに洗面所へ足を向けた。
人間、生きていれば必ず年をとる。三十路に乗って数年、まだまだ若輩だと思っているが後輩というものを見るとそうでもないのかとも思わされる。
先日、先輩後輩ペアの結婚式があった。落とすまでが長かったくせに付き合い出して結婚まではトントン拍子だったらしく、クラブの面々は「やる時はやる奴だな」とその後輩に拍手を送っていた。あの様子だと子どももじきに、だろう。めでたいことだ。一人でも生きていけるような女が結婚に踏み切ったのを見たのは何度目だろうか。世の中結婚を望む者が減っているというが、少なくとも自分の親しい面々は着実に相手を見つけて進んでいる。さて、自分は? 答えはNO、だ。
きっと独りが楽し過ぎるせいだ。自由は保障され、求められれば女性の相手もつつがなくこなせる。イケメンはいいよなと揶揄されるのを笑って受け流す。ただ、これだという相手が見つからないだけなのになあととぼけた顔もお手の物。
「本気になれる相手が見つかったら、あんたはヤバそうやな」
「うっせえよ。ねえよそんなもん」
矢橋曰く「飄々としとる男ほど特定の相手がでけた時に怖い」そうで。それはテメエの旦那の事か? それとも片思いしていた先輩の事か? 訊いたらもれなくシバかれそうなので訊かなかったが。
ピリリ、とスマホが着信を報せる。メールかと思ったが電話の方らしい。面倒でしばらく放置してみたがしつこい。ふうん、とスマホを取り上げれば【宮田さん】との表示。何だろう。
「はい」
「こんにちは。今、大丈夫?」
「珍しいっすねこんな時間に」
「うん。そろそろ起きてるかなって」
察しがいいことだ。
「鷹野君さ、夜出てこれないかな? うちの店」
「構いませんよ。飲み相手にですか?」
「ははっ、うん。好きな物食べて飲んでくれていいから話聞いてもらえないかな」
宮田の誘いなら、もしかしたらまた小さな箱での仕事かもしれない。彼は店で月に何度か催しをしているのでその要員だろうか。前に一度頼まれた事もあるのでこちらとしてはやりやすいが。
「いっすよ? 今聞いても」
「出来れば直接会って話したいんだ」
「熱烈っすねえ」
「いつだって会いたいよ。君は楽しい人だしね」
「それはどーも。俺も宮田さん好きっすよ」
言葉の割に淡々とした遣り取りが可笑しくてお互いに電話口で笑ってしまった。じゃあ夜にと大体の時間を決めてから電話を切る。とにかく夜の予定が入ったのには変わりないので、さて今日は昼間にあれこれ片付けておかなきゃなと算段をつけた。掃除洗濯に買い出し。寂しい冷蔵庫を満たしてやらねば。
「んー……とりあえず腹減ったな」
買い出しついでにどこかで適当に食べよう。腹が減っては、とは昔からよく言うし。ゆったりした動作で着替えにクローゼットへと足を向けた。
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