第7話 「夢現」
【前回のアンクロ】
メアリム老人は異世界人について一馬に語る。一馬がこの世界に来る5年前に、人為的な召喚によってこの世界に来た異世界人の存在に、一馬は複雑な思いを抱く。
身の振り方が決まるまで留まるよう老人に勧められ、言葉に甘えることにした一馬。垢を落とすために寄った水場で、ベアトリクスから「背中を流します」と思わぬ申し出を受けるのだった……
「随分と……手慣れてますね」
「ふふっ……心地はいかがですか? 痛かったら言ってくださいね?」
「はい。とても……気持ちいいです」
ベアトリクスさんは手際よく俺の体を洗っていく。背中から肩、二の腕、指先まで。ヘチマタワシに似た固いタワシで強めに擦っているはずなのに痛気持ちいい……これは癖になりそうだ。
やっぱりメアリム爺さんもこうやってベアトリクスさんに洗ってもらってるんだろうか……
いい趣味してんなぁ……爺さん。
ふとメアリム老人がベアトリクスさんに体を洗ってもらっている様子を想像した……が、家政婦がご主人様に奉仕するというより、訪問介護員さんがお爺さんを風呂に入れてる絵面が浮かんでしまい、思わず苦笑する。
と、ベアトリクスさんが俺の目の前に石鹸の泡がたっぷり付いたタワシを差し出した。
ん? 何だろう。
俺が首を傾げると、ベアトリクスさんは少し困ったように笑って言った。
「前の方はご自分でなさってください」
「あ……はい」
まあ……そりゃそうだわな。別に何かを期待していた訳じゃないが。俺は自分に苦笑してベアトリクスさんからタワシを受けとると、自分の体を洗うのだった。
「では、こちらの御召し物は洗濯しますね」
冷たい井戸水で俺の体を流した後、ベアトリクスさんが汚れたシャツとスラックス、それに下着を手に取って言った。
「よろしくお願いします」
「はい。お任せ下さい。あと、早く着替えて下さいね。風邪を引きますよ?」
俺は、そう言ってにこやかに微笑みを浮かべ屋敷に戻っていくベアトリクスさんの背中を、ぼんやりと見送った。
なんか、いいな。
濡れた体を冷たい風が撫で、思わず身震いする。いけないいけない。冗談じゃなく風邪を引いてしまう。
俺は急いでタオルで体を拭くと、ベアトリクスさんが持ってきてくれた服を着ようとして……少し手が止まった。
上着はいい。ズボンもウエストは丁度いい。だが、股下の長さが長い。
くそ。センパイはどんだけ足が長かったんだよ。
さて、どうしてくれようか? と考えていると、また後ろから声をかけられた。
「カズマ様、お部屋の準備が整いましたが……どうかなさいましたか?」
「へ? あ、いえ……何でもないです」
慌ててズボンを履くと、訝しげな顔をするクリフトさんに笑って誤魔化した。でも、クリフトさんは困ったような顔をして曖昧に頷くだけ。
そうか、言葉が通じないんだ。やっぱり不便だな。
「こちらです。どうぞ」
クリフトさんは俺が大丈夫だと判断したようで、軽く頷くと踵を返して屋敷へ歩き出した。
「狭い部屋ですから、ご不便をお掛けするかもしれませんが、今日からこちらをお使いください」
クリフトさんがそういって案内してくれた部屋は、俺が住んでいたアパートの居間ほどの広さだった。1LDKの安アパート暮らしにとっては十分な広さだ。これが『狭い』なんて贅沢だぞ?
「失礼します」
部屋に入ってぐるりと見渡す。窓からは陽の光が差し込んで明るい。ベッドと小さな机。それだけの簡素な部屋だ……客間というより、誰かの個室だったのだろうか。
ベッドもきれいに整えてあって、普通にマットレスがある。ファンタジーの舞台としてよく描かれる『中世ヨーロッパ』の寝具は藁にシーツを被せただけのもの、もしくは藁の上に直接寝るもの……そういう話をネットで見たことがあったから、これはありがたい。
そういえば、この世界の文化レベルって、俺の世界で言えばどれくらいなんだろうか……思ったより清潔な街並みやマットレスのあるベッド。少なくとも『中世』レベルでは無さそうだ。
まあ、そんなことはどうでもいいな。
「いい部屋ですね」
俺の言葉に、クリフトさんはまた困ったような表情で俺を見た。雰囲気だけじゃダメか。よし、こんなときこそボディランゲーシだ。
俺は仕種と表情で感謝の意思を伝えてみる。3通りぐらい試したところでクリフトさんが笑ってくれた。何とか感謝の意思は伝えることができたようだ。
ふう……疲れたぜ。
「……では、私はこれで失礼いたします」
クリフトさんはそういってドアを閉めると、そのまま行ってしまった。
今まで互いに言葉が通じることが当たり前だったから、いざ言葉が通じないと、とても不安だし不便だ。大陸公用語だったか……勉強しなきゃな。
しかし……昨日から色々なことがいっぺんに起こったせいで、身も心もクタクタだ。水浴びで体がスッキリして安心したからか、どっと疲れが出た。
日は高いけど……少し休もう。
俺はベッドに身を投げ出すように横たわった。途端に急激な睡魔が襲う。
……
……
……
……
ん? どこだ? ここは。
気が付くと、俺は暗い闇の中に居た。右も左もわからない、静寂の闇。
ふと、視界の隅を金色に光る何かが過った気がした。
ーーあれは、蝶? そういえば、前にも見たような……
「『この世界』の居心地はどうだい? カズマ」
不意に聞こえた声の方を振り向き、俺は眉を顰めた。そこに居たのは、黒い髪、蒼と紅の異色眼を持った美しい少年。
俺は、この少年を知っている。あの日、この世界に来る前、俺はこの少年と会った。少年の名は……
「『ヴォーダン』、か?」
俺の言葉に、少年は驚いたように目を見開き、すぐに楽しそうに笑う。
「へぇ……幽世領域において現世領域の記憶……しかも異世界の記憶を引き出すことができるなんてね。やはり君は面白いな」
また訳のわからないことを……
俺は僅かに苛立ちを感じながら少年に問い掛けた。
「お前か? 俺をこの世界に連れてきたのは?」
「どうしてそう思うんだい?」
目を細め、少年は首を傾げる。
「あの時、お前が俺に何かしただろ。だからこんな事になったんじゃないのか。違うか?」
「何かって、この契約の事?」
そう言うと、少年は指を鳴らした。すると彼の手元に黒いノートが現れる。あの時名前を書かされたノートだ。
「それはちょっと違うよ。君と僕とのこの契約があったから、君はこの世界に来れた……そうでなければ君の生はあの日、倒壊したアパートの下で終わっていたよ? 少しは感謝してほしいな」
何が『感謝してほしいな』だ。ふざけやがって。俺がアパートの下敷きになって死ぬなんて誰が決めた。
「俺は、異世界に飛ばしてくれ、なんて頼んでない。こっちは必死の思いで就職試験受けて、やっと内定貰ったんだぞ? さっさともとの世界に戻せ! お前のせいで内定取り消されたら何処までも許さないからな」
ヴォーダンはスッと目を細めて笑った。人を見下すような、邪な笑顔だ。
「冗談としてはなかなか面白いけど、できない相談だよ。君は少し勘違いしているようだね。カズマ。君がここに居るのは我々が必要としたからだよ。君は我々の要件を満たした。だから僕は君を選んだ。それだけの事さ」
「それだけの事って……じゃあ、俺は何のために呼ばれた? お前は俺に何を望んでいる?」
俺の問いに、少年は頭を振った。
「それを君が知る必要はないよ。第一、知ったところでどうするんだい? まあ、いずれわかるさ。それまで君が生きていたら、だけど?」
知る必要はない、だと? 馬鹿にしてるのか。誰にだって、なぜ自分がこんな状況に置かれているのか、知る権利はあるはずだ。
自分の都合で人を異世界に呼んでおいて、何のために呼んだか教える必要はないなんて、何様のつもりだ?
だが、少年は俺の苛立ちなど意に介さぬとばかり、黒いノートを振りながら笑って言った。
「ああ、安心してカズマ。契約はちゃんと守る。僕は嘘はつかないよ……くくくっ!」
薄気味悪い笑い声をあげるヴォーダン。俺は知っている。こんな顔で笑う奴の『嘘はつかない』は大体が嘘だ。
「君の魂……『愚者』に定められた運命は希望と失望、変革と惰性。今度はどちらを選ぶ? 楽しみだな……まあ、せいぜい生き抜いて見せてよ。『定めの刻』までね」
『今度は』? 『定めの刻』って何だ? だが、俺の疑問をよそに、少年の姿は徐々に闇に消えて行く。耳障りな笑い声が木霊となって闇に響いた。
「畜生っ! 待ちやがれ! ヴォーダン!」
「では、君の道行きに幸あらんことを……」
耳元で囁くような声が聞こえた瞬間、俺の意識は闇に溶けた。
はっと目が覚め、弾かれるように半身を起こす。
部屋が薄暗い。どうやらあのまま熟睡してしまったらしい。
今何時だろうか……無意識にスマホを求めてベッドをまさぐった俺は、その行為が無駄であることを思い出して溜め息をついた。
くそ……汗かいちまった。喉が乾いたな。
窓の外は真っ白だ。どうやら霧が出ているらしい。
水が飲みたい。台所に行けば水瓶があるかもしれないが、肝心の台所の場所がわからない。
しょうがない。外の水場に行こう。
俺は髪を掻いて体を伸ばすと、ベッドから立ち上がった。
朝靄のなか、欠伸を噛み殺しながら水場に向かう。霧は濃いが歩けないほどではない。
運河を流れる水の音と、水車の軋む音をぼんやり聞きながら、バケツに水を汲み顔を洗う。
冷たい水が起き抜けの体に心地よい。にしても、嫌な夢を見た……いや、あれは夢か? やけにリアルだったし、鮮明に覚えている。
ヴォーダン……アイツが元凶か。
何者かはわからんが、ふざけた事ぬかしやがって……上等じゃねえか。お望み通り力を尽くして生き抜いてやる。
ふと、視線を感じて俺は顔を上げた。
いつの間にか、水車小屋の前に一人の少女が立っていて、じっと俺を見詰めている。
綺麗な亜麻色の髪の、透き通るような肌をした白いワンピースを身に着けた女の子。年の頃は5歳から6歳くらいか。大きく澄んだ青と黒の異色眼が印象的だ。
何だ、この子、爺さんの孫かな? でも、どこかで見たような……
声をかけようとした時、少女が口を開いた。
「やっと、会えたね?」
「え?」
瞬間、脳裏で記憶が弾けた。
激しく揺れる大地、眩く輝く十字架、叫び、悲しみ、絶望、消える世界……
……
ハッと気が付いたとき、少女の姿は消えていた。
何だったんだ……今のは? 辺りを見渡すが、先程の少女の姿は見えない。
消えたのか? 霧のように? まさか。
朝陽が遠く山の稜線から顔を覗かせ、眩しい光が庭を照らす。朝霧は溶けるように消えて、世界は色を取り戻していく。
どうやら俺は、悪夢の続きでも見ていたらしい。
俺は溜め息をつくと、再びバケツに水を貯め、冷たい水で顔を洗った。
メアリム老人に話をしてみよう。
ヴォーダンが俺に何をやらせたいのか分からない。奴に俺を帰すつもりがないなら、いいだろう。奴が帰れと言うまで生き抜いてやろうじゃないか。
ここには祝福をくれる女神様も、ゲーム脳を再現してくれる神様も居ない。チートスキルなんてあるわけがない。だから、自分が生きるために必要なものは自分で学ばなければ……
朝日に向かって深呼吸をしながら、俺はそう心に決めた。