2
ジェイド王子への執務室乱入事件からもう2週間以上経って、
ようやくカリナも怒りが収まってきた頃の事だった。
朝、いつものように王宮に出仕してきて、査察部の執務室にたどり着いた途端、
部下のゲーリー・クレメンスがカリナの傍らにすっと音も無く近寄った。
「親展の封書です・・・ジェイド殿下から。」
ほんの少し声に不満が滲んでいる。
どうやら、ジェイド王子からの手紙の差出が気に入らないらしい。
カリナはそれに気付いた素振りも見せずふっと微笑んで
「ありがとう。」
といって受け取った。カリナは、このゲーリー・クレメンスが
何となく自分に何かしらの好意という名の興味を持っていることに勘付いていた。
それに併せて最近王宮で席巻している噂が一つある。
それは、どこが発信源かはカリナ自身は全く知らないが
『ハイライド大臣がようやくジェイド第二王子殿下とのご婚約を了承された』
というものである。
ジェイドとカリナは同い年の20歳と年頃で、王位継承順位もお互い5本の指に入る。
この二人が結婚して生まれた子どもは、おそらく近代王家でも突出して濃い血を受け継ぐ。
だから幾度と無く二人の間に婚約の噂は流れてきていた。
けれども、カリナには決してジェイドと結婚できない秘密があった。
『殿下と結婚してしまったら、重婚になってわたしが犯罪者になってしまうじゃない』
カリナには5年前に教会で誓文を交わした夫がちゃんと存在する。
その夫の名はギルバート・フェルディゴール。
カリナより二つ年上の新興貴族出身の男で、現在軍部所属の少尉だ。
『洋国』の男性の平均身長よりもやや高く、そして均整の取れたまさに
実戦に向いた筋肉の付き方のしている体つきで、
容貌も筋肉族ばかりと言われる警備部所属に珍しく端正である。
武術の実力も折り紙付で、内々では将来的に相当な地位に上るだろうと言われている噂もある。
カリナにとって、確かに昔は女遊びに興じていた節があるものの、
最近は真面目なギルバートとは十分に対等な夫婦関係が築けると思っているのだが、
いかんせん向こうがカリナをコンプレックスに思っているらしく仮面夫婦のような状態に陥っている。
そして最近更にギルバートに関してカリナを不機嫌にさせる出来事が起きた。
カリナの従兄弟に当る、ジェイド王子がギルバートを私設秘書官にしたいと言ってきたのだ。
勿論猛烈にカリナは反発したのだがその願いも空しく
今現在、ギルバートはジェイドにこき使われていたりする。
その不愉快な事実を思い出してカリナは一層不機嫌になりながらも封書をこじ開ける。
そこに書かれている見慣れたジェイドのミミズののたくった跡のような字を眺めて
これまた衝撃の事実に一切の動作が停止した。
『カリナへ
この間の件、了承した。然るべき人選の上、我が部下・ギルバートに
君の依頼を受けてもらうことにした。
ふふふ、思いっきり楽しんできてくれ。
J』
カリナは読後怒りにまかせて、手紙を八つ裂きにした。
「主任お帰りっす~」
「ただいま・・・」
思いもよらない依頼を受けてギルバートは【鉄の砦】にある部屋に戻ってくると
そこには上半身裸の肉色の男達が群がっていた。・・・常の風景ではあるが。
「何をしているんだ」
といってそこの一団を覗き込むと、数名の部下達が新聞紙のようなものを熱心に読んでいた。
この、筋肉脳味噌族が普通の新聞のようなものを読むのはありえない。
ギルバートはすぐさま
「何を読んでいるんだ。軍の士気を下げるようなものを持ち込んでいるなら没収だぞ!?」
といかがわしいものかもしれないことを危惧して怒鳴る。
けれど、この間、ギルバートに思いもよらないカリナのファンクラブの存在を教えてくれた
つぶらな瞳の部下が、離れた席からどうやら日和見しているらしく、
ふわああと大きな欠伸をしながらギルバートに言った。
「主任、あれ、今週の大臣の例の週報ですよ。
正直思うんっすけど、これはもうどうにもなんないっすね。
自分は、確かに高嶺の花によってたかってるってのは
男としてどうかっというのはあるかもしんないっすけど、こいつら皆、
『ハイライド大臣に何かあっては困る!』
ってことで、お互い警備の強化とかしあってるらしいっすから
必ずしも士気が下がるっつー訳じゃないと思うんっすけど。」
といった。ギルバートはむむう、と唸るしかない。
すると直属の部下であり、熱心なカリナ信奉者のコゼットが真剣な眼差しで
ギルバートにすっと週報を差し出した。
「・・・何だ、これは。」戸惑いつつもきっちりと受け取ってギルバートはそれを見ると、見出しに大きく
『ハイライド大臣、ジェイド第二王子殿下とのご婚約を了承か!?』
という文字が躍っていた。
「はあっ!?」
いてもたってもいられず、一際大きな声でギルバートは叫んでしまう。
するとずらりと部屋の肉色の男達がギルバートに視線を注いだ。
「あ、いや。えっと・・・何でもない。」
小さな声で弁解してから再び記事に視線を落す。そこには
『ハイライド大臣もあと3ヶ月で20歳の誕生日を迎えられる。
偶然にも悪しきことだが同い年でいらっしゃるジェイド第二王子は、
常々ご婚約の旨をハイライド大臣に言っていたようだが
このほどハイライド大臣がこの憎き王子のプロポーズを了承したとの噂である。
そのせいか、この1ヶ月ほどで大臣は何度か王子の私設執務室を訪れているようで
この噂の信憑性はますます増すばかりである・・・』
などなどと書かれている。
根も葉もない噂に対してギルバートは声を大にして叫びたかった。
まず、カリナは既婚者である。しかも、ギルバートの妻であるという。
そもそもこの大前提がある中でこの噂は全否定できる。
そして、この1ヶ月王子の元を訪れているのは、一つはギルバートを雇うといった
ジェイドの横暴に抗議するため。
もう一つは、ジェイドに、何か極秘に護衛をつけることを打診した件である。
そこに記事にあるような疚しいことはなにひとつない。
だのに、噂はこうやって一人歩きするものらしい。
・・・そう考え込んでいたお陰か、
ギルバートはいつの間にか怒りで新聞をぐしゃぐしゃになるほど握り締めていたらしい、
部下達がじいっとギルバートを見ていた。
「な、なんだ・・・?」
「主任・・・もしかして、あなたも、・・・仲間ですか・・・?」
「・・・え?」
小さなギルバートの聞き返しが聞こえたのか聞こえていなかったのか定かではないが
部下達がいきなり騒ぎ出した。
「主任も、俺達の仲間だ!!!カリナ大臣の婚約話、やっぱ許せないっすよね!?」
「是非、主任、ファンクラブに入ってください!
あなたのような方が仲間になれば我々は安泰だ!!!」
「主任が会員になるってよ、万歳ー!」
「おー!!!」
ギルバートは目が点になった。
なんだか本人の了承もなしにファンクラブ入会が決定事項となっている。
ギルバートが動けないでいると、そっとつぶらな瞳の部下がギルバートに寄ってきて
そっと耳打ちしていった。
「あのですねえ、ファンクラブには会員規約があってそこに
『大臣はみんなのもの、抜け駆けは許さない』という禁止事項がありまして
奴らはそれを狙ってるんです。
最近、主任がジェイド殿下付で皆より格段に本宮を訪れる機会が多くなって自分らより顔がいいっていう理由だけで、万一の可能性で大臣に近付くのを危惧してたぐらいですからねえ・・・」
突然の事態にギルバートは何がなんだかと、疑問符を浮かべることしかできない。
第一
『俺は、ファンクラブに入ってようが入ってまいが・・・彼女の夫なんだが・・・?』
という動きようの無い事実がある。
しかし彼らは当然その事を知らない。
さてどうしようか・・・とギルバートは新たな悩みの種で困り果てるしかなかった。
ギルバートは一日の疲れがどっと押し寄せる中、夕方の勤務を終えて
王宮敷地内にある士官専用の独身寮へと歩いて帰寮した。
独身寮という名が示すように、この寮は独身男性のみが入寮できる。
しかし、他の同期の者達で蔭位入隊の者はまず最初から街で家を借りて住める金を持つ者ばかりだったし
一般で入隊してきた者達も既にそろそろ結婚した者が出てきたりして
家族寮へ引っ越したり、街で家を購入した者もいる。
そんな中で未だギルバートが独身寮で住む理由はいくつかあった。
一つ、カリナと別居するため。ギルバートは婿養子として結婚したので実家をアテにはできない。
更に下宿を借りるにしても、婿養子の身だと浮気をする気なのではないだろうかと
先方に疑われると肩身が狭い。
だから、安全地帯であるこの独身寮に入寮し続けている。
二つ目に、寮だと何かあったときに便利である。
機動の速さが命といわれる軍にあって、家が近い方がいいに決まっている。
更に、三つ目は・・・
「おっ、ギルバート帰ってきたか。」
隣室のドアから男が顔をのぞかせた。
ギルバートはその人物を見て疲れの滲んでいた表情を少し緩ませた。
「ドルフか。ただいま。早かったみたいだな。」
ドルフと呼ばれた男は快活にニコリと笑った。
「いや、今日は夜勤だから今から出るところだったんだ。
あ、そうそうギルバート、お前に荷物が届いてるって寮母さんがいってたから
後で行った方がいいぞ。」
「ああ、わかった。じゃあそっちこそ気をつけて。」
「気をつけるよ。」
そういってドルフはそそくさと出て行く。
ドルフの本当の名前はアドルフ・コールディアという。
少し赤みの入った茶の髪を軍人らしく刈り上げているアドルフもまた、
士官として所属している。
ギルバートより5つほど年上らしいが童顔で全く自分よりも年下に見えさえする。
身長はギルバートの目線より若干下、で小柄な方なのだが
ギルバートのような貴族出身ではなく一般から入隊しているにも拘らず
所属部隊は花形の『近衛隊』である。
ギルバートより少し身長が低いといっても十分見目のいいアドルフは、
入隊して新人研修が終わった後すぐに配属されたらしい。
ギルバートの入寮の三つ目の理由として、
家賃は格安な上、三食付きで洗濯も別料金だが頼めば全部やってもらえる。
そして下宿のように毎日王宮まで通ってくるのが面倒くさいという理由で住んでいる者も
結構この寮にはいるので、アドルフも多分に漏れずそうなのかもしれないが。
ギルバートは後で事務所に荷物をとりに行こうと決めて
薄暗い寮の廊下の突き当たりにある自らの部屋のドアに手を掛ける。
そして鍵を差し入れてドアノブを回して部屋の中に入った。
ギルバートの部屋は、独身寮で一番面積の大きい部屋である。
だからといって何十帖もあるというわけではなく、だいたい8帖ほどのスペースを
一人で使わせてもらっているに過ぎないが、
入寮したての者は、4帖ほどの部屋を4人ぐらいで共有するのだから
かなり恵まれている方である。
建設されてから30年以上経つこの寮もそろそろ軋みがきているらしく、
一歩部屋に足を踏み入れるだけでギシリと床板が音を立てた。
薄暗い部屋の中を歩いて、肩に掛けていた荷物をドサリと床に置く。
―――徐に顔を上げてみると、
窓際に置いてあるベッドの上から影がうっすら床に伸びているのが視界に入った。
朝、きちんと窓を閉たというのに、影の背後のカーテンがひらひらと風ではためいている。
ギルバートは今の今まで疲れのせいもあったかもしれないが気付かなかった
己への怒りも込めて、低く、部下の者ですら震え上がらせるような声で鋭く誰何した。
「・・・誰だ、そこにいるのは。」
「・・・・・・」
返事が返って来ない。
ギルバートは、即座に上着の胸ポケットに差し込んであった短剣を、
衣擦れの音すらたてずに差し抜いて手中に忍ばせる。
情報部にいた頃、こういうことはあまりある日常だったゆえである。
ギルバートは足早に窓辺まで近寄って、
ドン、とベッドのすぐ横の壁を掌で大きな音が立つほどに叩いた。
「誰だお前は。何の用があって此処へ来た?」
冷静な声で尋ねながらも、片方の手でベッドの上に座り
ギルバートの方を向いている相手の首下に短剣を差し入れていた。
それは切れるか切れないかのギリギリで刃は皮膚に触れている。
・・・それでもベッドに座る相手は動じていないのか、何事も発しない。
ギルバートはその相手が素人ではないと予測して、カーテンに壁についていた手をかけた。
シャッと音を立ててカーテンがレールを滑る。
カーテンを開けた所から現れた窓が、落ちかけている夕日を映していた。
夕暮れの赤い光が、薄暗かった部屋の中を火事場のような不気味な朱に染め上げる。
―――そして、目の前の人物にもその妖しい光が全面に当っていた。
ギルバートは、予想もしていなかったその光景に、思わず息を飲んだ。
「・・・ひ、姫・・・」
「ギルバート、早くこの刃を遠ざけてくれないかしら?
あんまりいい気分じゃないのよね、こういうの。」
カリナは無表情で下からギルバートを見上げていた。
ギルバートはすぐさま刃をカリナから離すものの、
自分の犯した過ちと、カリナに対するあまりの無礼のために、
罪悪感の波が全てを洗い流すかのように押し寄せてきた。
カリナは、見事な金色の髪を赤の陽の光で染めながら、少し困ったような顔で言った。
「別にあなたが悪いわけじゃないわ。
私があなたの部屋に黙って忍び込んでいたのが悪かったのよ。
あなたは軍人。非常事態にああいう行動を取るのが普通だもの。だからそんな顔しないで。」
そういってカリナの手がすっと下からギルバートの頬に伸びた。
それは、冷たくひんやりとした手だった。
ギルバートは思わず、
「そんなに・・・酷い顔になってますか?」
と尋ねていた。カリナは戸惑ったような顔のまま口の端に笑顔を浮かべていた。
「ええ。今にも、泣きそう。」