第一話:生贄の少女とエプロン姿の邪神様
冷たい雨が降る夜だった。
私は手足を縛られ、鬱蒼と茂る『黒き森』の奥深く、石造りの古びた祭壇に転がされていた。
「リアナよ。お前のような魔力を持たない無能な娘でも、邪神様への生贄としてなら役に立つ。我ら一族の繁栄のため、誇りを持って喰われるがいい」
一族の長である父は、冷酷な声でそう言い放った。
傍らでは、優秀な魔法使いである美しい妹が、扇の陰でクスクスと嘲笑っている。
「お姉様、せいぜい邪神様を怒らせないように、美味しく食べられてくださいね」
私は何も言い返せなかった。
代々強力な魔法使いを輩出する名門伯爵家に生まれながら、私に発現したスキルは【植物の声を聞く】という、戦闘には一切役に立たないものだった。
幼い頃から虐げられ、使用人以下の扱いを受けてきた私にとって、死はむしろ、この地獄のような日々からの解放に思えた。
やがて、父や神官たちが儀式の呪文を唱え終え、足早に森から去っていく。
暗闇の中、一人取り残された私は、静かに目を閉じた。
(……やっと、終わるんだ)
ゴゴゴゴゴ、と地鳴りが響く。
祭壇の奥、決して人間が足を踏み入れてはならないとされる『邪神の領域』から、圧倒的な魔力の奔流が近づいてくる。
漆黒の瘴気が周囲を覆い、私はその恐ろしい重圧に耐えきれず、意識を手放した。
* * *
「……おい、起きろ。いつまで寝ているつもりだ?」
低い、けれどどこか呆れたような声で目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、地獄の業火……ではなく、パチパチと温かな音を立てて燃える暖炉の火だった。
「え……?」
私はふかふかのベッドに寝かされていた。
見回すと、そこは丸太とレンガで造られた、とても温かみのある山小屋のような部屋だった。壁にはドライフラワーが飾られ、部屋の中には何やら美味しそうな、スープの匂いが漂っている。
「気がついたか」
声のした方を向くと、そこには一人の青年が立っていた。
夜空のように深い黒髪に、血のように赤い瞳。人間離れした圧倒的な美貌と、周囲の空気を震わせるほどの強大な魔力。神話に描かれる『邪神』そのものの姿だ。
しかし、ただ一つだけ神話と違うところがあった。
彼は、フリルのついた可愛らしい花柄のエプロンを身に着け、右手には木製のお玉を握りしめていたのだ。
「あ、あの……邪神様、でしょうか?」
「人間どもは俺をそう呼ぶな。俺の名前はノアだ」
「ノア様……。あの、私、生贄として捧げられたリアナと申します。どうか、ひと思いにお召し上がりください」
私はベッドの上で正座し、ぎゅっと目を瞑って首を差し出した。
すると、ノア様は深いため息を吐いた。
「誰が食うか。俺は五百年前に肉食をやめたんだ。というか、人間なんて骨ばかりで美味くないし、何より腹を壊す」
「えっ?」
「大体、俺がいつ『生贄をよこせ』と言った? 勝手に麓で騒いで、勝手に人間を放り投げていくから迷惑しているんだ。いつもはそのまま麓の町に転移魔法で送り返すんだが……お前、あまりにもガリガリで栄養失調を起こして倒れやがったから、仕方なく運んできたんだぞ」
そう言って、ノア様はベッドの脇にあるサイドテーブルに、湯気を立てる木組みのボウルをコトッと置いた。
「ほら、野菜と豆のポトフだ。食え」
「え、でも、私は生贄で……」
「いいから食え。倒れられたら寝覚めが悪い」
恐る恐るスプーンを手に取り、スープを一口すする。
――美味しい。
野菜の甘みが溶け出した優しい味が、冷え切った胃に染み渡っていく。気づけば私は、涙をぽろぽろとこぼしながら、夢中でポトフを平らげていた。
「……美味しかったか?」
「はい……っ、こんなに温かくて美味しいご飯、初めて食べました……」
「そうか。ならよかった」
邪神様は、少しだけ照れくさそうに笑った。
その笑顔はとても優しくて、私の知っている『邪神』のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。




