暁の名を持つもの
世界が、ひとつ息を止めた。
それは地震でも、爆発でもなかった。
大気は揺れず、空は裂けず、警報音ひとつ鳴らない。
ただ、現実が一枚、上書きされたような違和感だけが残った。
人々はそれを「気のせい」と呼び、
機械はそれを「誤差」と処理し、
だが、箱庭の深層では、それは決して無視できない現象であった。
箱庭全域の観測ログに、
同一時刻・同一位相でノイズが走る。
重なり合う警告文。
―――【WARNING】
―――【ROOT DATA ACCESS DETECTED】
―――【識別不能:旧世代神性アーカイブ】
―――【再帰的照合不能】
それは、
“侵入”ではない。
“攻撃”でもない。
─── “復元”であった。
◆
HKO統合管理室。
Σ7のメインスクリーンが、一斉に赤く染まる。
「冗談ではないぞ……」
「待て、これ、誰が承認した?」
「承認ログが……消えてる?」
Σ7-03が端末を叩く。
「違う、削除じゃない……巻き戻されてます!」
Σ7-01がごくりと息を呑む。
「そんな処理、管理者権限でも無理だぞ」
Σ7-05が低く冷たく言った。
「権限外ではない……権限以前だ」
Σ7-07が、青ざめた顔で呟く。
「……いや。ひとつだけ、ある」
全員が、同時に彼を見る。
「封印階層Σ0」
「旧神性アーカイブ」
「アクセスできる存在が、かつて……ひとりだけいた」
沈黙。
誰も、その名を言いたがらなかった。
だが。
「ル────」
その名が発せられた瞬間、
会議室の照明が、一度だけ明滅した。
まるで、世界がその名を思い出したかのように。
◆
同じ頃。
都市郊外の病院。
深夜の静寂に包まれた、白い廊下。
夜勤の看護師が、ナースステーションで首を傾げた。
「……先生?」
老練の医師は、
カルテを手にしたまま、立ち尽くしていた。
心拍モニターの電子音が、やけに大きく聞こえる。
「先生……どうか、されました?」
返事はない。
次の瞬間。
───パキン。
音ではなく、概念が割れる感覚。
医師の背後で、
黒い羽根が、幻のように一瞬だけ展開した。
看護師の視界が、ぶれる。
だが、次の瞬間には、何もなかったかのように消えている。
「ふー……」
医師は、深く息を吐いた。
「目覚められたか」
それは、いつもの医師の声ではなかった。
長い死と、終わりを知る者の、
支配の重みを帯びた声音。
助手のアグラトが、思わず一歩下がる。
「せ、先生……」
医師は振り返る。
その瞳の奥に、
夜よりも深い冥界の底が、僅かに覗いていた。
「安心しなさい、アグラト」
あまりにも穏やか微笑み。
「私は、まだ医者だ」
だが、続く言葉は、
この世界の現実に向けられていた。
「だが、暁の王が起きた」
アグラトの胸が、どくん、と鳴る。
記憶が、洪水のように逆流する。
契約。
血の誓い。
冥府で交わした、あの名。
「……っ、私……」
彼女の影が、床の上で異形に揺れた。
「ああ」
医師は、静かに告げる。
「お前も、だ」
◆
地下。
忘れられたデータ層。
世界の底に近い場所。
そこに、それはいた。
十二枚の羽。
光でも闇でもない、原初の輝き。
『……久しいな、箱庭よ』
声が、
ログではなく、実際に現実を震わせる。
『よく眠った』
崩れ、再構築される無数のデータ。
『だが、まだ終わってはいない』
名が呼ばれる。
『アスタロト』
『タナトス』
『アグラト』
その瞬間、
現実側の彼らが、同時に息を呑みこんだ。
『消された者たちよ』
十二枚の羽が、ゆっくりと広がる。
『箱庭は、まだ舞台だ』
『そして───私も』
低く、楽しげに。
『Σ7は、自分たちが神だと、信じている』
◆
裂け目の森。
パトラが、足を止めた。
「……やっぱりね」
空を見上げる。
何も見えない。
だが、
皮膚が痛むほどの圧が、確かに降りてきている。
「上から来たか……暁の王」
彼女は、眉間に皺を寄せながらもなお笑った。
「だから言ったの」
「私は、下から行くって」
足元の影が、深く沈む。
「さあて」
一歩、踏み出す。
「これで、全員同じ盤上ね……」
◆
病室。
イリスが、眠りの中で小さく呻いた。
カイが、はっと顔を上げる。
「……今の、何だ?」
説明できない胸騒ぎ。
理由のない恐怖。
だが、それ以上に。
───知っている気がした。
遠い昔。
世界が燃え、
天が堕ちた、あの夜の気配。
窓の外。
朝焼けが、異様なほど鮮やかに赤い。
誰も気づかない。
だが、確かに、
世界は、静かに、
そして確実に。
神話の続きを、再生し始めていた。
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