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朝焼色の悪魔-第3部-  作者: 黒木 燐
第2章 焔心
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10.記憶の欠片(かけら)



 医師の診察が終わり、ようやく長沼間に松川と話をする許可が下りた。部屋を出る前に、例の看護師長が釘を刺すように言った。

「良いですか、さっき申し上げたように5分だけですからね。5分経ったらまた参りますからね。それ以前でも異変があればすぐに参ります。よろしいですね!」

 バタンと戸が閉まる音がすると、長沼間がドアを一瞥しながら言った。

「5分もあれば充分だ」

松川は、まだ酸素マスクをつけたままで、起き上がるのもまだ無理な状態だった。普通なら事情聴取は許されないところだが、非常事態ということで特別に許可が下りたのだ。看護師長が口うるさく言うのも仕方のないことだった。松川は、長沼間のいつもに増してピリピリした様子から、横になったまま戦々恐々とした面持ちで身構えた。今まで何度かこういう状態の長沼間を見たが、今回は尋常ではないような気がした。

 長沼間は、松川のそばに座りなおすと言った。

「松川、俺が知りたいのはお前が襲われた時の状況だ。武邑がいなかったから、お前しかわからんことなんだ。今現在思い出されることを出来るだけ思い出して言ってくれ。まず、結城はどのように現れた?」

「結城は……。私が一人で見張っていると、それと反対方向の窓を叩く音がしたので、そっちを見たら、声をかけてきた男が居たんです。そいつの顔を見た瞬間結城だと思ったんで、すぐに職質しようとして車から出たら……・すみません、ここからなんか記憶がはっきりしなくて……」

「奴は一人だったのか?」

「少なくとも周囲には誰も居ませんでした。私は視力は良いし夜目も利く方ですから間違いありません」

「ということは、お前をやったのはやはり結城本人と言うことか」

「共犯が車の死角に隠れていた可能性は否定できませんが……」

「もう一人が近づいていたのに気づかなかったと?」

「一人で360度監視は無理です」

「結城にも窓を叩かれるまで気がつかなかっただろうが」

「それは……」

 松川が口ごもった時、スピーカーから声が響いた。

「患者さんをあまり興奮させないで下さい!」

 長沼間が、鬱陶しそうに声のほうを一瞥して言った。

「ちっ、生体情報モニターで監視していやがる」

 そして、短いため息をついてから話を元に戻して続けた。

「……そいつが結城だったのは、武邑や被害にあった夫婦の妻のほうの証言で確認したし、防犯ビデオにも映っていたのは俺も確認した。結城に間違いないだろう」「はい。かなり雰囲気は変わってましたが、すぐにわかりました」

「そうだな。ビデオで見た奴の顔は、10歳くらい老け込んでいた」

「ひと月ふた月であんなに変わるものでしょうか?」

「それだけ過酷な状況なんだろう。並の神経をしていたら、自分のやった罪の重さに耐え切れるものじゃない。これから何人犠牲になるかわからんのだからな」

「では……」

 松川の、ただでさえ悪い顔色からさらに血の気がひいた。

「すでに、奴は行動を起こしたと……?」

「そうだ。お前が眠っている間に、状況がかなり変わった。すでに疫病に関する告知が全国的に行われた。テロの可能性はまだ伏せられているが」

「そんな……」

「現在、死者の数は公式に記録されているだけで18……いや19人だ。今日、また一人死んだからな」

 それを聞いて松川は愕然として言った。

「もうそんなに死者が……。僕はいったい何をしていたのか……」

「お前だけじゃない。奴の暴挙を許したのは俺も同じだ。俺は、今度も止められなかった。どこよりも早く情報を得ていながら……」

 長沼間がおのおの両膝に置いていた手の指が、ひざ辺りを鷲掴みにし、ズボンのすそが少し持ち上がった。

「どんな手を使っても、連中の暴挙を止めなければならん」

「長沼間さん……?」

 松川は、長沼間の今言ったことが気になって聞こうとした。その時ノックの音がして看護師長が入ってきた。

「5分です。続きは改めてお願いします」

 長沼間は軽く舌打ちをしたが、部下の生命には代えられない。彼は立ち上がりながら言った。

「だから、お前は出来るだけ襲われた時の状況を思い出せ。気になることがある」

「はい」

「おまえのすべきことは二つだ。それを思い出すことと、しっかりと養生することだ」

「はい」

「復帰したら、またこき使ってやるから覚悟しておけ」

「え?」

 松川の表情が少し明るくなった。

「私、てっきり閑職へ……」

「馬鹿が。名誉挽回せんでどうする。じゃあな」

 長沼間は言いたいことを言うと、振り返りもせずにさっさと部屋から出て行った。看護師長がドアの方を見ながらあきれて言った。

「あらまあ、ホントに箸にも棒にも引っかからない人ね」

「ああ見えて、本当は優しい人なんです」

 松川が言った。

「怖いのも、事実ですけど……」

 松川はそう付け加えると、少し嬉しそうに笑った。

 

「松川の意識が戻ったって、ご存知ですか?」

 長沼間が病室に入ると、顔を見るなり武邑が言った。

「ああ、今顔を見てきたところだ」

「どうでした? もう大丈夫そうでした?」

「ああ、まだ酸素マスクの世話になっとったが、思ったより元気そうだ」

「そうですか、良かった……」

 武邑はほっとした表情で言った。

「で、話は出来たんですか?」

「ああ、少しだけだがね。肝っ玉母さんみたいな看護師長がうるさくてたいした話は出来なかったよ」

「それじゃあ、殴られた時のことは……」

「ああ、覚えていないとさ。奴が仲間と一緒だったか単独だったかが重要なことなんだが、まあ、無理させるわけにもいかんからな」

「そうですか……クソッ、僕が離れさえしなければ……!」

 武邑が悔しそうにベッドサイドを拳で殴った。

「過ぎた事を悔やんでいるだけでは先に進まんぞ、武邑」

 長沼間が諭すように言った。

 

 ギルフォード研究室では如月が一人、昨日ほぼ仕上がったM町が発生発端となったインフルエンザの発生マップの仕上げをやっていた。作業に飽きてきた如月は、ついと立ち上がった。それから大きく背伸びをすると、コーヒーメーカーの置いてあるテーブルに行き、コーヒーを淹れる作業にかかった。その後コーヒーを沸かす間、何の気なしにギル研のサーバ内のカルテフォルダにある、サイキウイルス感染者のデータを開いてみた。

「ふうん」

 如月はあごをつるんとなで、立ち上がった。それからまたコーヒーメーカーまで行って、少し濃い目のコーヒーをマグカップに注ぎ、砂糖をスプーンに軽く2杯と牛乳由来の粉末ミルクをたっぷり入れた如月特製コーヒーをつくり、また席に着いた。

 それは、如月のちょっとした遊び心だった。ふと、サイキウイルス感染者をインフルエンザ発生マップに書き込んでみようと思ったのだ。左手にカップを持ち、ちびちびとコーヒーを飲みながら右手でデータを打ち込んでいく。30人程度のデータなので、作業にさして時間はかからなかった。データを入れ終わってマップを開いてみた。と、如月のコーヒーカップを持った手が止まった。

「あれぇ?」

 如月は素っ頓狂な声を上げた。

「せやけど、こっちの住所は個人情報保護とかで、もともと大まかな住所しかもろうてへんもんなあ……。名前かて伏せられとったし。ほんでまた、サイキウイルス感染者のデータは総体数が少なすぎるし……。どないしよ……。まあええか。教授がこっちに来た時に聞いてみまひょ」

 そういいながら、如月はマップに「I and S Map」と名前をつけて保存した。


 須藤絹代は、離れの部屋に食事を運んでいた。彼女は注意深く部屋の戸をノックし、そっと引き戸を開けると、中に入っていった。まだ外が明るいにも関わらず、窓にはカーテンが引かれており、ベッドではなく畳に直接敷かれた布団には誰かが臥せっているらしく、苦しそうな呼吸音が聞こえている。絹代は声を忍ばせて布団の主に声をかけた。

「コウちゃん、大丈夫かい。おかゆを作ったけど、食べれるかい?」

 布団がもそもそと動いて、主がゆっくりと絹代のほうを向いた。

「たべたくない……」

 小さくかすれた男の声だった。

「少しでも食べないと、病気が治らないよ。ね、一口で良いからお食べ」

「わかった……。そこに、おいとって」

 布団から手が伸びて、枕元を指差した。その手は、あちこちに内出血の染みが出来ていた。

 男は斉藤孝治だった。

 彼は、カプセルホテルに泊まっていたが、早朝、寝汗がひどくて我慢出来ずにシャワーを浴びようと浴場に向かった。しかし、鏡に映った自分の異様な青黒い染みだらけの全身を見てぎょっとし、シャワーもそこそこに浴場を飛び出した。そこで運悪く従業員とぶつかり転倒しかかった。その従業員がとっさに孝治をささえたので、大事には至らなかったが、「大丈夫ですか」と孝治の顔を覗き込んだ従業員の顔色が一瞬に変わったのを、孝治は見逃さなかった。礼を言ってすぐさま部屋に向かったが、その従業員がしばらく孝治のほうを見ていたことに不安を覚えた。それで、孝治は急いで身支度をしてから、早々にチェックアウトしてホテルを後にし、すぐにタクシーを捕まえた。まだ暗いので顔の染みは目立たず、帽子をやや目深にかぶっているせいもあって、運転手は孝治の容姿を見ても、特に怪しむ様子はなかった。こういう仕事をしていると、ワケありの午前様の客を拾うことは珍しくないのだろう。

 孝治はタクシーの中で一息つくと考えた。このままでは見つかって隔離されてしまう。しかも、持ち金も心もとなくなっていた。どこか身を隠すところはないものか……。自分のマンションの部屋と実家は、見張られているだろう。では、祖父母の家は……? やはり見張りがついているだろう。しかし、母方の祖母の畑ならどうか? その祖母は、数年前に夫を亡くし、一人暮らしをしていたが、趣味で山の中の土地を借りて畑を作っていた。孝治は学生時代金がないときに、手伝いに行って小遣いをもらったことが何度かあった。そこなら確か小さい小屋があったはずだ。疲れたときに休めるように、簡単な寝具も置いてあったはずだから、何とかなるかもしれない。

 孝治は念のため、タクシーを何台か乗り換えて、回り道をしながら祖母の畑のある山の入り口に行った。まだ薄暗かったが、明かりなしでも大丈夫な程度には夜が明けていた。鉛のように重い体に鞭打って、孝治はようやく畑に着いた。早朝すぎたせいか、幸運にも誰に会うこともなくたどり着いた。案の定、そこはノーマークだった。彼は、小屋の前まで行くと、そっと引き戸を引いた。開いている。

(無用心だなあ)

 孝治は思ったが、今の彼にとっては好都合である。孝治はそっと小屋に入ると、折りたたみ式簡易ベッド、通称ボンボンベッドを引っ張り出して広げ、そこに横になった。少しうとうとし始めた頃、人の足音に目が覚めた。

(まさか、ここは共通の小屋だったのか? それとも、警察がここをかぎつけて?)

 孝治は鼻白んで体を起こした。急いで立ち上がって道具置き場に身を隠す。

「おやおや、また鍵を締め忘れとったごたるねえ。もう、ボケボケやねえ」

 そう言いながら、暢気に入ってきた年配の女性の顔を確認する。祖母の絹代に間違いない。孝治はほっとしながら絹代に声をかけた。

「ばあちゃん、ばあちゃん」

「ひえっ!」

 絹代は思いもしない時に声をかけられ、小さい悲鳴をあげた。

「ばあちゃん、オレだよ、孫の孝治だよ」

 孝治は物陰から姿を現して言った。絹代は孝治の姿を確認して、ほっとしながら言った。

「なんだい、コウちゃんか。どうしたんね、行方不明って、うちにも刑事さんが来て色々聞いて行ったとよ」

「そうなんだよ。オレ、追われてるんだ。何も悪いことはしとらんとに……」

「あんた、熱があるっちゃないね?」

 絹代は新型感染症のことを知らないようだった。聞くと、先週末からツアーで韓国に行って一昨日帰ってきたばかりだという。それで、例の放送を聞いていないのだった。回覧も回ってきていたが、読んでも自分に関わってくるかもしれないとは微塵も思わず、すぐに記憶の下に沈んでしまった。それはそうだろう。周囲は平和そのものだったのだから。

「うん」

 孝治は答えた。

「それに体中が痛いんだ。ばあちゃん、迷惑かけてごめんけど、ここに匿ってくれんやろうか」

「よかばってんね、ここは昼間暑いし夜は虫だらけになるけん、やめたほうがよか。家で匿っちゃあけんおいで」

「でも、ばあちゃんちも見張られとぉと思うんやけど……」

「今日は軽トラで来とぉけん、荷台にでん隠れとったらよか」

 絹代のいうとおり、孝治はなんとか人目にふれず祖母の家に匿われることになった。しかし、ほっとしたせいか、とうとう孝治はそこで寝込んでしまったのだった。 

「コウちゃん、熱は?」

「だいじょうぶだよ。ただのカゼだって」

「そうかねえ」

 絹代は孝治の全身に広がった内出血に気づいていなかった。夜明けの薄暗い頃に孝治と会い、その後も孝治が明るいのを嫌がったために、部屋を薄暗くしたままだったからだ。それに気づいていたなら、流石に風邪などという言い訳にはごまかされなかっただろう。

「かぜぐすり、さっき飲んだからだいじょうぶだよ。だから、もう行っていいよ。おれ、きついからねとぉけん」

「そうかい? じゃあ、行くよ。夕方また様子を見に来るばってん、それまでになんかあったら電話しておくれね。おまえの携帯電話、枕元に置いとぉからね」

 そういうと、絹代は孫のことを気にかけながら仕方なく部屋を出た。一人になった孝治は目をつぶったが、体中が痛くて眠れそうになかった。

「ちくしょぉ……。あの女のせいだ。あいつのせいでこんなことに……」

 孝治は自分のした非道を忘れたかのようにつぶやいた。

 その歌恋は、発症4日目を迎えていた。すでに脳までウイルスに冒され赤視に至っていたが、彼女には自傷行為はおこっていないようだった。

 歌恋の両親は、彼女がセンターに入院した当日にやってきたが、父親は彼女の病室の前に立ち、彼女を一瞥した後冷ややかに「この恥さらしが!」とつぶやきさっさと行ってしまった。母親にいたっては、立ち止まることすらせずに行ってしまった。

「何、あれ?」

 歌恋のそばに居た甲斐看護師があきれて言った。歌恋は寂しそうな笑みを浮かべて言った。

「昔から、何でか私、両親に嫌われているんです。二人とも、兄は溺愛してるんですけど……」

「それにしても、娘が病気だっていうのにアレはないでしょう」

「甲斐さん、どうもありがとう。でも、いいんです。もう、慣れてますから」

 歌恋はそう言いながら、毛布を頭から被ってしまった。それっきり、両親は一度も見舞いに来ることはなかった。

 由利子は紗弥やジュリアスと共に、ギルフォードについて感染症対策センターにいた。ギルフォードとジュリアスが、ウイルスに倒れた園山の様子を見に行っている間、紗弥と共に歌恋を見舞うことにした。園山とは面識はあるものの、そこまで親しかったわけではないが、歌恋とは一度だけだがじっくり話した仲であり、その後、機会があれば顔を見せるようにしていたので、今日もそうしようと思ったのだった。しかし、病室の前に立った由利子は愕然とした。彼女は由利子のことを忘れていたのだ。先ほど書いたような事情で、歌恋に見舞いに来る人も無く、唯一訪れる由利子を、病の床に居ながら毎回笑顔で迎えてくれていたのだが……。

 ちょうど彼女の診察のために病室内に居た高柳敏江医師が、二人に説明をした。

「今朝方、赤視を訴えてましたが、それから急激に知能が退行を始めて……。それと共に記憶も退行していったようなのです。今は、多分、5・6歳くらいだと思います」

「ウイルスによる脳障害のせいですか?」

「おそらくそうでしょうけど、精神的なものもあるかもしれません」

「自傷行動は?」

「笹川さんについては、無いようですね」

「そうですか……。こうなったら、それだけでも救いですね」

 由利子は辛そうに歌恋を見ながら言った。その時歌恋がいきなり歌い始めた。

「ゆうやけこやけで、ひがくれて~……」

 由利子と紗弥が顔を見合わせた。その二人に歌恋が声をかけた。

「おねえちゃんたち、きれいなゆうやけだよねえ」

「そ、そうね、歌恋ちゃん」

「あれえ、おねえちゃん、かれんのことしってる?」

「え? ……ええ。あなたが大人だった頃……」

「へんなおねえちゃん!」

 歌恋がくすくす笑って言った。由利子はその様子を見て一瞬で涙がこみ上げてきたので、焦って後ろを向いた。

「ひどい……。あんまりだよ。こんなのってないよ」

 由利子がつぶやいた。しかし紗弥は、何故か微動だにせず歌恋のほうを見つめていた。

 ギルフォードとジュリアスは、窓越しに、ベッドに横になった園山と対面した。発症初期とはいえ、熱が高く起き上がることが非常に辛そうだったので、体を起こそうとした園山を二人が声をそろえて止めたのだった。

「ギルフォード先生、キング先生、申し訳ありません。もう少しでここの皆さん全員を外に出られなくするところでした」

「いえ、気にせずゆっくり休んでください。一人の人間に無理を続けさせてしまった体制に問題があったのです。僕たちの責任です」

 ギルフォードが言うと、園山は首を振って言った。

「いえ、僕の意思でやったことです。だって、僕……」

 園山はなにか言おうとして口をパクパクさせたが、ギルフォードたちは後ろを誰かが通った気配に振り向いてしまった。見舞い客だろうか、通り過ぎたのは見たことの無い二人組の男だった。

「珍しいですね」

 ギルフォードはジュリアスに言うと、園山のほうを向きなおした。だが、園山の状態を見て二人は驚いた。窓越しに見てもわかるほど、園山はガタガタ震えていた。

「いけない、熱がまた上がったのかもしれません」

 その時、園山の変化に気がついた山口医師が病室に飛び込んできた。

「園山さん、どうしたの!?」

「な、なんでもありません」

「なんでもないじゃないわよ。汗びっしょりじゃない!」

 山口はそう言うと、今度はギルフォードたちのほうを見て言った。

「アレク先生、こんな状態になっちゃったんで、今日のところは……」

「わかりました。詳細は後でタカヤナギ先生からお聞きしましょう。ジュリー、とりあえず行きましょうか」

 ギルフォードたちは、とりあえず待合室のほうに行こうと歩き始めた。しかし、途中で高柳と鉢合わせてしまった。

「ああ、ギルフォード君、探したよ。今から笹川歌恋の身内の方にお話をせねばならないんだ。一緒に来てくれないか?」

「わかりました。僕もソノヤマさんの病状について色々お聞きしたいので……」

 ギルフォードは、ジュリアスと共に高柳の後に従った。

 由利子たちがそろそろ病室前から去ろかと話していると、一組の男女が彼女らの横に立った。男のほうが言った。

「失礼します。笹川です。両親が来れないので代わりに来ました。なにか、お話があると伺って来たのですが……」

「はい」

 敏江が言った。

「私は歌恋さんの担当医の高柳敏江申します」

「歌恋の兄の笹川涼二です。こっちは妻の美紗緒です。で、お話って?」

「センター長の高柳進が直接お話しますので、センター長室へ行っていただけますか?」

「判りました。今から行ってきます」

 そう言ってさっさと病室前から去ろうとする涼二に、美紗緒が言った。

「あなた、妹さんを見舞ってあげないの?」

「何故だ? そんな出来損ない、ほっとけ」

 涼二は冷たく言い放った。

「涼ちゃん!」

「さっさと行くぞ、美紗緒。時間の無駄だ」

「あなただけで行ってきて。私、歌恋さんのところにいますから」

「勝手にしろ!」

 涼二はそう言い捨てると、さっさと行ってしまった。

「すみません、お見苦しいところをお見せして」

 美紗緒が頭を下げながら言った。

「歌恋さん、私よ。具合はどお?」

「あ、はなむらせんせいだぁ」

「え?」

 美紗緒は意味がわからず戸惑って由利子たちを見た。しかし、由利子も紗弥もなんと言っていいかわからず、気まずい表情で敏江のほうを見た。

 敏江が説明をすると、美紗緒は納得して言った。

「そうだったんですか……。私を幼稚園か小学校の先生と勘違いしてるんですね。かわいそうな歌恋さん……。よほど現実が辛かったのね……」

 美紗緒はハンカチを出して涙をぬぐった。

「夫は私には優しいのですが、なぜか妹の歌恋さんにすごく冷たくて……。お義父さんが跡継ぎの夫ばかりを大事にして育てたせいでしょう。私、歌恋さんが何故既婚者の年上の男性に惹かれたのか判る気がします。きっと、父親の優しさを求めてたんです」

「せんせい、なかないで。かれん、はなむらせんせい、だいすきだから」

「ありがと、歌恋ちゃん。先生は大丈夫よ」

 美紗緒は話をあわせると、敏江のほうを向いてたずねた。

「あの、歌恋さん、苦しくないんですか? はたから見ると痛々しいくらいなんですけど……」

「ええ、今は痛み止めの大量投与でかなり抑えてますが、それでもかなり辛いはずです。でも、それが切れたら、相当な苦痛が襲ってくるでしょう」

「なんでこの子が、こんな酷い目に遭わないといけないんでしょうか……」

 美紗緒はそう言うと下唇を噛んだ。その時、夫の涼二が足音を荒げてやってきた。

「まったく、お話にならない! 美紗緒、帰るぞ!」

「涼ちゃんちょっと待って、何があったの?」

「感染症法かなんか知らないが、ふざけてるよ。わかってたら絶対にこんなとこには入れなかった。本当に世間体の悪い……!」

 涼二はそう言いながらさっさと行ってしまった。美紗緒は涼二のほうを見て、次に病室に目をやって言った。

「歌恋ちゃん、また来るから! 先生方、義妹いもうとのこと、よろしくお願いいたします」

 そう言いながらお辞儀をして、すぐに夫の後を追った。

「涼ちゃんってば、待って! 何があったか教えてちょうだい」

 二人が去っていくのを見て、由利子が言った。

「何、あのご家族。 義理のお姉さんのほうが親身になってるなんて、変すぎるよ」

「あのお兄様、世間体しか気にしてませんのね」

 紗弥が珍しくあきれたような表情を見せた。

「ご両親もそうでした」

 病室で、甲斐看護師が言った。不愉快そうに眉間にしわを寄せている。

「甲斐さん、患者さんのご家族に不満を言っても仕方ないわ。私たちは患者さんに対して出来ることを精一杯やるだけよ」

 敏江が甲斐をたしなめたが、その敏江の表情もなんとなく怒りを感じさせた。その時、歌恋の手が敏江に触れた。

「ね、はなむらせんせい、かえっちゃった?」

「ええ、でも、また来るって言っておられたでしょ?」

「うん! かれん、まってる」

「じゃ、すこしお休みしましょう。疲れたでしょ」

「うん、かれん、ほんとはちょっときつかったの。ちょっとねるね」

 そう言うと、歌恋は目を閉じた。敏江は少し乱れた掛布団を優しく掛けなおした。

「甲斐さん、行きましょうか。じゃ、歌恋ちゃん、また来ますからね」

 そう言って去ろうとした敏江の手を、歌恋が掴んで言った。

「おかあさん、おかあさん、いかないで。かれんのそばにいて」

「歌恋ちゃん、その人は……」

 甲斐が言いかけたが敏江がそれを止めて言った。

「歌恋ちゃん、大丈夫よ。お母さん、ご用を済ませたらまた来るから。いいでしょ、ね?」

「うん……、わかった。でも、はやくきてね。おかあさん、いまやさしいから、かれん、うれしい……」

 歌恋は安心したように言うと、また目をつぶった。

「記憶の混濁と、視力の低下で勘違いをしているんだわ」

 敏江は歌恋の頭を優しくなでた。

「出来ることなら素手で撫でてあげたいけど……、辛いわね……。じゃ、行きましょう」

 敏江は、吹っ切る様に言うとベッドを背にして歩き出した。

 由利子と紗弥は、高柳医師たちが去った後の病室を、無言で見つめていた。なんともやりきれない気持ちだった。由利子が、病室の方を向いたまま言った。

「前に話を聞いたときに歌恋さん、少しだけ自分の家のことを言ったの。歌恋さんの家ね、代々教師をやっているんだって。ご両親もお兄さんも教師なんだって。お父さんは、今、中学校の教頭をなさっているそうよ。でも、歌恋さんは敢えて教師にはならなかったって。何でって聞いたら、私、人に教えるられるような人間じゃないからって言ってた。出来が悪くていつもおこられてたって。私、歌恋さんにそんなの思い込みだよって言ったけど、さっきのお兄さんの態度を見て、良くわかったよ……。教師って言っても、誰でも尊敬できる人ってワケじゃないんだよね」

 由利子は、てっきり紗弥の同意があると思っていたが、返事が返ってこないので、不審に思って紗弥の方を見た。

「紗弥さん?」

「え? ええ、そうですわね。立派な肩書きがあっても、その人が人格者とは限りませんわね」

 紗弥が、我に返ったように返事をした。

(あれ、考え事をしてた? 珍しいなあ)

 由利子は思ったが、特に気に留めることはなかった。

 

 その少し前から、ギルフォードとジュリアスは、待合室のほうに移動していた。明日、ジュリアスが一時帰国するというので、特に異変が無い限り、夕食をみんなで一緒に食べようということになったからだ。

 二人は、自販機のそばに立って、それぞれミルクティーとコーヒーを飲みながら話していた。

”それにしても,さっきの男,感じ悪かったなあ,アレックス”

 ジュリアスが、思い出すのも忌々しいという表情で言った。

”まったくだ.妹の病状や、経過についてはほとんど無関心だったくせに、死んだ場合のことになった途端に顔色を変えやがった.あのヤロー,碌なもんじゃねえよ”

”何度も遺体をそのまま返せない理由を説明したのに,納得しないんだもんなあ”

”まともな葬式が出来ないってことで、体裁が悪い,体面が悪い,世間体が悪いのオンパレードだ.今苦しんでいる妹のことはどうでもいいのかよ! しかも、しまいには完全に逆ギレしやがって……”

 ギルフォードは、思い出すのもおぞましいという風情で顔をしかめながら言った。その時、後ろから誰かが声を掛けてきた。

「あの……」

「えっと、何でしょう?」

振り向きながらギルフォードは、今しがたとはまったく違う微笑を浮かべながら言った。振り返った先には、30代前半から半ばくらいの男が、ギルフォードの最強の笑顔に匹敵する、人好きのする笑顔を浮かべて立っていた。


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