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朝焼色の悪魔-第3部-  作者: 黒木 燐
第2章 焔心
13/49

1.初音の災難

20XX年6月19日(水)

 梅雨の中休みなのか、今日は朝から雨が上がり、時折薄日が差していた。午後からは束の間の晴れになるらしい。ラジオの天気予報では予報士が「お洗濯するなら今日です。明日からまた、梅雨空に戻りますからね」などと呼びかけていた。由利子はギルフォードの車の中でそれを聞いていた。実は由利子は、朝からギルフォードと川崎家に向かっていた。

 川崎家では三郎が死亡、妻の五十鈴も同じウイルスに倒れ、愛犬が一匹とり残された状態になった。それを気に病んでいた五十鈴に変わって、彼女と同室だった窪田華恵がセンターにその件を伝えた。本来ならば、それは病院の与る事例ではないが、何故か気になった高柳がギルフォードに様子を見て来てくれないかと依頼、ギルフォードもそれを快く受けたのだった。

 助手席で由利子が言った。

「アレクってば、ますます便利要員になってるんじゃない?」

「まあ、でも、用件を聞いたら何か断れなくなったのです。動物のことです。彼等は口を利けませんでしょ。特に犬はご飯を上げるだけじゃなく、散歩にも行かなければストレスがたまってしまいますから。近所の方がちゃんと面倒を見てくださっていればいいのですが……」

 と、ギルフォードは表情を曇らせながら言った。

「そうか。飼い主からしたら心配だよね。何の用意も出来ずに連れて行かれたんだから」

 由利子は自分がそういうことになった時のことを考えると、他人事とは思えなくなった。

「ほ~ら、君だって心配になったでしょ。これからは、そういうことも範疇に入れて考えていかねばならないと思うのですが……」

 ギルフォードはそう言ったが、何故か浮かない顔をした。

「どうしたの?」

「はい。どこまで行政がこの問題に向き合ってくれるか心配で……」

「そっか……。今は人間のことで手一杯って感じだもんね」

「ところで」ギルフォードは話題を変えると言った。「申し訳ないけど、今日の午後、ジュリーに付き合ってくれませんか?」

「私が? ジュリーと? 私でいいの?」

「はい。彼は、ジュンとの仕事が昨日までで、今日は僕が講義を終えた午後から、彼と半日デートの予定だったのですが、こういう状態の上に、午後からも感対センターに呼ばれてしまいまして……」

「あらま。じゃあ、ジュリー君、またへそを曲げちゃったんじゃあ……」

「そうです。やっととれた時間だったのにって、もうご機嫌ナナメどころか急降下です。多分、今頃はまだ、ふて寝してますよ」

「来日してもゆっくり出来なくて、しかも、この3日間ずっと葛西君と、蟲相手に奮闘してくれてたんだよ。そりゃあ怒るよ」

 由利子は腕を組みながらウンウンと頷いた。

「でも、全部自分から言い出したことなんですけどねえ……。で、サヤに頼もうかと聞いたら、ユリコがいいって言うんですよ」

 ギルフォードの判断ではなく、ジュリアスに指名されたということを聞いた由利子は、驚いて言った。

「え? 私をご指名って何で?」

「はい。理由はわかりませんが、ずいぶんと気に入られたようですね」

「いや、んなことはないと思うけど……」

 そう言いながら、由利子は多美山が死んだ日にジュリアスから聞いたことを思い出した。彼はあの時こう言った。

『由利子、おみゃあにはあいつについて話しておきたいことがよ~けあるんだがね』

(ひょっとしたら、何か話したいことがあるのかもしれない)

 そう思った由利子は、ギルフォードの頼みを聞くことにした。

「おっけー、引き受けた。午後からでいいのね」

「はい」

「なんとなく、私も便利要員になってるような気がしてきたけど……」

「スミマセン」

「で、どこに行くの?」

「主にうちの大学内の図書館ですが……」

「図書館?」

 由利子が少し戸惑って聞き返した。

「まじ? 受験生のデートじゃあるまいし……」

「何か調べたいことがあるらしいんです。あと、大学周辺をまったりと散歩したいらしいです」

「観光地とかは……?」

「それは、彼が再来日してから、それもこのウイルス渦が治まるまでお預けにしておくと言ってました」

「そうか。ケーキのイチゴは最後に食べるクチだ」

「あはは、そうですね。当たってますよ」

 ギルフォードが笑いながら言ったが、少し間を置いて今度はくすくすと笑った。

「何よ、気持ち悪いわね」

「あのね、ユリコさん」

「なんですか、アレクさん」

「いつも思うんですが、イチゴって、なんかエッチですね」

「いつも何を考えておるのだ、君は」

 由利子が、ここ1週間分の疲れがどっと出たような顔で言った。ギルフォードは、くっくっと笑っていたが、急に真面目な表情に戻って言った。

「あ、そろそろ川崎さんの家がある住宅地に着きますよ」

 車はS区のとある住宅街に入っていった。

「ナビによると、確かこの辺りなんですケド……」

 ギルフォードが車をゆっくり運転しながら言った。

「これ、買ったんだ。そういえば今までなかったよね」

「はい。あれば、これからは色々と便利だと思いますからね」

「たしかに便利だよね。……あっ」

 由利子が会話の途中でいきなり前方を指差して言った。

「あれじゃない?」

「え? 何なんですか、あれは……?!」

 二人は川崎家のある方を見て目を見張った。

 

 その頃、感染症対策センターの方で高柳がまた、忙しく動いていた。金曜に、河川敷でのゴキブリ騒動から感染死したホームレスの遺体発見に関わって、ウイルスに曝露された若者達の一人で、結果的に一番遺体に近づいてしまった女性が発症してしまったからだ。

「これで、現在発症治療中の患者はこの瀬高亜由美を含めて6人になったわけだ。奇しくも女性だけになってしまったな」

 一段落ついた高柳が、亜由美の病室の前に立って中の様子を見ながら言った。隣に立っている三原医師が高柳を見て言った。

「川崎五十鈴さんは笹川さんと同室になっていただきましたが、この方は北山さんと同室じゃないんですか?」

「今後の患者数増加の可能性を考えると、同性の方で同室になってもらう望ましいのだけれどね。彼女と北山さんは歳も近いし。だが、瀬高さんの病状が他の方と違うように思えるんだ。だから別室にしたんだよ」

「確かに他の方と違って、咳がかなり目立つようですが……」

 三原が、時折激しく咳き込んでいる亜由美の様子を見ながら、眉をひそめて続けた。

「発症初期なのにずいぶんと苦しそうで……。可愛そうです」

「うむ」高柳が腕を組みながら言った。「ウイルスを含んだチリを大量に吸ったからかもしれん。彼女に関しては、特に呼吸器に注意をしていてくれたまえ」

「はい」

「それから、彼女の傍に寄る時は、今も看護師たちがしているように、フェイスシールドは忘れずにつけることを皆に徹底してくれたまえ。君は良く外しているだろう?」

「は、はあ。すみません」

「邪魔だろうが、君等の身を守るためだ。私達の防護服は、気密型じゃないんだからね」

「はい」

「で、彼女は……」高柳は亜由美の方を見ながら言った。「金曜日にウイルスに暴露されてから、5日目に発症しているが、その前になにか症状はなかったのかね」

「はい。ここに来てすぐくらいから空咳が目立っていましたが、彼女曰く、もともと気管支が弱いので、普段から空咳がよく出ていたということでしたので」

「なるほど。だから空咳が感染のせいなのか体質によるものだったのかは判らないのか」

「はい。そういうことでした」

「しかし、このまま患者が増え続けるとなると、1類用病室が足らなくなるのは目に見えているな」

「はい。1類のエボラやラッサレベルの患者が大量発生することは考慮されてませんでしたし……」

「元来空気感染や飛沫感染のしにくい感染症だからな。それに、ここはもともとそういった感染症流行に於いての初期段階の封じ込めを目標とした施設だ」

「しかし、感染の可能性を考えて隔離されている人たちも、そろそろ飽和状態です」

「うむ。それに関しては、廃校の体育館等が使えないかという打診中だ。それらのことも含めて色々と再考せねばならないな」

「他にも問題が……」

「なんだね?」

「スタッフに疲労が出始めています。特に川崎三郎さんが亡くなられてから……」

「確かに、治療しても助かる確率が非常に低いということは、喪失感も大きいだろうし、みなの士気も下がっていくだろうが……」

「というか、助かる可能性はあるんですか、センター長?」

「可能性はある。致死率100%の感染症なんて、そうあるもんじゃない。それに発症者数も死者数も、まだ結果を出せるだけのデータがないだろう。ひょっとしたら、発症したものの、症状が経度で風邪と診断された人や感染しても無症状の人だっているかもしれないんだ。君まで冷静さを欠いてもらっちゃあ困るよ」

「私は冷静です。だけど、看護師の中に恐れる者が出始めていることも事実です。感染発症=死だと。それに、スタッフも増員しないと、このままではオーバーワークが問題になりますよ。これで針刺し事故でも起こったら……」

「スタッフの増員についても申請中なのだが……」

「申請は通るんですか? 今だって、引退していたセンター長の奥さんまで駆出している状態なのに?」

「それは、君が気を病むことではないだろう。君は君の本分をまっとうしたまえ」

 高柳が珍しく厳しい口調で言ったので、三原は続けて言おうとした言葉を飲み込んだ。高柳は数秒の沈黙の後、フォローするように言った。

「君の気持ちは良くわかっているつもりだ」

「もうひとつ、心配が……」

 三原は遠慮がちに言った。

「ひょっとしたら、封じ込め失敗と言うことも……」

「まだわからんだろう。あくまで接触感染が主である限りは、爆発的に感染者が増えることはないだろう。問題は、他所に飛び火してしまった場合だ」

「事実、すでに一人広島の方まで行ってましたからね」

「幸い二次感染もないようだし、幸か不幸か本人の遺体もウイルスが生き残れるような状態じゃなかったからな。むしろ幸運だったと言ってもいいだろう。だが、こういう幸運は今後期待出来ないだろう」

「そうですね……」

 二人はその後、心の中でこれからどうなっていくのだろうと不安を覚えたが、口には出さなかった。一瞬顔を見合わせるとお互いの表情を見て同時にため息をついた。

「早くウイルスが見つかって欲しいです。せっかく国内でレベル4ウイルスを扱う研究室が使えるようになったと思ったらサイキウイルス反対運動が起きて、結局海外に頼ることしか出来ないなんて、悔しいです。核施設のほうがもっと危険なはずです。なのにそれは未だ稼働しているのに、なんで……」

「今はCDCやパスツール研究所のBSL-4実験室の結果を待つしかないんだ」

(おれだって悔しいさ)

 高柳は心の中でまた言うと軽くため息をついたが、亜由美の激しく咳き込む声が聞こえ、いつものしっかりした表情に戻って彼女の方を見た。

 

 由利子と共に川崎家に向かったギルフォードは、その異様さに驚いた。彼は、すぐに家の前に駐車すると、門の前に立った。由利子もその後に続く。

 川崎家の門は、門扉共にバリケードのようなものが作られ、周囲には強いクレゾール臭が漂っていた。ギルフォードが顔をしかめて言った。

「これはひどいです。周囲にこんな臭いがしたら、犬にはたまったもんじゃありませんよ」

「やり方が雑で、どうも素人臭いですね。まさか、近所の人たちの仕業……。どうして……」

「とにかく入ってみましょう」

「どうやって?」

「塀を乗り越えるんですよ」

「不法侵入じゃない」

「僕等はここの家の人から頼まれています。不法じゃないです」

「……了解」

 由利子は肩をすくめながら言った。

 ギルフォードは長身を使って、いとも間単に塀を乗り越えた。由利子もギルフォードの手を借りながらも、比較的身軽に塀を越えた。

 中庭に入ると、二人はもっと悲惨な状況を目の当たりにした。三郎が今まで丹精を込めて手入れしていた庭が、無残に荒らされていたのである。何箇所かは土が掘り返され、植わっていたはずの植物がごっそり盗まれていた。ベランダの鉢植えは見事に壊されている。

「どうやら、空き巣も入ったようですね」

 ギルフォードがベランダのアルミサッシのガラスが割られているのを指して言った。

「ひょっとしたら、玄関のバリケードは泥棒避けで作られたのかもしれません」

「塀を乗り越えたら一緒なのに」

「流石に鉄条網を張り巡らすまでは出来なかったんでしょう。ああ、外壁に小火ぼやを起こしたような跡もあります。誰かが放火しようとしたのかもしれません」

「散々たるものね……。それで、ワンちゃんはどこかしら?」

「吼えもしないなんて、変ですね……」

「名前は?」

「ハツネちゃん、女の子です」

「あ」

 由利子が裏口の方を指差して言った。

「あそこに犬小屋があるわ。行きましょう」

 二人は犬小屋へ足早に向かった。近づくに連れて、ひどい悪臭が漂ってきた。

「これは……」

 由利子が顔をしかめながら、ハンカチで鼻の周囲を覆った。

「ひどいですね。しばらく散歩に連れて行ってもらってないのでしょう。ガマンできなかったんでしょうね。かわいそうに」

 犬小屋の周囲には排泄物が散乱し、すえた臭いの餌がいくつか放置してあった。

「ワンちゃんは?」

「小屋に鎖が入ってます。多分、怯えて隠れているんでしょう」

 そう言いながら、ギルフォードは小屋の近くに寄ると、犬の名を呼んだ。

「ハツネちゃん?」

 小屋の中で何かが動く音がして、続いて低いうなり声が響いた。

「ハツネちゃん。可哀想に、ずっとひとりぼっちだったんですね。もう大丈夫です」

 しかし、低いうなり声をさせながら、初音は一向に姿を現わそうとはしなかった。

「あなたたち、何をしてるの! 警察を呼ぶわよ!」

 いきなり上の方で女性の怒鳴り声が聞こえたので、二人は驚いてその方向を見た。50代後半くらいの女性が、ギルフォードの顔を見て、怯えたように言った。

「誰? ガイジンじゃないの。何をしようとしているの?」

「私は日本人です」由利子が焦って立ち上がると言った。「私達はここの奥さんに頼まれて、初音ちゃんの様子を見に来たんです」

「五十鈴さんに?」

「はい。すごく心配されているということで……。それで、えっと……」

 由利子はこの先どう説明すべきか判らず、ギルフォードを見た。由利子にばかり説明させるわけにはいかないと、初音への呼びかけを中断してギルフォードも立ち上がった。意外と大男だったので、女性は驚いて一歩後退った。ギルフォードは塀越しに名刺を渡しながら言った。

「驚かせてすみません。僕はこういう者です」

「はあ、Q大の……」

 女性はギルフォードを上から下まで見ながら言った。長めの金髪を後ろに束ね、紺色に金魚鉢のイラスト入り和風Tシャツによれよれのジーパンとごついワークブーツで、手にはフィンガーレスの皮手袋といった出で立ちで、教授と言うより、日本びいきなロックスターのような外見だ。

「感染症対策センターの方でもいろいろとお手伝いをさせていただいてます」

「ああ、あそこね」

 女性は少し顔をこわばらせて言った。

「私も一度連れて行かれましたよ」

「連れて行かれた?」

 ギルフォードと由利子が同時に言った。

 女性は珠江の遺体第一発見者の一人、下山道子だった。道子は簡単にその時の説明をした。

「そうだったんですか……。大変でしたね。僕はその時、外せない用事でセンターには行けなかったのですが、お会いできなくて残念でした」

 例によって、ギルフォードのリップサービスが飛び出した。由利子はやれやれという顔で彼の方を見た。次いで道子の方を見ると、困ったような嬉しいような少し怒ったような複雑な表情をしていた。特に返事がないようなので、ギルフォードが続けて尋ねた。

「あの、ミチコさん。それであなたはどうしてここに?」

「初音ちゃんが気になって……」

 そう言うと、道子は何故ここに来たかを話し始めた。

 川崎五十鈴は、夫の搬送について行く際に、隣家の住人に犬の世話を頼んで行ったのだが、まさか自分まで隔離されるとは思っておらず、改めて電話で留守が長引くことを伝え、その間の世話をお願いしたらしい。それで道子は、余所の飼い犬のことなので特に気にとめていなかった。

 最初の2・3日は隣人もそれなりに世話をしていたようだが、いつしかそれがおざなりとなった。それでも初音は彼女なりに留守を守っていた。長期の留守を聞きつけた不審人物が家の周囲をうろついているのを、何度も吠えて威嚇していたらしい。そんなことなど頭にない隣人から何度も怒鳴られ、時に蹴られながら、初音は頑張ったのだろう。

しかし、不審人物から腹いせに小屋の近くに放火され、火は早期に消し止められたものの、初音のダメージは大きかった。すっかり負け犬になってしまった彼女は、ついに空き巣の進入を許してしまった。幸い、川崎の息子達が金目のものを持ち去っていたので被害は大きくなかったが、それ以来、侵入者が後を絶たず、庭も廃墟のように荒らされた。警察も頻繁に巡回していたのだが、どこで情報を仕入れるのか、賊はその隙をついて侵入した。町内でバリケードを築いたのだが、ギルフォードが言ったように、そんなものは何の役にも立たなかった訳だ。

 道子は、なんとなく気になって川崎家を覗いて見た。その時、犬小屋の中から悲しい声が聞こえた。ご近所に確認し、餌以外ほとんど面倒を見てもらってないことを知った。それ以来気になって様子を見ていたが、どうも隣人は、あの日曜の緊急放送から一歩も近づいてないようだ。しかし、犬が苦手な道子にはどうしようもない。夫に頼んでも生返事しか帰って来ない。仕方がないのでドライフードを持ってやって来たところで、ギルフォード達に出くわしたのである。

「ありがとう、ミチコさん。おかげで経緯がわかりました。とにかくこの子を至急保護しましょう。知り合いの獣医師に電話して、動物保護団体の方を呼んでもらいます。一時的にそこで保護します」

 そういうとギルフォードは電話を掛け始めた。

「あ、ハルさん? 僕です。あの、朝方お話した犬ですが、想像以上に厳しい状態です。はい。あ、来ていただけますか? よろしくお願いしますね」

 手短に電話を切ると言った。

「さて、この子をお篭りから出さなければいけませんね。太陽の女神さまなら裸で踊れば出てくるでしょうけど……」

「古事記まで知ってるんだ」

 由利子が感心して言った。ギルフォードはまた犬小屋の前に座ると初音を呼んだ。やはり出てくる様子はない。ギルフォードは少し困った顔をして由利子を見ると言った。

「困りましたね。ユリコ、試しに踊ってみますか?」

「なんで犬のために裸踊りせにゃならんのだ。シリアスな顔で何を言い出すかと思ったら……」

 由利子があきれ顔で言ったので、ギルフォードは肩をすくめると初音の「説得」を続けた。

「ハツネちゃん、恐くないですよ。出てきませんか?」

 そう優しく言いながら、ギルフォードがそっと小屋に手を入れようとした。その時、唸り声を上げて、中から犬が飛び出した。由利子と道子はてっきりギルフォードが咬まれたと思って、一瞬目を瞑った。しかし、彼は間一髪で避けていた。初音は小屋から飛び出すと、ギルフォードたちに激しく威嚇をした。彼女は長めの白い毛の雑種で、大きさは中型犬より若干小さいくらいだったが、毛を逆立てて威嚇するその姿は、さながら銀狐のようだった。

「大丈夫ですよ、ハツネ。もう恐くないです。ここにいるのはみんな君の味方ですよ」

 そう言いながら、再びそっと手を差し伸べた。道子が心配そうに言った。

「大丈夫やろか?」

「彼は、『子供と動物に好かれる天才』らしいですから、多分……」

 だが初音は激しく吼えると、ギルフォードの差し出した手に咬み付いた。

「アレク?!」

「大丈夫です。手袋の上からです」

 ギルフォードは由利子に安心するように言うと、すぐに初音に向かって微笑みながら言った。

「ほら、恐くないでしょう? 誰も、君に危害を与えたりしませんよ。僕らは君のお母さんに頼まれてお迎えに来たんですよ」

 初音の顔から険しさが消え、ギルフォードの手に咬み付いていた口を外した。彼女はクウンと鳴くと、上目遣いで済まなさそうにギルフォードの方を見、それから伏せて服従のポーズを取った。

「ハツネは良い子ですね。手加減して咬み付いたんですよね。じゃないと、手袋なんか食い破ってしまいますよね。ありがとう。君は優しい子です」

 そう言いながら、ギルフォードは初音の頭を優しく撫でた。由利子はその様子を見ながらつぶやいた。

「リアル・ナウ■カだ」

「ああ、良かったあ……」

 道子がほっとしたように言った。そこに、近所の住人らしい人影が数人現れた。彼等は様子を見ながら何かヒソヒソと話していた。

「何だよ、あれ。感じ悪っ!」

 由利子が露骨に嫌な顔をして言ったが、道子は暗い表情でため息をついていた。

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