19Carat チェス盤上の白、操るは黒
19Carat チェス盤上の白、操るは黒
昼休み。
百合は、担任である黒鍾美 楪に呼び出しをくらっていた。
図書室の司書教諭室。楪の机の隣で、椅子に座って彼と向き合っている。
目の前には、温かそうなココアが出されている。
楪は落ち着き払ってカップを揺らしながら、底にたまったココアの粉末の溶け残りを溶かしつつ、カップに気品高く口を近づけていた。足を組んで目をつぶって飲む様は、それだけで絵になるほど美しい。
そして、二人の他にもう一人
「なにこの人ッ!百合さんに色目使って……!気に食わない!すごく気に食わない!!」
百合の後ろには学ラン姿の―――真弓の神
楪を、嫉妬の炎をメラメラと燃やしながら睨みつけている。
もちろん彼の姿と声は、百合以外の人間には見えていない。
(なんで、こんなことになってるんだっけ……?)
居心地の悪さをひどく感じながら、百合は苦笑いした―――
昨日の午後
―――死神アンクウの馬車に揺られ、無事宝石店まで戻ってきた面々。
宝石店に帰って早々、イレールは難しい顔をして、百合を連れ去った魔法陣を調べ始めた。その魔法陣は宝石店の床の上で、未だ怪しく黒いオーラをまとっている。白い手袋をした手で、魔法陣のラテン語の指示文を指先でたどっていたイレールだったが、不意にその手を止めた。
「百合さん、一つお聞きしたいことがあります。今回の件の元凶となるような何か変わった出来事に……見覚えはありますか?」
百合は怯えた様子で彼が魔法陣を調べるのを見守っていたが、しゅんとした様子で、首を横に振った。
「分かりません……特別変わったことはないです……。」
「そうですか………。」
百合からは、情報が得られそうにはない。しかし、イレールは少しだけ救われた気がした。彼女には自分が危険な状況に居ることを自覚してほしくない。これからも普段通りの日常を送ってほしかった。何か命の危険を悟らせるような要因があってはならない。
百合が、あの…っと言って、声を震わせながらイレールに尋ねた。黒曜石の瞳は揺れ、恐怖を思い出して、じわっと涙が込み上げている。
「……何で私は…あの女の人に捕まったんでしょうか?恨みを買うようなことをしてしまった…とかですか?」
「大丈夫。そんなんじゃないよ。―――ね、イレールさん。」
イレールが口を開くより早く、御真弓様が百合の肩に手を置いて、彼に賛同を求めた。
御真弓様はいつもの大人びた口調で話しかけ、わずかにあどけなさの残る瞳を優しげに細めている。
イレールも彼の瞳にちらっと視線をやって、微笑んでアイコンタクトに返す。その後、百合にすぐに視線を移すと、安心させるように優しく言った。
「貴女は関係ありませんよ。どうやらこの魔法陣を見るに、運悪くこの宝石店にたまたま繋がってしまったようです。」
「じゃあ……この先また、こんな目に合うことはありますか?」
(…………!)
―――その言葉に、イレールの心は一瞬チクリと痛んだ。
瞳を不安げに揺らし、すがるような視線をぶつけてくる百合。
痛む心を押し殺す。イレールはしっかりと否定の言葉で返した。
「ありませんし、起こりかけても、阻止しますよ。魔法界では時々こんな事故が起こるんです。ここは魔法界と人間界のちょうど境界の空間なので、魔法界の魔法的事象も時々起ってしまうんです。警備をゆるくしていた…私の責任です。怖い思いをさせてしまって、本当に、本当に……申し訳ありませんでした。」
立ち上がると深々と頭を下げて、イレールは百合に謝った。もちろん、ウソの理由づけであった。最初の一文と謝罪の部分を除いては。その言葉はイレールにとって自分への戒めの言葉でもあり、心からの謝罪の言葉でもある。
それを聞いた百合は落ち着いた表情になって、慌ててイレールの頭を上げさせる。
「イレールさんのせいじゃないですよっ!!悪いのは私です!ぼんやりしてたからですね。異変を感じたときにすぐに逃げられなかったから捕まっちゃったんです!このとーり私は皆のおかげでピンピンしてますからっ!えぇっと……このことはもう忘れませんか?私またホット・ショコラが飲みたいです!!」
御真弓様とイレールは、百合の健気な言葉に微笑する。
「百合さん……そうだね、忘れちゃおっか。僕も何か甘いものが食べたいな。」
「今お持ちしますね。シフォンケーキの生地も休ませているものがあるので、すぐに焼けば一緒にお出しできると思います。」
キッチンに向かいながら、イレールはそっと呟いた。
「………この店が……貴女にとって安全で安らぎを得られる場所であるよう…限界を超えて全力を尽くしますよ。」
―――魔法陣は、フッとその存在を消した。
御真弓様は百合とカウンターの席に隣り合って座った。
百合はホット・ショコラを楽しみにしているからか、微笑をたたえて頬杖をついている。彼はこっそりその横顔を覗きつつ、考えていた。
(僕は、君の命、そして君の心を守るために……何ができるのかな?)
一見明るく笑っている彼女だが、その心の中には小さなとげが刺さって、痛んでいる部分が必ずある。
それは心をもっている以上、誰しもが持つ傷。
しかも残酷なことに、このとげには返しがついていて、簡単に取ることは叶わない。
取ることが叶っても跡が残ってしまう。
それでも、そのとげや傷跡に他者が干渉し抱擁することで、または時間の流れが流れる湧き水のように流れ清めて、癒しが必ずもたらされる。
(イレールさんのように……僕には大きな力はないけど―――)
彼は考えにふけっていたが、顔をぱぁっと明るくさせた。
ガタッ!!
勢いよく椅子から立ち上がる。
――――「そうだよ!!僕も一緒に学校に行けばいいんだ!」
「えっ?!どうしたの急に?」
いきなり立ち上がった御真弓様を百合は目を丸くして見上げる。きょとんとしている。
御真弓様は楽しげに椅子に座りなおすと、百合にニコニコしながら話しかけた。
「百合さんの学校に明日から僕も通うよ。あっ、ちゃんと姿と声は消すから。」
百合はますますびっくりした顔になる。
「私の学校に?!それはまた、なんで?」
「前から行ってみたかったんだ。青春の日々を送っている学生気分を味わってみたくて!……だめかな?」
「そんなことないよ。ふふふっ!私が授業中寝ちゃいそうになったら起こしてね!」
「ほっぺを優しくつねってあげるよ。わぁ~!明日が楽しみだな~!」
(護衛ってことなんだけど……純粋に…楽しみだと思っちゃうよ)
手を合わせて喜んでいる百合を眺めながら、御真弓様は胸を弾ませていた。
~~~
次の日、裏路地で御真弓様は百合を待っていた。
何となく今日は、水干ではなく以前イレールに用意してもらった暗めの紺の学ランを着ている。ワクワクしながら、百合が姿を現すであろう曲がり角を眺め続けていると、イレールが彼の隣に姿を現した。
「今日から……彼女の護衛、よろしくお願いします。」
イレールは真剣な眼差しでそう伝える。
「……もちろんだよ。僕の全てを賭けて。」
彼も真剣な表情で答える。
それを聞き届けると、イレールが何かを差し出して来た。
「―――これは、僕が宿っているブラック・オニキスだね。昨日急にあなたが預からせて欲しいって言ってきたから、どうしたのかと思ってたけど。あっ……イヤリングになってる。」
ブラック・オニキスは、イヤリングに加工されていた。もともとあまり大きくない石だったが、それが今は片耳につけるために金の地金がつけられ、片耳用のイヤリングになっている。
「お返しします。」
御真弓様はそれを受けとる。
「この石を貴方が持っていて下されば、私は遠くにいてもすぐに駆けつけることができます。魔法族は自分の所有物に魔力を付与して、別の場所にある物でも手元に引き寄せることができます。それを応用して、貴方が危険であると感じたら、この石を通して貴方の場所が分かるようにしておきました。緊急の時には必ず向かいますから……」
「ありがとう、心強いよ。それで――いつ、リュシーさんの桜を散らしに行くの?」
お礼を言ったのち、御真弓様は続けて尋ねた。
「明日の夜です。―――それは即ち、明日、私が覚醒するということ。」
瞳を凛とさせつつ、イレールは黒いマフラーに愛おしげに手を沿えた。
(あなたの心の中の葛藤は……きっと計り知れないもの…だったんだろうな。)
御真弓様はその様子をじっと見据えていた。
しかしにこりと笑って、微笑を浮かべているイレールに唐突に言った。
「あなたを尊敬してるよ。やっぱりあなたしかいない。(百合さんと幸せになるのは。)」
「……え?」
「――あっ!百合さんだ。おはよ~~~!!」
驚いて言葉を失っているイレールを放って、彼はこちらに向かって手を振っている百合のもとに駆けて行ってしまった。
楽しげに百合と御真弓様は話している。
イレールはふっ…と微笑んで、店に戻ろうとしたが、百合に呼び止められた。
遠くから明るく手を振っている。白い息を出しながら。
――「イレールさーーーーん!!いってきまぁ~~~す~~!!」
のんびりした行ってきますに笑いが出るのを堪えながら、彼も手を振る。
「勉強頑張ってくださいね!!待っていますよーーー!!」
彼も手を振り返す。
二人の背中はあっという間に小さくなって消えていった。
「―――さて、私も開店の準備をしましょうか。」
爽やかに笑って、イレールは指を鳴らして消えた。
――「わぁ~~!黒板だ!!すごいや!みんな静かに聞いてる。しかもやってるのは古典だね!なつかしい~~読みやすいよ、この文章!」
「しぃ~~……御真弓様、しずかにして……気になって集中できない……」
教室に始めて入った彼は目を輝かせて、百合の席の隣に立ってきょろきょろ楽しそうにしていた。左耳にはさきほどイレールから受け取ったブラック・オニキスのイヤリングがつけられて、白い髪から時々きらりと顔を出しては、彼の顔に華をそえている。百合はそんな彼が朝の課外の時間になっても落ち着いてくれないので、困っていた。
百合の耳にだけ、彼のはしゃぎ声が聞こえている。シーンとした教室に、彼のご機嫌な声が響いているように聞こえて、なんとも集中しづらい。
「寺子屋とも全然違う雰囲気だな~こっちは男女共学だからかな~?あっ!百合さんの字きれいだね!特に部首の『しんにょう』がきれいに引けてる!!」
「………」
「気持ちは若いままでいるつもりだけど、何だか若返った気がするよ!!やっぱり学校っていいね!!」
「………」
百合は申し訳なさそうな顔をしながらも、返事は返さなかった。返せなかった。
――教壇に立つ教師の視線が痛い。
―――「百合さん。集中できていませんね。どうしましたか?」
とうとう――国語教師、楪が話をふってきてしまった。
皆の視線がさっと百合に集中する。
御真弓様はあっ……と、申し訳なさそうに小さく呟いた。
「別のことをしているわけではないものの。さっきから視線がこちらを向いてくれなくて……如何なものかと。眠いのですか?」
楪は問い詰めながらも優しく言った。寂しそうな表情だ。
女子生徒はその様の美しさにうっとりしている。
百合は焦りから顔を赤らめて、慌てて謝った。
「すみません!!ちょっとぼんやりしていました!!」
「ぼんやりしていましたか。そうですか……なら、その頭を起こしてもらわないと。」
楪はにこっと、意味深な微笑みを浮かべた。
――「助動詞『ぬ』の活用を声に出して言ってください。高校二年の洗礼として、しっかり覚えたでしょう……?あと、昼休みワタシのところへ。“二人で”、ゆっくりお話ししましょう……」
二人で、の所を強調しながら、教師が生徒を問い詰める時に出すあの圧力をかけてくる。
引きつった微笑みを浮かべて、百合はその指示に従った―――
お昼休みになって、百合はとぼとぼと司書教諭室に向かっている。
御真弓様がその横では、必死に謝っていた。
「本当にごめんね……!!今の時代の先生ってああいうやり方でいびってくるんだね……あぁっ!ほんとにごめん!!!」
「気にしないで。多分気持ちのしっかりした人は惑わされなかったと思うよ……。」
そう力なく言うと、緊張した面持ちで目前に迫った司書教諭室のドアを開けようとする
―――「失礼します。」
「あぁ、来ましたね。そこの席にどうぞ。」
楪は百合に気づくと、座るよう指示して、お茶の準備を始めた。
(あれ?なんでお茶の準備を?)
百合はその様子に不思議がりながらも指示に従う。
――「そんなに深刻そうな顔しないでください。説教とかじゃありませんから。」
トン…と緊張している彼女の前に、楪はカップを差し出す。あたたかいココアが淹れられて、とても美味しそうだ。
「……ありがとうございます。」
「どういたしまして。フフ…やっと笑ってくれましたね。アナタの笑顔は見ると心が落ち着きますよ。」
「………なっ!!」
カップを差し出す楪は、他の女子生徒なら勘違いしてしまいそうな一言を付け加えた。御真弓様の目がキッとつり上がる。
それを言われた本人はあまり気にしていないようだ。ココアで手をあたためて、説教ではなかったことにほっと胸をなでおろしている。
「あはは…良かったです。説教じゃなくて……。」
「今日呼び出した理由は、アナタのことが心配だったからです。」
「心配……ですか?」
楪も自分の机に座って、不思議そうな顔になった百合の顔をじっと見つめた。百合は彼の机のすぐ隣に置かれていた椅子に座っているので、自然と彼と至近距離で向かい合う形になる。御真弓様の視線がますます鋭くなっている。
「昨日欠席だったので……もしかしたらワタシが込み入ったことを聞いてしまったがために、学校に来づらくなってしまったのかと……」
「まさか!そんなことないです。昨日はちょっと……頭が痛くて。」
不安げな表情を浮かべている楪に笑ってみせると、とっさに思いついた理由で弁解する。
「そうですか……安心しました。今日はもう大丈夫そうですね。」
彼は安心した顔になって、ココアを一口飲んだ。
「はい!平気ですよ!」
「僕は……平気じゃない……!なに?込み入ったことって…!?しかもなにこの人ッ!百合さんに色目使って……!気に食わない!すごく気に食わない!!」
御真弓様が、百合の後ろで肩を震わせている。そのことに気づいた百合だが、声をかけるわけにはいかなかった。ここには楪がいる。ここで口を開けば単なる独り言になってしまう。
とりあえず、苦笑いする。
ココアの入ったカップを優雅に手に持ちながら、楪は微笑みながら百合に尋ねた。
じゃあ、調子に乗ったことをお聞きしますと、前置きする。
「その想い人に、想いは伝えないのですか?」
「「えっ?!!!!」」
御真弓様も含めて、百合が高めの声をあげた。
頬が一気に上気していくのを感じて、頬に手を沿えて顔を背ける。
「フフ……初心な反応ですね。すみません。また込み入ったことをお聞きして……でも、ワタシはアナタを応援しているのですよ。早くアナタの、もっと幸せそうな表情が見たいのです。こんな人に愛されて、その人はさぞ幸せなのでしょうね。」
彼はなおも優しそうに笑っている。
御真弓様は真剣な表情に変わった―――
じっと、座っている彼女の横顔をそっと窺う
百合は顔を真っ赤にして、何かを考えているかのような迷いに満ちた瞳になっていた。そのまま頬を押さえて黙りこくっていたが、楪に悩みを打ち明ける口調で、おずおずと胸の内を語り始めた。
「楪先生は愛情深い人だなって思うので…相談したいです。実は少しだけ悩んでいることがあるんです……」
「それは……何ですか?」
百合は真剣な眼差しで、楪の瞳をのぞいた。
彼女の”オブシディアン”の瞳が黒く光っている。
――「その人が私のことをどういう風に思っているのか……と、それが分からない今、想いを伝えたらどうなるのかなってことを……悩んでます。」
「それは、密接にリンクした悩みですね……」
目を閉じて、楪は考えにふけっている様子だったが、やがて考えがまとまったのか、しっかりした口調で言った。
「本人に直接、自分がどういう存在であるか聞いてみるのはいかがですか?」
「……え?そんなことして―――」
百合の言葉を遮って、楪は続ける。
「多分、アナタは、傷つかない結果になると思いますよ――それでとりあえず勇気をもらってみてはいかがですか?想いを告げる告げないは別にして……」
「それを聞くのにも……勇気が要りますよ……」
寂しげで困ったような顔をしながら百合は言った。それに楪はフフっと笑って応える。
「少し意地悪なことを言いますが…その人が他の人と恋人になってしまったら、アナタは平気ですか?」
「それは……」
百合は悲しげに視線を落として、胸をぎゅっと押さえた。
一瞬、キキーモラのポーラがイレールに抱き着いていた瞬間の残像が、頭をかすめる。
「……耐えられない……です。」
―――瞳に涙が薄ら、にじんでいた。
楪は彼女にすみませんと、と申し訳なさそうに謝る。
「……ひどいことをお聞きしましたね。でも、勇気が固まったら、聞いてみてください。アナタがその人と居てその人に愛情を感じているとき、きっとその人もそれに劣らないほどの愛情をアナタに感じているものです……心根の美しい人には、この法則が適用される。」
そっと顔をあげて、百合はにこりと微笑んだ。
「……楪先生ってやっぱり愛情深い人ですね。」
「………ほう、そう思いますか?それはなぜ?」
楪はにやりとして、理由を尋ねる。
「なんだか楪先生には……何でもお話しできる気がします。うー…ん…理由は分からないですけど……言葉に重みがあるっていうか……」
「………ワタシにとってアナタは、箱庭の子猫なのですよ。」
「……?どういうことですか?」
楪の意味深長な言葉に百合は疑問の色を示す。
彼は立ち上がって窓辺に向かい、百合に背を向けた。
あまり語調を変えずに話を続ける。
「箱の中の世界だけしか見ることの許されない子猫。
ワタシの言葉は、ちょうどその子猫の柔く細い喉元をなでるに等しい。
―――つまり、今のワタシは“かんしょう”者であり、観測者。」
さらりと軽く髪のなびく音がして、彼は振りむく。
「それはアナタが幸せを手に入れるまでのこと……。アナタが幸せになれば、ワタシもワタシにとっての幸せを手にすることができるのです。その時になってやっと……子猫を抱き上げることができる――――」
――にこり
彼は朗らかに笑った。
「先生のお話は難しくてよく分からないです……でも、私の幸せを願ってくれてるのは伝わってきます。」
百合も切なげな表情から一変して、無邪気に笑った。
それを満足そうに見つめた楪は、話を切り上げるようにパチンと手をたたく。
「さ、そろそろ掃除の時間ですよ。――頑張ってくださいね。」
「……その『頑張って』は掃除を頑張れってことじゃないですよね?」
「もちろん。」
再び頬を赤らめた百合に、楪は肯定の言葉で返す。
百合は立ち上がると、彼にカップを返して、恥ずかしげに言った。
「……少しだけ勇気をもらいました。楪先生も幸せになってくださいね。」
そう言い残して、彼女は司書教諭室から慌ただしく立ち去った。御真弓様も慌てて後を追う。
人気のない廊下を歩きながら、御真弓様は百合に言った。
「あの先生と百合さんって仲いいの?恋の相談してたけど?」
百合はハッとして頬を染めた。嫉妬と、単なる疑問がにじんだ複雑な表情をしている彼から顔を背ける。
「黙ってたけど私……そのっ……!イレールさんのことが―――」
「―――うん知ってた。」
彼女の言葉を遮って、御真弓様はさらりと言った。
「結構わかりやすいよね。すぐに分かったよ。イレールさんと話している君を見てるとね。あぁ……なるほどなって。」
「えぇっ…!そんなっ!!きっ、きぁああーーーーっ!!」
一瞬両手で顔を覆ったかと思えば、彼女は顔を真っ赤にしてうつむきがちに走り出した。
「そんなに照れなくていいじゃないか……もう、待ってよ!!」
御真弓様はその様子を楽しんでいるようで、そこまで急がずにゆったりと彼女の後を追った。
―――そんな“二人”の背中を、楪は冷やかに笑って見送った。
「予想外の騎士がお付きのようだな。まぁいい。気づかないとは……めでたさが増すだけだ。」
司書教諭室に戻ると、窓辺に背を預けて腕を組む。
「舞台は豪華絢爛にしなくては。花を手折るだけでは面白くない―――ヴァンパイアに剣、天使に竪琴、そして道化死神に差し向けた鎌。武器を握るのはもうあと一人。」
瞳が鋭くギラリと吊り上げられた。
「力を手に、チェス盤上に降り立つ賢者たち。操るはワタシ。対面するもワタシ。」
彼の瞳は鮮やかなる血のような赤―――
「―――あぁ早く、ワタシに壊させてはくれないか……?オマエの大切なモノ全て。」
彼は恐ろしく瞳を吊り上げたまま困ったように言った。
――「Saint-Hilaire様は白百合の君にご遠慮気味のようだ……今壊しても面白くない。
絶望の深淵の深度は底なしでなければ――
絶望を味わえ――
楽園の果実より甘く甘美な絶望を――
――――血の底から響くような不気味なテノール―――――
優しげなテノールとは違う、恐ろしい声
彼はフッと笑うと、急に体勢を変えて窓辺から外の様子を窺った。
―――その視線の先には、校庭を箒で掃き掃除している美結
「次はあの少女にご協力いただこうか……。逆十字のもと、ご挨拶申し上げよう
――――Saint-Hilaire様に。」
彼は首元から十字架が逆さにつるされた黒いロザリオを取り出した。
首にかけられている古めかしいそれは、彼の紅い瞳を反射して赤黒く鈍い光を放っている。
それを指先で持ち上げて、彼は愛おしげになでた。
「そして“暁の星”にCantataを捧げよう―――――――」




