11Carat かわいそうなHope Diamond part2
深夜二時の商店街にて
小汚い男が、ごみ箱をあさっていた。
身も凍る寒さに息を白くしつつ、ガサガサ物音をたててコンビニのごみ箱を探っている。どうやら賞味期限の切れた弁当を拝借しているようだった。
そこへ黒いローブ姿の紳士が現れた。
シルクハットを深めにかぶり、長い真っ直ぐな黒髪はカラスの羽のように黒く艶めき、背中にゆったりと流れて、足元近くまで伸ばされていた。
その存在は暗闇に溶け込み、彼にはまるで存在感というものがなかった。
暗闇自体がもつ、奥底を窺い知れない恐怖というものを身にまとっているかのような―――――
――――あるいは、暗闇そのもの
彼はその小汚い男に話しかけた。
やがて、その小汚い男――ホームレスの男性に、その紳士は何かを手渡した。
ホームレスの男性はそれを奪い取るように受け取り、とりつかれたように走り出した。
紳士は走っていくホームレス男性の後姿を、なめるように見つめた。
紅い鮮血のような瞳がシルクハットの下から覗く。
にたり、と、口元が大きく歪んだ。
「これは絶望へのほんの序章……。ただの小手調べ………白百合の君と大賢者との絆をはかる。“彼女”に新たな記憶を記せ。ワタシはそれを、見せてもらおう…………今はたまゆらの平穏に身を任せ、絆を深めるがいい。それが踏みにじられた時…深い底知れぬ絶望が訪れる……なあ、イレール…?」
彼は満足そうに狂気に満ちた笑みを浮かべて踵を返し、そこを後にする。
―――コツ…コツ…
足音だけが商店街に響く。
―――――――彼は暗闇に溶け込むように、姿をくらました。
ホームレスの男性は、“それ”を換金しようとしていたのだった。
暗い商店街をただひたすら駆けていく。
煙草を吸っている男性とすれ違ったとき、その男性の視線がこちらに注がれた。
―――キラ………
“それ”は彼を誘惑した。
頭の中で思考がまとまる前に、体が動く――――
(それを……よこせ……!)
気づいたときには―――ホームレスの男性を殴っていた。
倒れて頭を押さえているホームレスの男性が落とした“それ”を奪い取り、彼は建物の中へと逃げ込む。
そこは彼の経営する雑貨屋。二階部分が住居になっている。
興奮のあまり階段を駆け上がる。
障子を勢いよく開くと、眠っている妻を揺すって起こす。
「なぁ、なあ!」
「なによ………」
彼女は迷惑そうに目を開けた。
「見ろよ……これ…」
恍惚の表情を浮かべる彼が差し出したのは、大粒の青い宝石。
「どうしたの………これ?」
「さっき煙草を吸いに行ったら拾ったんだ!重さも硬さもあるし、こいつぁ本物だぞ!」
ホームレスから奪ったということは言わなかった。
「何を言ってるの?……あなた」
彼女の夫は異様な様子だった。
手の中のその石を握りしめ、うっとりとした表情でひたすらそれを眺めている。
ガラス細工のようにも見えるその石。
何が彼をそこまで魅了し、虜にしているのか彼女には分からない。
――――この日以来、この家族は”彼女”に統べられた哀れな民――――
”彼女”の狂愛の腕の中に囚われた、かわいそうな人間がまた一人と増えていく
これは、彼女が宝石店に招かれる少し前の出来事。
そして現在、このご夫人―――田野村紗代は彼のもとへと招かれたのだった。
イレールは平生の微笑を消して、落ち着きを取り戻した夫人に尋ねた。
「ご夫人、この石を捨てようとなさっていたんですよね?……何か、この石に関係した方々が…不運に見舞われたのではありませんか?」
「……はい。この宝石を夫が拾って来てから、うちは……大きく変貌しました。」
―――わたし達は夫婦で雑貨屋をしています。若い女の子たちが学校帰りや仕事帰りに気軽に寄れる店を開きたいという、わたし達の念願だったんです。やっと五年前にそれが実現して、二人で楽しそうに商品を見てはしゃいでいる女の子たちを眺める日々……夢のようでした。
主人も同じように、幸せだと毎日呟いて……彼はそんな穏やかな方でした。
だから……あんなに人が変わってしまうなんて…。
二年前から少しずつ、雑貨屋は経営が傾き始めました。
それでも二人で何とか頑張って持ち直しつつはありました。主人はどこか思いつめているようでしたが……
その石がうちに来て…経営が危うかった雑貨屋が繁盛するようになり、一気に黒字になったんです。
でも、わたしは素直には喜べませんでした。
なぜなら、夫は全くの別人になってしまったからです。
店で接客をしているときは普段どおりなんですが、店じまいした途端に部屋に籠って…うっとりした顔であの宝石に話しかけたり、なでたり、磨いたりしているんです……わたし達家族でさえも部屋に入れてくれなくなり、休日に至っては一日中そんな有様です……
わたしは忘れられません…。
『この青い石を見つめる、夫の狂気に満ちた笑みを』
ある日、大学生の息子が夫を心配して、その石をとりあげようとしました。
でも夫は取り乱して訳のわからない言葉を叫びながら、自分の息子を殴ったんです……今まで一度も我が子に手をあげることなんてなかったのに…
「おやじ!その石がそんなに大切かよ!家族のこともっと見ろよ……!目がいってんだよ……全部そのせいだろ!よこせ!」
―――「”彼女”にさわるなぁぁぁぁあああがあああああぁぁぁぁあ!」
顎を殴られた息子は脳震盪を起こして意識を失い、顎の骨も骨折しました……
そのあとすぐに……高校生の娘も部活中に右足の骨を折りました。
わたしも買い物に出かけた際、歩道に車が突っ込んできて…危うく事故になるところでした…。
―――「誰も…命は落としていらっしゃらないんですね?」
イレールが念をおすように聞いた。
夫人は頷く。
「はい。ですが……この宝石がわたし達に仕返しをしたような気がするんです。」
彼女は怯えた様子で震える体を抱きしめた。
「夫からこの宝石をとりあげようとしたら、立て続けに命の危険にさらされたんですから…」
―――ホープ・ダイヤモンドは、彼女のその様子を楽しむかのように蒼く光った。
――パサ……
イレールは胸ポケットからシルクの白い布を取り出してそれを包むと、夫人の視界にはいらないよう、宝石用の白い箱に入れた。
「……ご安心ください。私達は貴女方家族を必ずお助けします。」
「あなたたちが何者なのか、今はどうだっていい…もう、藁にもすがる思いなんです……」
夫人は涙声で、絞り出すように言った。
百合にイレールは目配せした。百合は緊張した様子で頷く。
「旦那様のもとへお連れいただけますか?」
「はい……。」
三人は田野村家へと向かった。
かわいらしい雑貨を売っている二階建ての小さな雑貨屋。
百合は店内を覗き見て、店主の様子を窺った。
見たところ、人の良さそうな中年の男性が接客をしていた。
「あの方が、旦那さんですか?」
あんなに優しそうな人が、自分の子どもに手をあげるようには思えなかった。
「そうです。今はあんな風に穏やかな表情ですが……店じまいした途端に、人が変わってしまうんです……」
「しばらく様子を見ましょう。私達がついています。安心してご夫人は店番にお戻りください。」
「はい……」
夫人は店番に戻った。それに気づいた店主はにこやかに彼女を出迎えている。
百合はこの家族が陥っている状況が良く分からなくて、イレールを見上げた。
「何が起こっているんですか………?」
「すべて…“彼女”のせいなんです。」
彼は白い箱を取り出した。
その中には彼が『呪いのホープ・ダイヤモンド』と呼んでいた青い大粒のダイヤが入っている。
「これは……とても恐ろしい宝石。」
厳しい顔をして、イレールは言葉を紡ぐ。
「呪いっておっしゃっていましたね……この家族に起こっていることは、この石の…呪い…ということなんですか?」
「大雑把に言えば、そういうことになります…でも、この宝石の呪いは、一般的な呪いとは意味が違います。一般的に呪いとは、相手に禍害を及ぼす目的で行われるものですが、このダイヤモンドの呪いは、禍害とは言い切れない部分があります。」
イレールの表情に影が落ちた。悲しみにも、哀れみにも思える表情であった。
「これは……この呪いは…これがダイヤモンドであること。青い大粒のダイヤであることに起因します。」
いつもは澄んでいるブルーの瞳がわずかに黒みを帯びている。
どこかこわばった顔になっているような気もする。
この石が引き起こしていることは彼を悩ませてしまうほど、大事であるらしい。
「百合さんは、ダイヤモンドに対してどういった印象を持っていますか?」
百合はイレールの、その重々しい雰囲気に緊張の色を強めながら答える。
「宝石と言えば一番真っ先に頭に浮かびます。結婚指輪なんかにも使われてるので……そういう意味でも、ほとんどの女性からしたら…憧れの石……だと思っています。」
その言葉に、イレールは少しだけ微笑んだ。
「……そうですね。ダイヤはそんな素敵な存在です。宝石の女王として君臨し、その力も最上級です。この石に魅入られた人々は最高の輝きをこの石に宿すため、テーブル・カットやローズ・カットなど様々なカットを考案し、試してきました。17世紀にはヴェネチアでブリリアント・カットの原型オールド・マイン・カットが考案されて以後、その技術は磨かれ、現代のブリリアント・カットにたどり着きました。それはそれは見事な変遷です……」
彼はまるで、その変化を直接その目で見て来たかのような口ぶりで優しげに話す。
「ダイヤモンドは永遠の愛や絆、純粋を象徴します。この石は持ち主に無償の愛を注ぎ、惜しみなく持ち主と他者とを愛で結び付けようとしてくれる……エンゲージリングにダイヤが用いられるのはこのためです。しかしながら……それは、統治者たる女王の一面にすぎない。」
「統治者たる女王の一面………?」
「統治者は、優しいだけでは国や人を治めることはできません。」
再び彼の顔に影が落ちた。
「女王は統治者として、人に現実を突きつける厳しい一面も必要です。そうしなければ、国や人は繁栄できない。ダイヤモンドの場合は持ち主に嘘偽りのない、人との愛や絆をもたらすため、厳しく持ち主の短所を突きつけ、改善することを求めます。」
「例えば……どういうふうに…ですか?」
「浪費癖のひどい方がダイヤを手にしたとします。ダイヤは持ち主の財産を減らすようなことで浪費癖を正そうとします。そういう状況をつくりだせるほど…ダイヤは巨大な力を持っています。」
イレールは自分があまりにも暗い顔をしていることに気づいたのか、普段の優しげな表情に戻った。
自分の話をしっかりと聞いてくれながらも、心配そうにこちらを見上げている少女の瞳に微笑みを映してやる。
「ダイヤはこういう厳しい一面を持ちますが、持ち主の身を滅ぼすようなことはしません。ただ短所を突きつけ、持ち主の人格を良くしようとしているのです。良識を持った人が持つなら、何も問題はありません。」
でも…と、彼は付け足した。
――「このホープ・ダイヤモンドは、この大きさと青いダイヤという特異な存在であるがゆえに、その影響力が大きすぎて……または、持ち主への愛が大きすぎると言ってもいいですね…人はそれに耐えられなくなって…身を滅ぼされてしまうんです。この宝石は三百年もの間そうやって人をめぐり、彼らを歪んだ愛で絡めとり、悲惨な最期をもたらし続けたんです。これが、この宝石の“呪い”。」
「じゃあ……ここの旦那さんはこの宝石に愛されすぎて、いずれ……。」
ちらりと雑貨屋のほうに視線をやって、百合ははっと息を飲んだ。
イレールが小さく頷いた。
「不遇な最期をとげるでしょう………私達が彼を救えなかったなら。この狂った宝石の暴走を止めることができなかったら。」
箱の中の“彼女”は、不敵にギラギラと黒く蒼く光っていた。
二人を観察しているようにも思える――――
「宝石の特性が問題だから、ミカエラに頼んで浄化をしても意味がない。浄化は取り込んだ負の感情を取り去ることでしかない。根本的な解決にはならない。
――――でも、大丈夫です。」
彼の瞳に、天空からさす聖光のような輝きが戻った。
イレールは、今自分が伝えることのできる最大限の思いのこもった言葉を
――無自覚に彼女に届けていた――――
「私には貴女がいます。強い心を持った貴女が。貴女の心が私に力をくれる。
ずっと…片時も離れずに―――私の隣に居てください。」
二つの瞳が真っ直ぐに重なった。
誠実と叡智を象徴し、人を導く聖職者の石とされる―――ブルーサファイア
感情や思いを自覚させ、洗練された心をもたらす黒曜石――オブシディアン
百合はドキリと―――胸が高鳴った――――
自分のオブシディアンの瞳を介して、彼女の心はずっとはっきりとしなかった―――
――――彼への思いの正体を自覚した
ブルーの光を浴びて青く、黒く、輝く自分の瞳を揺らして、彼を見つめ続けることしかできなかった。
やっと、言葉を選びぬいて返事をする――――
「―――――私で良ければ、イレールさんの隣にずっと…居させてください。」




