エピローグ スクリーンの向こうにいた人へ 美貌の代償を考え終えて
エピローグ スクリーンの向こうにいた人へ
美貌の代償を考え終えて
美しい人は、幸せなのだろうか。
この物語を書き始めたとき、私の頭にあったのは、二人の女性の姿だった。
一人は、オーストリア皇后エリザベート。
もう一人は、ハリウッドのスター、ジュディ・ガーランド。
生きた時代も、育った環境も、背負わされた役割も違う。
一人は皇后として宮廷の視線にさらされ、もう一人は少女のころから、映画産業と観客の視線にさらされた。
二人を、同じ物差しで測ることはできない。
それでも、彼女たちの人生をたどっていくと、どうしても考えずにはいられないことがある。
人々が愛したのは、彼女たち自身だったのだろうか。
それとも、彼女たちが体現してくれる、美しさの幻想だったのだろうか。
エリザベートは、その美貌を保つために、食事や運動、髪の手入れに心を砕いた。皇后という立場から距離を取り、旅を愛し、詩を書き、自分だけの時間を求めた。
彼女の美への執着を、ただ虚栄心と呼ぶことはできない。
そこには、自分の身体を自分の手で管理しようとする意志もあれば、他者に定められた役割から逃れようとする思いもあったのだろう。
けれど、皇后である以上、彼女は完全に自由にはなれなかった。
美しい皇后であることは、彼女の名声の一部だった。
そして、その名声は、彼女自身を縛るものにもなった。
ジュディ・ガーランドの場合、その事情はまた違っていた。
彼女は、歌うことのできる少女だった。
人の心をつかむ声を持ち、舞台に立てば、観客を笑わせ、泣かせ、夢中にさせることができた。
けれど、ハリウッドのスタジオが求めたのは、才能を持つ一人の少女だけではなかった。
映画の中で輝き続けるスター。
作品の都合に合わせて働き、観客の期待に応え、いつまでも若々しく、魅力的であり続ける存在。
彼女の才能は、多くの人々に喜びを与えた。
同時に、その才能は、彼女が自分自身の生活を自由に決めることを難しくする一因にもなった。
彼女の人生には、過酷な労働、健康上の問題、薬物依存など、さまざまな困難が重なっていた。
それらを、ただ「美貌の代償」と一言で片づけることはできない。
けれど、彼女がスターとして求められ続けたことと、彼女自身が苦しんだこととの間に、何の関係もなかったと考えることもできない。
ここで、私は一つの言葉にたどり着く。
【等価交換の原則】
彼女たちが支払った、ギフテッドともいうべき美貌の代償。
それは、才能と引き換えに幸福を失うという、物語の中だけの美しい寓話ではなかった。
美貌を称賛する社会が、その美貌を維持する責任まで彼女たちに負わせる。
才能を愛する観客が、その才能をいつまでも差し出すことを求める。
美しい姿を見たいと願う人々が、その姿の裏側にある疲労や苦痛には、なかなか目を向けない。
その果てにあったのは、あまりにも苛烈な、現実世界の等価交換だった。
もちろん、美しさそのものが罪なのではない。
才能が不幸を招くと決まっているわけでもない。
エリザベートの美しさは、彼女の人生のすべてではなかった。
ジュディの歌声も、彼女の人生のすべてではなかった。
彼女たちには、他人に見せるためではない時間が必要だった。
誰かの期待に応えるためではなく、自分のために生きる時間が。
そして、何よりも忘れてはならないことがある。
彼女たちは、苦しんだだけの人間ではなかった。
エリザベートには、旅への憧れがあり、詩への思いがあり、自分の生き方を選びたいという願いがあった。
ジュディには、歌う喜びがあり、舞台の上で人々を魅了する力があり、友人と笑い合う時間があった。
共演者のミッキー・ルーニーが、ジュディとの仕事を楽しいものとして振り返り、彼女を忘れがたい友人として語ったことは、私にとって大切な手がかりだった。
彼女を、悲劇のスターという言葉だけで閉じ込めてしまいたくない。
彼女には、悲劇ではない時間もあった。
人々を笑わせ、喜ばせ、自分自身も楽しんだ時間があった。
それは、彼女の苦しみを否定するものではない。
むしろ、その喜びを知ることで、私たちは彼女の人生を、もう少し立体的に見ることができる。
エリザベートも、ジュディも、後世の人々によって、さまざまな物語の中に生き続けている。
肖像画の中の皇后。
映画の中のドロシー。
舞台の上で歌うスター。
彼女たちの姿は、これからも多くの人々を魅了するだろう。
それでいいのだと思う。
美しさに心を奪われることも、歌声に涙することも、物語の中の人物を愛することも、決して悪いことではない。
ただ、そのときに、ほんの少しだけ思い出してほしい。
その美しい姿の向こう側には、実際に生きた人間がいたのだということを。
期待に応えられない日もあっただろう。
自分の姿を好きになれない日もあっただろう。
誰にも会いたくない日も、何もかも投げ出したい日もあったかもしれない。
そして、そんな日々の中にも、笑顔や喜びや、小さな自由があったはずなのだ。
私たちは、彼女たちの人生を、最後の悲劇だけで評価することはできない。
また、美貌や才能だけで、その価値を決めることもできない。
彼女たちは、誰かの夢を彩るためだけに生まれてきたのではない。
誰かの期待を満たすためだけに、生きていたのでもない。
一人の人間として、この世界に生まれ、限られた時間を生きたのだ。
美しさを称賛することと、その美しさの向こう側にいる人間を見失わないこと。
その二つは、両立できるはずである。
この物語を読み終えたあと、エリザベートの肖像を見たとき。
ジュディの歌声を聴いたとき。
どうか、そこに映る美しさだけではなく、その人自身の人生にも、思いを向けてほしい。
美貌の代償を考えることは、美しさを否定することではない。
美しさを愛でる私たち自身が、その美しさを支えるために誰かが負わされたものを、見過ごさないためなのだから。
そして何よりも。
「美しさの向こう側にいる人間を、見失わないために。」
「美貌の代償を考えることは、彼女たちの人生を悲劇に塗り替えることではない。社会が彼女たちに何を求め、何を負わせたのかを考えながら、それでも彼女たち自身が生きた時間を、きちんと見つめること。」
それは「かわいそうな女性たちの物語」ではなく「自分なりに、精一杯、生きた人たちの記録」なのです。
人の生きた時間は、年数だけでは測れない。
長く生きたか、短く生きたか。 何を成し遂げたか。
どれほど多くの人に知られたか。
そうした尺度では、ひとりの人間が生きた時間の本当の意味は、すくい取れないのでしょう。
エリザベートは六十年を生き、ジュディ・ガーランドは四十七年で亡くなりました。
けれど、二人の人生を、ただその長さで比べることに意味はありません。
エリザベートには、旅をし、詩を書き、自分の自由を求めた時間があった。
ジュディには、歌い、演じ、友人と笑い、観客の心を震わせた時間があった。
もちろん、その人生には、本人にもどうにもできなかった苦しみや、失われた可能性もあったでしょう。
それでも、彼女たちの生涯を、最後に訪れた死や悲劇だけでまとめてしまうことはできない。
人生の価値は、どれほど長く生きたかではなく、その限られた時間を、どのように生きたかという問いの中にある。
そして、その「どのように」さえ、外から簡単に推量できるものではないのだと思います。
今回の『エリザベートとジュディ、美貌の代償』も、最後にはそこへたどり着いたのかもしれません。
美貌の代償を描きながら、彼女たちの人生を、その代償だけに還元しなかった。
かわいそうな女性たちとして憐れむのではなく、限られた時間を懸命に生きた人間として見つめた。
「自分なりに、精一杯、生きた人たちの記録」
は、まさにこの作品の核心です。
人の人生は、長さでは測れない。
そして、他人の人生を本当に理解するということは、その人の人生に勝手な推量をするのではなく、最後まで、その人が生きた時間に敬意を払うことなのかもしれません。




