一 プロローグ
死ぬ間際に走馬灯を見るというのは、どうやら嘘らしい。
少なくとも、私に見えているのは天井の染みだけだ。雨漏りの跡が五十年かけて広がり、いまでは日本列島に似た形になっている。去年の台風で、北海道のあたりが少し伸びた。それを誰かに話そうとして、話す相手がいないことに気づいたのも、去年だった。
畳に仰向けになったまま、二時間ほど起き上がれずにいる。胸の奥を握られるような痛みは、さっきから鈍くなってきた。
電話は卓袱台の上にある。四メートル先だ。這っていけば、届かない距離ではない。
ただ、届いたところで、誰にかければいいのか分からなかった。救急車を呼ぶ番号は知っている。知っているのに、指を動かす理由が、どうしても見つからない。
首が動く範囲で、部屋を見回す。
壁際には党の機関紙が積んである。読んだもの、読んでいないもの、配りそびれたものが、もう区別のつかない高さになっている。その上に、背の割れた『資本論』の第一巻。余白はどの頁も鉛筆の書き込みで埋まっていて、二十歳の私の文字と、四十の私の文字と、六十の私の文字が、互いに反論し合っている。
二十歳の文字は、ほとんど叫んでいる。六十の文字は、問いにしか書いていない。
共産主義者を名乗って、五十年になる。革命は必然だと、二十歳の私は余白に書いた。いつ来るのかと、四十の私が書き足した。六十の私は、その必然という二文字に、細い線を一本引いただけだった。消すことも、丸で囲み直すこともできなかった。
押し入れの前には、刷ったまま配らなかったビラがある。「くらしの相談会 どなたでもお気軽に」。この三年、気軽に来た者は一人もいなかった。来なかった理由は、たぶん、私がいたからだ。
昔は、この部屋にも人がいた。
夜通し議論した仲間がいた。泣きながら相談に来た母親がいた。私の書いた文書を、すごい、と言って読んでくれた若者もいた。
一人ずつ、いなくなった。誰も喧嘩をして出ていったわけではない。私が正しいことを言い、相手が黙り、次の集まりに来なくなる。それだけだった。私はそのたびに、運動の厳しさだと自分に言い聞かせた。
ふと視線に、そばにあった一枚の布が目に入った。
縦糸が一本抜けたままの、色の乱れた手織りの布だ。昔、生活保護の申請に付き添った青年が、作業所で織ったものだった。
彼は窓口を出たところで、私の顔を見ずに言った。
——あなたが見てるのは、僕じゃなくて運動でしょう。
私は、彼の申請が通ったことを、制度の勝利だと思っていた。彼がその日、一度も笑わなかったことには、帰りの電車で気づいた。
それきり会っていない。布は、作業所の販売会で、名前を伏せて買った。謝りに行く勇気はなかった。布を買うことが、私にできた精一杯だった。
言い返す言葉は、五十年分の書き込みのどこにも見つからなかった。謝る言葉も、同じだった。
死んだ自分を見つけるのは、おそらく機関紙の配達だろう。郵便受けから紙が溢れれば、さすがに誰かが気づく。
七十年あまり生きて、最後まで社会とつながっていたのが、新聞受けの細い口一つだった。
弱い人を守りたかった。本当に、そう思っていた。思っていただけで、誰の手も握っていなかった。
目を閉じる。
手に取った布の抜けた縦糸の感触だけが、まだ指先に残っている。
もう一度、と考えかけて、やめた。やり直したところで、私はまた正しいことを言い、また誰かを黙らせるだけだろう。信じてきた理論も、それを信じた自分も、どちらももう信用できなかった。
せめて何か一つ、残せたものがあればよかった。
探してみたが、天井の染みのほかには、何も思いつかなかった。




