57話「ピエール助かる?」
牛銀がピエールの両足切断を終えたとき、そこには奇妙な静寂が広がっていた。
つい先刻まで騒がしかったはずの部下、ガリス、ミレア、そしてあろうことか命令を下した張本人である枝豆コーヒーの姿すら、そこにはなかった。
全員、あまりの光景に耐えきれず、無意識のうちに数メートル以上も距離を取っていたのだ。
「姐さん。終わりました。……断面の処理、お願いします」
返り血を拭いながら、事も無げに報告する牛銀。
その呼びかけに、岩陰からおそるおそる顔を出した枝豆コーヒーは、引きつった笑みを浮かべるのが精一杯だった。
(……いや、流石に私も番線カッターで人体を切断とか、普通に無理。というか何なのあの牛……。躊躇いがなさすぎて本気で怖いわ……!)
命じたのは自分だが、あまりにも完璧に、そして事務的に完遂した有能さに恐怖で塗りつぶされそうになる。
だが、彼女は震える膝を必死に押さえつけ、伝説の聖女の妹としての威厳を維持すべく、冷徹な仮面をかぶり直した。
「……わ、わかったわ。完璧な仕事ね、牛」
彼女は努めて平然を装いながら、白皙の手で新たな銀針を取り出す。
背後でガリスや部下たちが「あな恐ろしや……」「あれが工務店のやり方か……」と、呪文のように戦慄の声を漏らす中、枝豆コーヒーは背中を流れる冷や汗を必死に隠しながら、切断部位の縫合術式へと取り掛かった。
銀針が繊細な軌道で踊り、断面の血管と神経をミリ単位で繋ぎ直していく。
「ふぅ……。これで、命だけは繋ぎ止めたわ」
枝豆コーヒーが額の汗を拭い、深く息を吐く。その言葉は、現場に漂っていた死の気配を霧散させる合図となった。
「ありがとうございます……! 本当に、本当にありがとうございました!」
「……礼を言う。無茶な手法だったが、確かに救われたようだな」
「……ありが……とう……?」
部下は涙を流して崩れ落ち、ガリスは複雑な表情で感謝を述べ、ミレアは依然として「本当にこれで良かったのか」という疑問符を浮かべたまま頭を下げた。
一同の視線が、処置を終えたピエールへと集まる。
そこには、もはや両足こそ失われていたが、炭化していた皮膚は生気を取り戻し、先刻までの「石炭の塊」が嘘のように、穏やかな寝息を立てる男の姿があった。
命は助かった。だが、その代償はあまりにも大きく、そして治療のプロセスはあまりにも暴力的だった。
静かに意識を失っているピエールの寝顔は、地獄から生還した安堵と、愛用していた「番線カッター」を片付ける牛銀への、無意識の恐怖に染まっているようにも見えた。
「……では、ピエール様の書斎へご案内します。そこに、アビス教団襲撃時のダンジョン様子を収めた録画映像が残っていますので」
部下の男が、依然として震える足取りで一同を促す。その視線は、いまだに炭の塊なら戻りつつある主人の姿に、信じられないものを見るような色を宿らせていた。
「わかったわ。行くわよ、牛。……いつまでもカッターを眺めてないの」
枝豆コーヒーが、返り血を拭う牛銀へ冷ややかに声をかける。
彼女は優雅な足取りで歩き出し、伝説の聖女の妹としての仮面を再び被り直した。その背中には、最悪の事態を乗り越えた策士特有の、油断ならない鋭さが戻っている。
「……了解です。片付けは終わりました」
牛銀は淡々と工具を安全帯へ収めると、重厚な足音を立てて枝豆コーヒーの後に続いた。
ガリスとミレアも、複雑な沈黙を保ったままその背を追う。
一行が向かう先は、この屋敷の主が知識を蓄えてきた「書斎」。
煤けた廊下に響くのは、四人の足音と、遠くで吹き抜ける風の音だけ。
戦いの高揚はすでに去り、代わりにじっとりとした「真実」への予感だけが、彼らの歩みに付きまとっていた。




