33話「開戦」
生徒会長こと枝豆コーヒーは、目の前の男、田中への警戒レベルを一気に引き上げた。
彼女にとって、先ほどの針による奇襲は必殺のつもりだった。それを全弾回避されるなど、想定の範囲外だ。田中は「ギリギリ」とおどけて見せたが、彼女の冷徹な観察眼からすれば、その身のこなしには拭いきれないほどの「余裕」が漂っていた。
枝豆コーヒーは無言で手をかざす。
直後、彼女の背後の空間がぐにゃりと歪み、漆黒の円形をした「穴」が無数に展開された。そこから溢れ出す濃密な魔力が、私室の空気を重く、鋭く変質させていく。
「……魔導具無しで、それも無詠唱っすか?」
田中はわずかに目を見開き、感心したように呟く。だが、その言葉とは裏腹に、彼の手はすでに腰の刀の柄へと吸い込まれていた。
流れるような動作で居合の構えを取る。その刹那、田中の瞳から一切のハイライトが消え失せた。
「…………」
先ほどまでの軽薄な雰囲気は霧散し、そこにあるのはただ、獲物を確実に断つためだけに研ぎ澄まされる。空気が凍りつき、枝豆コーヒーが背後に展開した歪な空間の穴さえも、その殺気の鋭さに震えているように見えた。
「あっ。さっき、ギリギリだって言ったのは、嘘じゃないっすよ。……あんたみたいな化物に、手加減して生き残れるほど、この仕事は甘くないんっすよ」
田中の周囲に、物理的な風とは異なる、鋭利な「気」が渦巻き始める。
一方、下の階では、牛銀が部下から手渡された平凡な黒い斧を、まるで宝物でも扱うかのように大切に受け取っていた。
「親方様……。使わせていただきます。この『闇夜の斧』を」
牛銀が祈るように呟く。その姿は、荒くれ者の現場監督から、闇夜の斧を崇拝している者に変貌を遂げていた。対峙するアビスの隊長は、その「ただの斧」を冷ややかな目で見つめる。
「……そんな、どこにでもある黒いだけの斧を手にしたところで、何が変わるというんだ?」
隊長は牛銀のわずかな隙も見逃さない。嘲りの言葉と共に地面を蹴り、一気に距離を詰めて斬りかかる。だが、牛銀は動かない。否、動く必要すら、すでになかった。
「……ッ!? なんだ、この魔力の密度は……!」
斬撃が届く直前、隊長の剣は牛銀の肉体に触れることすらできず、彼を覆う蒼白い「圧」によって弾き飛ばされた。本能的な危機感に突き動かされ、隊長は瞬時にバックステップで距離を取る。
「……親方様は仰った。『魔力とは工具だ』とな。要は使い手次第で、如何様にも変化するのだ」
「……何を言っている?」
隊長の内心には、隠しきれない焦燥が渦巻いていた。
(何だ、こいつは……!? あの斧を持った瞬間、気配が完全に異質なものへと変わった。それに、仕込みナイフに塗った『即死級の神経毒』が、なぜ効いていない!?)
「俺は、親方様の足元にも及ばねえ。だが、そんな未熟な俺を見かねて親方様が造ってくださった……この『闇夜の斧』を侮辱するとは、許さんぞぉ!」
牛銀がゆっくりと斧を構える。すると、その黒い斧は牛銀自身の巨躯と同等のサイズまで膨れ上がり、禍々しいまでの威圧感を放ち始めた。その動作一つで、城の堅牢な床が耐えきれずにミシミシと悲鳴を上げる。
「……お前はさっき言ったよな? 『消えてもらう』って。……だがな、職人の世界じゃあ、それは『解体』って意味になるんだよ!!」
牛銀が巨大化した『闇夜の斧』を垂直に振り上げる。
その刃からは、もはや魔力というよりは、物理的な「破壊の質量」が溢れ出していた。
「なっ……馬鹿な、その巨体でそんな得物を振り回せるはずが――」
隊長が盾を構え直すが、その指先はわずかに震えていた。
毒が効かないのではない。牛銀の放つ圧倒的な熱量が、血管に侵入した毒素を「焼却」しているのだ。プロの暗殺者として培ってきた経験が、初めて「理解不能」という恐怖に塗り替えられる。
直後、振り下ろされた巨大な斧が空気を引き裂き、隊長の頭上へと直撃した。
――ドォォォォォンッ!!
爆鳴と共に、城の一階部分が文字通り「解体」される。粉砕された盾の破片と床の瓦礫が猛烈な勢いで吹き上がり、衝撃波は城の構造を伝って上階へと突き抜けた。
「……撤去作業、完了だ」
瓦礫の山を見下ろしながら、牛銀は静かに斧を担いだ。
その凄まじい余震が、二階の私室を激しく揺らした。
枝豆コーヒーは無言のまま、展開した空間の穴から無数の針を一斉に掃射し、田中の逃げ場を奪う。四方八方から迫る、死の降雨。だが、田中はそれをニヤリと一瞥した。
――斬ッ!
閃光のような一閃。
田中の抜刀と、階下から突き上げてきた牛銀の衝撃波が、奇跡的なタイミングで重なり合った。
「…………っ!?」
直後、床が物理的に弾け飛び、凄まじい砂塵が二人の視界を完全に遮断する。枝豆コーヒーが咄嗟に空間の歪みを防壁にするが、埃が晴れた刹那、そこに田中の姿はなかった。
あるはずの「宝具」も、彼と共に煙のように消え去っていた。
「なっ……逃げられたっ?」
驚愕が口をついた直後、彼女の直感が最大級の警鐘を鳴らした。
反射的に、崩落した天井の穴から屋上へと飛び退く。コンマ一秒後、彼女が先ほどまで立っていた場所は、正体不明の衝撃によって跡形もなく消滅していた。
「なんか、楽しそうだね? わたしも、混ぜてほしいかな?」
瓦礫の山の上に、ぽつんと小さな影が立っていた。
二階の爆発音に誘われてやってきた幼い少女――ティア。彼女の真っ赤な瞳は、獲物を見つけた猛獣のようにギラギラと、不気味な輝きを放っている。
「……お姉さん、なかなかおもしろそうだね。わたしと遊んでくれる?」
ティアが小さく首をかしげると、彼女の背後の空間が、物理的な質量を持った「悪意」によってミシミシと軋み始めた。枝豆コーヒーは屋上の縁に立ち、冷や汗を流しながら、眼下に現れた「本物の恐怖」を凝視する。
「……冗談でしょ!?。あんなデタラメな魔力、聞いたこともないんですけど……」




