32話「牛銀VS隊長」
アビスの隊長が静かに前に出る。その殺気は、先ほどまでの困惑を塗り潰すほどに鋭い。
「ようやく、やる気になりました? ……いけ、田中。ここは隊長に任せなさい」
「ういっす。じゃ、そういうことで」
田中の体がブレる。次の瞬間、彼はすでに光学迷彩のような速度で移動を開始していた。
その混乱の中、アクセイは切羽詰まった様子で、しかし持ち前の高圧的な態度を崩さず叫ぶ。
「貴方たち、何をしているの! 早くそこの不審者を排除しなさい!」
アクセイの一喝で、城の衛兵たちが一斉に田中へ向かって突き進む。だが、彼に近づく者から順に、まるで見えない糸を切られた人形のように、次々とその場に平伏していった。
――シュンッ。
銀光が一閃。田中の放った居合斬りは、衛兵たちの武器と、その戦意を同時に断ち切っていた。
「無駄っすね。命は大事にしましょう……ってもう、聞こえてないっすね」
田中が静かに刀を鞘に収めると、背後で倒れた衛兵たちの鎧がガシャリと音を立てる。その圧倒的な実力差に、現場の空気は再び凍りついた。
「おい。……俺の『アレ』を持ってこい」
牛銀が低く、重みのある声で命じる。
「はっ! 了解しました!」
部下の一人が全力で走り出し、城の外に停めてある馬車の荷台へと急いだ。
アビスの隊長は一瞬だけ、衛兵を片付けた田中へと視線を向け、すぐに牛銀へと突き刺すような眼光を戻した。
(……あっちは、大丈夫そうだな。まずはこの牛の旦那を何とかするか)
「悪いが……ここで消えてもらう」
隊長が動く。左手に構えた盾を牛銀の顔面へ叩きつけるように突き出し、物理的に視界を遮断。その完全な死角から、蛇のような軌道で鋭い剣先が牛銀の喉元を狙う。
だが、牛銀は一歩も引かなかった。
彼は腰の安全帯から、職人の魂とも言える「シノ」を抜き放った。
――ガキィィィィィンッ!!
硬質な金属音がホールに反響する。
牛銀は視界を奪われながらも、長年の勘が告げる「空気の震え」だけで刃の軌道を読み切った。手にしたシノの一点で、隊長の必殺の剣筋を完璧に受け止めたのだ。
「……消えてもらう、か。今の若い奴は、自分の気に入らねえことが起こるとすぐに暴れると聞いてたが……。現場でそんな物騒な言葉を使うんじゃねえ」
火花が散る至近距離で、二人の視線がぶつかり合う。
しかし、隊長の口元が不気味に歪んだ。
「……甘いな、牛の旦那」
ガシャッ!
盾の中央が機械的に展開し、隠されていた仕込みナイフがバネの勢いで飛び出した。至近距離、かつ盾で死角を作られた状態での予測不能な追撃。
牛銀は瞬時の判断で体を捻り、急所への直撃こそ避けたものの、鋭い刃が腹部に深く、半分ほども突き刺さった。
「ぐっ……!」
牛銀の口から、押し殺したような呻きが漏れる。作業着の腹部が、みるみるうちにどす黒い赤に染まっていく。
「牛銀様!?」
馬車から『アレ』を抱えて戻ってきた部下が、その惨状に目を見開き、悲鳴のような声を上げた。
現場の喧騒が、一瞬だけ止まる。
瓦礫の山の上にちょこんと座り、事の顛末を眺めていたティアが、ゆっくりとその視線を牛銀へと向けた。
「おじさん? ……だいじょうぶ?」
問いかける声に、色はない。
心配しているようにも、ただ死にゆく獲物を観察しているようにも聞こえる。その瞳には、共感も恐怖も、人間らしい感情は一切宿っていなかった。
その異様な気配を肌で感じ、アビスの隊長は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
(……不味いねぇ。ここでティア嬢が乱入してくるのは、最悪だ。もし彼女が本気を出せば、この場に生き残る者はいないか……)
隊長は、腹部から血を流しながらも立ち続ける牛銀を睨み据えたまま、思考を加速させる。
(……後は田中が「宝具」さえ持ち帰ってくれれば、我々の任務は完遂される。奴ならこの混乱に乗じて目的を果たせるだろう)
「……お嬢さん」
その呼びかけに、ティアの虚無的な瞳がわずかに揺れる。牛銀は苦痛を噛み殺しながら、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「約束したろ? ……俺たちがこの城を完璧に直した後に、お前が思いっきり壊すんだってなぁ」
「…………うん」
ティアの短い返事。その瞳に、ほんの少しだけ生気が戻る。
「なら、そこで大人しく見てな。職人が仕事を全うする姿をな。……おい、さっさと『アレ』を寄越せ!」
部下が震える手で差し出したのは、見た目も普通の真っ黒い斧だった。
一方、喧騒を離れてアクセイの部屋へと侵入した田中は、目当ての品を前に独り言を漏らしていた。
「おっ。これっすね……。こいつが噂の『宝具』っと!」
田中がその輝く宝具に指先をかけた、その瞬間。
音もなく、天井から無数の針が「雨」となって降り注いだ。
――シュシュシュシュッ!!
床に火花を散らし、逃げ場のない密度で突き刺さる鋼の針。しかし、田中はそこにはいなかった。
「……あぶっないっすねぇ、もう」
田中は数歩下がった位置で、ケロリとした顔で首を振った。その視線の先、豪華なカーテンの陰から一人の人影がゆっくりと姿を現す。
「……普通に避けるのね、今のを」
凛とした、それでいてどこか冷ややかな声。そこに立っていたのは、この場の混乱には不釣り合いなほど端正な制服に身を包んだ金髪の少女だった。
「ギリギリっすよ? ……『生徒会長』さん」
田中は軽口を叩きながらも、その目は笑っていなかった。
表の「リフォーム業者 vs 潜入部隊」のカオスとは別に、静まり返った私室で、もう一つの対峙が始まろうとしていた。
その頃、魔王城では――。
狂乱と怒号が渦巻くティア城の騒乱とは対照的に、魔王の私室には、耳が痛くなるほどの静寂が満ちていた。
わずかに開かれた窓の隙間から、冷ややかな夜風が忍び寄る。その風に誘われるようにして、ベッドに横たわる少女の白い髪が、銀色の糸となって静かになびいていた。
「ようやく、安定してきたな……」
ぽつりと漏らした魔王の声は、掠れ、ひどく疲弊していた。
その顔は土色にやつれ、かつての不遜な笑みはどこにもない。ただ、ベッドの傍らに腰を下ろし、少女を見つめるその眼差しだけが、今にも消えてしまいそうなほど儚く、そして深い慈しみに満ちていた。




