新婚旅行の場合 53
リツとルイはその後、魔界に残るエストリエやケビンと過ごすことにした。すっかり馴染んでいるアグラットまでが当然のようにそこにいた。アルシエルはアスモデウス元帥に呼ばれて途中から打ち合わせに行ってしまったが、朝も利用しているテラスに集まって残りの面々は三時のおやつを楽しんでいた。周囲には観葉植物が置かれていて通路からはあまり見えないのがこのテラスの使い勝手の良さだった。
「私もリツに会えないのはさみしいわ…でも連絡はするし、夢の領域で会いましょう」
エストリエはそう言ってリツを抱きしめるとついでのように唇を重ねてきた。慌てるリツを見てルイが笑っている。
「もうっ、エストリエったら、王妃にまでちょっかいを出してるって言われるわよ?」
アグラットが微笑む。アグラットは王妃に触れられるほど、まだ自分が気安い間柄ではないので実は少し我慢していた。魅力的な魂の輝きだと思う。いつか少し触れてみたい。今はまだその時ではないから気長に待とうと思った。時間ならたっぷりある。こんなところで焦って陛下の不興を買いたくはなかった。
「いいじゃない。可愛いんだもの。それにキラキラしていてきれいだから触りたくなっちゃうの」
悪魔になってから、少し葛藤とは無縁になった友人を見て、アグラットはホッとする。吸血鬼の頃の彼女はいつも悩んでいた。
「エストリエ…良かったら私の血…飲む?」
リツが思わず言うとアグラットは目を丸くした。
「エストリエ…ストラス以外の血も飲めるようになったの?」
「あら、そういえば言ってなかったわね。そうね。試してみたら…リツとルイの血は美味しいって思ったのよ。でも猫科の悪魔の血はやっぱり向いてなかったわ…」
「ふーん、それは興味深いわね。誰よ?猫科の悪魔って」
「オセよ。あ、直接飲んだ訳じゃないわよ?ストラスが助けるのに契約したばかりのその口でキスしてきたから…血の味まで感じたのよ。美味しくなかった…」
「それって猫科って関係あるの?じゃあ今度別の動物になれる悪魔でも試してみたらいいじゃない。主に変身しやすい動物が鳥類の悪魔なら相性がいいのかもしれないし…」
「…そんな誰にでも血をちょうだい、なんて言って気軽に試せないわよ。でもリツの血はフルーティーでとっても美味しいのよ。せっかくだから少しいただくわ」
エストリエはリツの首に口付けをし始める。それからゆっくりと舐めて整えてから牙を立てた。少し痺れたようなゾワゾワする感覚にリツは目を閉じる。心地良い。血を吸われてそんな気持ちになるのはやはり元吸血鬼のエストリエだからなのだろうか。しばらくリツの血を堪能したエストリエはゆっくりと唇を離した。
「リツ…少し味が変わったのかしら。お腹に天使がいるからなのか…フルーティーさが更に増したように感じるわ」
「もし天使の血が美味しいんだったら、理論的にはガブリエルの血も美味しいってことになるよな」
ケビンが横からそんなことを言うので、少し想像してしまったエストリエはわずかに眉をひそめた。
「どうしてかしらね…ガブリエルの首筋を噛みたいとは…ちょっと思えないのよね…見た目が軽薄だからかしら…?」
アグラットが思わず吹き出す。
「ちょっと…大昔から名のある天使に対して言うのがそれってどうなのよ?」
するとルイが首をひねりながら言った。
「うーん、エストリエが言うのもちょっと分かるよ。僕、あの人の喫茶店によく出入りしてたけど…見た目はエストリエの言う通り軽薄だし、時々人殺しも平気でしそうな始末屋みたいな目付きもするからさ。でも、いくら誘っても乗らなかったんだよね…見た目と中身のギャップがすごくて混乱した…僕が本気で誘惑して落とせなかったのはガブリエルくらいかな…」
「あらあら、随分ね。そんな話は大っぴらにしちゃダメよ?仮にもストラス補佐官の第二夫人なんだから…」
アグラットが苦笑する。エストリエは肩をすくめた。
「ストラスも最初はルイに手を出すのをためらってたのよ?あんなに悩んだストラスを見たのは初めてで、ちょっと気の毒になったくらい。キスした後も罪悪感でいっぱいになってたし…でも吹っ切れてからは早かったんじゃないかしら。私もルイを愛しているから、人の枠組みから見ると少し壊れているその部分も含めて失いたくなかったのよ。人の世界はルイをまっすぐにしようって必死だったけれど、まっすぐなルイはルイじゃないもの…悪魔は歪んでいても少し嗜好が特殊でも全然構わないじゃない。他人にとっての正常が自分にとっての正常かって言ったらそうじゃないことなんて、普通にあるでしょ?」
エストリエはそう言ってルイを抱き寄せる。ルイもエストリエを抱きしめようとして、笑い出した。
「ねぇ…二人ともお腹に赤ちゃんがいると、ハグするのも前よりも難しいね」
エストリエも思わずお腹を見下ろして笑う。
「ほんとね…私たち二人とも、ここでストラスの子を育ててるのよ…不思議ね」
エストリエとルイはお互いのお腹を撫でながらクスクスと笑う。
「あーあ、私もこんな風に第二夫人と仲良くしたかったわ」
そんな二人の様子を見ていたアグラットがお茶を飲みながらぼやいた。
「何?姉さんは第二夫人と不仲なの?」
お菓子をつまみながらケビンが興味深そうにアグラットの顔を覗き込む。無駄に美女な分、近付かれるとアグラットは変な動悸がした。お腹が膨らんでいるのに妙な色気がある。男に姿を変えて押し倒す自分を少し想像したところで、アグラットはケビンが今はダンタリオンの第一夫人なのを思い出して、ハッと我に返った。ダンタリオンを敵に回すと大変なことになりそうだ。
「私は…彼女と仲良くするつもりだったのよ?そうしたら、向こうが最初からケンカ腰で全然話にならないのよ…敵意剥き出し。だからもう諦めたわ。ストラス補佐官みたいに、私とも相性の良さそうな女悪魔を誘ってくれたら良かったのに。そもそもエストリエが結婚しちゃったから、仲良し作戦は水の泡になったのよ?エストリエが第二夫人だったら仲良くやっていける気がしたのに…」
「えぇ?もしかして、そんな理由で大佐は私のことを誘ってたの?」
「もちろん…それだけじゃないわよ。すでにそのとき補佐官がエストリエに気があるって噂が出てたから…ほら、他の悪魔が気になっている女悪魔に手を出したくなるのが、彼の悪い癖なのよ…それで落とせたら彼の勝ち。でも相手が彼に夢中になった途端に彼は興味が失せるのよ。だから私くらいに適度に放置できないとダメなのよ」
それは確かに悪い癖だとリツは心の中で思ったが声には出さなかった。それでいて彼はすぐに次の女悪魔を誘うから、ビンタされる羽目になるのだ。噂をすればなんとやらで、カイムと一緒に歩いているベルフェゴール大佐に、女悪魔が駆け寄ってくるのが見えた。植込みがあるので向こうからはこちらは見えていないようだった。大佐の声を聞きつけて皆が沈黙した。
「だからしつこいぞ?異世界に行くのは半分だけだと言ってるだろう。なんなんだ、いったい」
大佐の気怠い美声が通路に響く。
「だったら、そこの悪魔じゃなくて、私を連れて行ってくれたっていいじゃないの!それとも何?女に飽きて、宗旨変え?この痩せ細って貧弱な悪魔のどこがいいのよ?」
確かにカイムは細い。植え込みの陰から女悪魔を見たケビンはおよそ想像していたよりも縦にも横にもかなり巨大な女悪魔の姿を見て吹き出しそうになり、慌てて口を手で押さえた。向こうで見た下半身が魚の主人公が出てくる映画の悪役にこんなキャラがいたような気がする。大佐の女の趣味が幅広すぎて掴めない。
(姉さん、あのやたらとデカい女は誰?)
(…あれは…第四夫人よ…あの調子だと、そろそろお払い箱かしら…子どもも成人してる訳だし)
「そう、高い声でわめくな。こちらは仕事なんだ。別に宗旨変えはしていないし、君では魔力不足なんだ。仕事のできる部下を選んだだけで、いちいち文句を言われても困る…」
一見すると長期出張に部下を同行させる夫にあらぬ疑いをかける面倒な妻にも見えなくはないが、ベルフェゴール大佐の思惑がカイムを落とすところにもあるのではないかと思っているリツからすると、もちろん苦笑しか出てこなかった。言い争いはなおも平行線をたどり、間に挟まれたカイムは明らかにうんざりした顔をしていた。やがて首を振りながらアグラットが立ち上がって植え込みの陰から姿を見せた。
「あらあなた、こんなところで長々とケンカを始めるから、お茶が不味くなってしまったじゃないのよ。王妃と補佐官の妻二人、それに陛下のご友人の妻もいらっしゃるのよ?レヴィー夫人も少しはわきまえて?ここは王宮なの。あなたの自由にできる家じゃないわ」
「おや、アグラット。王妃とお茶会とは優雅な午後だな。第一夫人もちょうどここに来たところだし、残念だが君とは離縁するよ。今の君の言動は結婚した際に取り決めた内容に対する契約違反だ。確かに子どもが成人するまでは面倒を見ると言ったが…その期間もとっくに終わっているし…」
「第六条第一項、乙は国務に関するあらゆる甲の行いについて意見してはならない。乙がこれを破った場合は婚姻関係をただちに解消するものとする」
ベルフェゴール大佐が中空に、まるで巻物のように長い紙を呼び出して低い声で読み上げた。レヴィーと呼ばれた女悪魔は震え上がった。文字列が光ってもう一枚用意した用紙に大佐はサラサラとサインをする。その横にアグラットもサインをした。
「残念ながらあなたがこの一番下に名前を書いても書かなくても、この書類を提出すれば離婚は成立するわ。第一夫人の私が立ち会ったから。それにあなた、大事なことなのに忘れたの?悪魔にとっての結婚は契約なのよ?下らないことで嫉妬するからそうなるのよ。それにカイムは別に貧弱じゃないわ。あなたのサイズだと異世界の住人を相手にしようものなら壊してしまうもの。カイムくらいに細身の方が異世界ではモテるみたいよ?」
アグラットはそう言うとカイムの腕を握って確かめた。
「カイムって着痩せするのね。ちゃんと筋肉もついてるじゃない。前よりも顔色だって良くなったし、異世界でも夫のことをよろしくね?レヴィー夫人はこれを持って婚姻関係相談課に行くといいわ。復縁は難しいと思うけれど、夫は住んでいる家まで取り上げる悪魔じゃないから感謝することね。浪費しなければ暮らしていけるでしょ?じゃ、お元気で」
アグラットは優雅に立ち去ろうとする。そのアグラットの腕を掴んでベルフェゴール大佐が抱き寄せた。アグラットが猫のように目を細めて笑うと、大佐はアグラットに口付けをした。呆然とした様子のレヴィー夫人はそれを見て、手にした用紙を握りしめるとアグラットを睨みつけて走り去る。大佐はなおも唇を重ねてアグラットを愛撫した。
「君を第一夫人にして良かったよ…」
アグラットは満更でもなさそうに微笑むと言った。
「空席の第四夫人の座は…カイムが万が一妊娠したときのために空けておいた方がいいかもしれないわね。稀にいるでしょう?姿を女に変えなくても妊娠しちゃう子が。カイムがそうなるかどうかは分からないけれど…そうなったときは上司としてちゃんと責任を取らなきゃダメよ?」
「分かってるさ…それと今夜くらいは…せめて俺のために予定を空けておいてくれないか?アグラット…」
「仕方ないわね…分かったわよ。空けておくわ」
アグラットはそう言うと素っ気なく大佐の腕から逃れて、植え込みの方へと優雅な足取りで戻ってくる。
「…大佐はアグラットの手のひらの上で転がされてるんだな…なるほど。学びがあるなぁ…」
ケビンが感心したように言ってニヤリと笑った。




