プロローグ
学校のチャイムが、どこか倦怠感を孕んだ音で昼休みの訪れを告げる。
その音を合図に、俺らは吸い寄せられるように机を寄せる。
木製の天板が擦れるカサついた音。それぞれが持ち寄った弁当箱の蓋が開いた瞬間、教室の片隅には立ち上る湯気と共に、ひどく庶民的でくだらない「男の論理」が展開されることとなった。
「やっぱさぁ、女は『顔』なんだよ。これだけは譲れん」
今日のテーマは、実に安直で、そして誰もが一度は通る不毛な二者択一だった。
口火を切ったのは輝だ。
特進クラスを目指すとか言っているくせに、考える頭の中身は中学生と大して変わりやしない。
「いやいや、甘いな輝。絶対に『性格』だろ。どんだけ顔が整ってようがさ、性格が破綻してたら速攻で浮気されてNTRるのが関の山だぞ?」
対する涼太は、さも人生の深淵を見てきたかのような顔で首を振る。
完全に「顔派」と「性格派」の平行線だ。輝は納得がいかないといった様子で、身を乗り出すように熱弁を振るう。
「でも想像してみろって! 朝起きてさ、『おはようダーリン』とか言われて目を開けた瞬間、ブスが視界いっぱいに広がってたらどうする? テンション暴落だろこんなの!」
あまりに直球すぎる暴論に、涼太は一瞬気圧されたものの、すぐさま俺の方へと視線を滑らせてきた。助けを求める目だ。仲間を増やして、この不毛な議論に終止符を打ちたいのだろう。
「おい翔、お前はどうなんだよ? それとも何か、『俺はスタイル派だから』とか言って三つ巴の泥沼に持ち込む気か?」
振られたさいの目は、俺の手元で止まる。
ここで「性格」と言えば涼太の勝ち。「顔」と言えば輝の勝ち。だが、僕はそんな安易な二項対立に付き合うほど青くはない。
やれやれと肩をすくめ、ごく当然の心理を口にする。
「んなもん、顔も性格もスタイルも、全部揃ってるに決まってんだろ。性格が良い美人と、性格が良いブス。前者を選ぶに決まってんだろ。愚問だな」
「……それを言ったらおしまいだろ」
輝が心底呆れたというように溜息をつく。
涼太に至っては「はぁー」と深く天を仰ぎ、教室の無機質な天井を見つめたまま呟いた。
「男子校だからこんな最低な会話ができるんだよなぁ……あーあ、彼女欲しい」
「それな。共学でこんな話したら一瞬でSNSに晒されて大炎上だわ」
「でもさ」
輝がニヤつきながら続ける。
「女側に『高収入のイケメン』か『高収入のブス』かでアンケート取ったら、絶対100対0になると思わないか?」
「いや、世の中には奇篤なブス専ってのが存在するかもしれない。標本集団が全員そっち系だったら結果はひっくり返るぞ」
「あるわけねぇだろ、そんな奇跡!」
バカみたいな会話。何の足しにもならない、無価値な時間。
だけど——いま振り返れば、あのくだらない空気感こそが、俺らにとっての「日常」という宝物だったのだと思う。
気怠い午後のチャイムが鳴り、僕らはそれぞれの現実へと戻る。
特進クラスを目指す輝だけがノートを開き、涼太は開始三分で完全な睡眠モードへと突入した。
窓際のアリーナ席。差し込むポカポカとした午後の陽光と、食後の満腹感。なるほど、これはどんな優秀な人間であっても抗えない悪魔の誘惑だ。
高一の授業なんて、まあこんなものだろう。
退屈な時間を浪費し、放課後。
窓の外は、すでにどこか寂しげな茜色に染まっていた。
「帰ろーぜー」
机に伏していた涼太が、あくびを噛み殺しながら言った。
補習とは無縁の僕と涼太、そして本来なら成績上位者であるはずの輝。自由で有意義な放課後が約束されているはずだったが——。
「すまん! 今日、特進向けの補習があるんだった。先に帰ってくれ!」
輝は申し訳なさそうに両手を合わせ、頭を下げた。
「マジかよ……じゃあ翔、二人で行くか」
「おう、そうだな」
カバンを担ぎ、立ち上がる。
「じゃあな輝、補習頑張れよ」
「明日は絶対一緒に帰るぞ」
俺らの言葉に、輝は白い歯を見せてニッと笑った。
「もちろんだ。絶対帰ろうぜ」
それが、三人で交わした最後の「約束」になるとも知らずに。
校舎を出て、駅へと向かう夕暮れの道。
視界の端には、他校の制服を着た男女が仲睦まじく歩く姿が映る。
「……あー、イラつくな。腹減ってきた」
「現金な奴だな。……まぁ、今日は時間も小遣いもあるし、ラーメンでも食っていくか?」
「あり! 駅前にめちゃくちゃ美味そうなパフェ屋があるんだよ!」
「……は?」
ラーメンの口になっていた俺の脳内に、甘ったるいパフェの画像が無理やり割り込んでくる。
脈絡のなさに眩暈がしたが、涼太のこの手の気まぐれは今に始まったことじゃない。仕方ない、付き合ってやるか。
「はいはい、パフェね。行きますか」
店に入り、二人で厳めしく男二人のパフェを注文する。
運ばれてきたそれは、旬のフルーツとたっぷりの生クリームで彩られた、世界を狙えそうな逸品だった。
写真を何枚か撮り、男二人で無言で突っつく。
「うっま……疲れ吹っ飛ぶわ」
「な? 明日、輝も連れて来ようぜ。放課後、三人でさ」
「名案だな。乗った」
「よし、あいつにライン入れとく!」
甘味で脳を溶かしながら、俺らは明日の予定を立てた。
カフェを出て改札をくぐり、電車を待つホームへ上がる。
「輝の奴……本当に特進とか行っちゃうのかな」
ふと、胸の奥につかえていたものが言葉になって漏れた。
「まぁ……あいつなら行けるだろ。学年トップクラスだしな」
「そうだけどさ……遠くに行っちゃうみたいで、ちょっと寂しいよな」
涼太も寂しさを隠そうとせず、小さく頷いた。
「俺は理系だけど、涼太は文系だしさ。せっかく仲良くなったのに、みんないい感じにバラバラになるじゃん」
「だな。文理選択なんてクソくらえだわ。……でもまあ、クラスが変わっても三人で遊べばいいさ」
電車を待つ風が、少しだけ冷たく頬を撫でる。
こんな当たり前の、明日も続くはずだった日常。それが少しずつ形を変えていくことすら、当時の僕にはどこか耐えがたい寂しさに思えていた。
「日常ってさ……変わっちまうもんなんだな」
柄にもなく深いことを呟いてみる。
だが、隣の涼太からの返答はない。
「おい、十年に一度レベルの深いい話をしたのに無視かよ」
振り向くと、涼太は目を見開き、ホームの端——線路の底を凝視していた。
「……翔。これ持ってろ」
押し付けられるように涼太のカバンを渡される。
「は? おい、どこ行くんだよ……ッ!?」
彼の視線の先。
ホームから転落したと思われる、七十代後半ほどの老人が横たわっていた。足を挫いたのか、立ち上がることができずもがいている。
そして悪夢のように、遠くから近づいてくる列車のヘッドライト。
しかも、ここは「通過駅」だ。
快速電車が減速もせずに突っ込んでくる。
(助ける義理なんてない。俺一人なら、間違いなく見捨てる——死にたくないから)
けれど、目の前のバカは違った。
涼太は一秒の躊躇もなく、線路へと飛び降りたのだ。
老人の体を抱え上げようとする涼太。だが、老人の足が線路の隙間に挟まり、びくともしない。
迫る踏切の警報音。線路を伝う狂暴な振動。
(行く必要はない。見知らぬジジイのために命を張るな。……でも!)
「あぁもう! くそっ!!」
思考より先に、身体が動いていた。
背負っていたカバンを投げ捨て、俺もまた線路へと跳び下りていた。
親友を、見殺しになんてできるわけがない。
「翔! こいつの靴が挟まって抜けねぇ!」
「脱がせろバカ! 足じゃなくて靴だろ!!」
「——あ! その手があったか!」
焦りすぎた涼太の手から靴を脱がせ、老人の体をホームの上へ押し上げる。
居合わせた乗客たちが、悲鳴を上げながら老人を引き揚げてくれた。
「やべぇ! 電車来てるぞ!!」
巨大な鉄の塊が、殺意を孕んだ速度で迫ってくる。
駅の構造上、下からの足場(押し上げ)なしで二人が同時にホームへ這い上がる時間はない。
どちらかが犠牲になり、どちらかを押し上げるしかない。
本音を言えば、僕が先に上がりたい。死にたくない。
けれど——俺は、カッコをつけることにした。
「お、お先……どうぞ……ッ!」
「よし、行くぞ!」
土壇場の判断。涼太は迷わず僕の肩を足場にして跳んだ。
上の乗客の手を借り、一瞬でホームへと引き上げられる涼太。
成功だ。
……だけど。
(あ、これ……間に合わないわ)
視界の全てが、電車の眩いライトで白く染まる。
風圧が肌を裂く。死の恐怖が、一秒遅れて脳味噌を焼き切るように襲いかかる。
——ああ、最後におふくろに「ありがとう」って言っておけばよかったな。
——最後に、あのバカ三人でパフェ、食いたかったな。
諦めが全身を支配したその瞬間。
「翔っっっっっ!!!!」
上から、血を吐くような叫びと共に、手が伸びてきた。
涼太だ。半ば身を乗り出し、必死に手を伸ばしている。
(……そうだ、まだ終わってねぇ!)
諦めを蹴り飛ばし、僕は全筋力を込めて跳躍した。空中でその手を掴む。
「涼太ぁぁぁっ!!」
引き上げられる感覚。身体が浮く。行ける、助かる——!
「涼——」
——ガゴンッッ!!
世界が、へしゃげた。
鈍く、重く、骨が砕け、肉が爆ぜる不快な衝撃。
思考を挟む余地すらない。
間に合わなかったのだ。最初から、間に合うはずなんてなかったのだ。
「しょ……う……?」
遠くなる親友の声。
「俺、死ぬのかな」なんてドラマチックな感想を抱く暇すらない。
俺の意識は、冷たく、深い闇の底へと脱落していった。




