第五話 桜峠の約束
春になると、兄は妹の手を引いて桜峠に登った
吉野山に向かう道中ある、桜の美しい場所だ
立石の里の子どもたちは川で遊び
野山を駆け回っていたが、妹は身体が弱かった。
少し歩くだけで息を切らし、長く外では遊べない
それでも桜の季節だけは違った。
「にいちゃん、今年も咲いてる」
妹は嬉しそうに空を見上げる
兄は少し得意げに笑う
「このしだれ桜はな、毎年ちゃんと咲くんや」
「どうして?」
「みんなが待ってるからや」
妹は真剣な顔で大きな桜を見上げた
「じゃあ、桜もうれしいのかな?」
兄は少し考え
「そうやで!」
と答えた
風が吹き、花びらが二人の肩へ舞い降りる
妹は小さな手で花びらを包み込み、宝物のように胸へ当てた
夏が来る頃、妹は床に伏せる日が増えた
熱は下がったり上がったりを繰り返し、外へ出られなくなった
兄は毎日、山で見つけた花や木の実を持ち帰った
「ほら、今日は赤い実や」
「きれい」
妹は笑う
その笑顔を見るだけで、兄は嬉しかった
秋。
窓から見える山は紅く染まった
妹は静かに呟く
「にいちゃん」
「なんや」
「来年も……あのしだれ桜、見られるかな?」
兄はすぐに笑った
「見られるに決まってるやろ」
「ほんと?」
「ああ 」
兄は妹の小さな手を握る
「また一緒に山へ登ろう」
妹は安心したように目を閉じた。
「約束ね。」
「約束や。」
その指切りは、とても小さな約束だった
冬。
山には雪が降った
兄は毎日、妹の枕元で春の話をした
「今年は桜がいっぱい咲くで!」
「うん」
「花びらもいっぱいや!」
「うん」
「一緒に見ような!」
妹は静かに微笑んだ
「うん……」
それが兄妹の最後の約束になった
春
山には、去年と変わらない桜が咲いた
兄は一人、山道を歩く
その手には、小さな巾着袋
中には妹が去年拾った桜の花びらが、大切にしまわれていた
あの大きなしだれ桜の木の下へ着くと、兄はそっと巾着を開いた
風が吹く
花びらは空へ舞い上がり
今年の桜と重なって
春の空へ溶けていく
兄は空を見上げた
涙は流さなかった
ただ、小さく笑って言った
「今年も咲いたで」
「約束どおりや!」
その時
少し離れたところに、一人の老人が立っていた
兄は気付かない
老人は舞い上がる花びらを見つめ、静かに目を細める
「ちゃんと……届いたな」
その声は、風に溶けるほど小さかった。
老人は足元に落ちていた一枚の花びらを拾い、空へ返した
花びらは兄の肩に舞い降りる。
兄はそっとそれを掌に乗せる
「ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
けれど、その春の日
兄は初めて、一人で桜を見上げながら笑うことができた
老人は静かに山道を下りていく
振り返ることはなかった
桜峠の桜は、今年も何も語らず咲いていた




