第6話 解呪は、起動しない【セシリア視点】
解呪の朝が来た。
図書塔の最奥。床に、私は白墨で陣を描いた。何度も検算した式だ。一点の誤りもない。ヴァレンフェルトの呪いを逆算し、書き換えられた術式を、元の形へ戻す。理論上、完璧だった。
羊皮紙と白墨の匂い。窓から差す朝の光が、陣の線を白く浮かび上がらせる。
アイリスが、陣の中央に立っていた。
亜麻色のくせ毛。淡い琥珀の瞳。今朝の彼女は、いつになく静かだった。昨日まで私から目をそらしていたのに、今は、まっすぐ私を見ている。
その視線が、なぜか、私の手を止めかけた。
「準備はいいわ」
私は声を整えた。
「君の力で発動して。私の組んだ式を、君の願いで起動させればいい。終われば、全部、元に戻る」
「……うん」
アイリスは、ちいさく頷いた。
頷いたのに、その瞳が、わずかに、揺れた。
始めましょう、と私は告げた。
アイリスが目を閉じる。彼女の周りに、精霊たちが集まってくる。風が、火が、水が、陣の線に沿って、ゆっくりと流れ出す。魔力が満ちていく。空気が、密度を増して、肌にまとわりつく。
あとは、彼女が願うだけだ。この呪いを、解け、と。
陣が、淡く光りはじめた。
いい。起動する。私は息を詰めて見守った。
光が強まる。式が、彼女の力を吸い上げ、解呪の術が形をなそうと――
ふっ、と、光が消えた。
陣の線が、力を失って、ただの白墨に戻る。集まっていた精霊たちが、戸惑ったように、ばらけていく。
なにも、起きなかった。
「……アイリス?」
「やってる、よ」
アイリスが、目を閉じたまま言った。
「ちゃんと、願ってる。消えろって。なのに……出ない」
もう一度。私はそう言った。アイリスが、眉を寄せ、より強く念じる。精霊が再び集い、陣が光り――また、消える。
三度。四度。
起動しない。
ありえない。私の式に誤りはない。アイリスの力は無限だ。これまで、彼女が本気で願って、生まれなかった魔法など、ひとつもなかった。
なのに、この解呪式だけが、起動しない。
私は陣の前に膝をつき、線を指でなぞった。冷たい白墨の感触。式は、正しい。完璧に正しい。
ならば、なぜ。
原因を、私は探した。理論家として。あらゆる可能性を、頭のなかの棚から引き出して、ひとつずつ検める。式の不備――ない。魔力の不足――ありえない。干渉――精霊は従順だ。
残る可能性は、ひとつ。
起動しないのではない。
拒まれているのだ。
アイリスの本能が。彼女の、願いの根のところが。この解呪を、拒否している。
私の指が、白墨の上で、止まった。
アイリスの魔法は、彼女の願いから生まれる。本気で願えば、必ず生まれる。逆に言えば――彼女が、心の底では願っていないものは、決して生まれない。
彼女は、口では「消えろ」と願っている。
けれど、彼女の本能は。彼女自身も気づいていない、いちばん深いところは。
この気持ちが、消えることを、望んでいない。
だから、起動しない。
彼女の本能が、この恋を、手放すまいとしている。
私は、アイリスを見上げた。
彼女は、まだ目を閉じて、必死に念じている。眉根を寄せて。けれど、その閉じた瞼の奥で――瞳が、金に、傾いているのが、わかった。
本能が、動くときの色。
本人は、気づかない。読めるのは、私だけ。
彼女は、もう。
私の喉が、ひりついた。
知ってしまった。彼女より先に、彼女の本心を。彼女の魔法が、彼女自身より正直に、答えを出してしまった。
では。
では、私は?
私は、自分の胸に手を当てた。あの夜、解呪式を自分に向けても消えなかった、この熱。
アイリスの本能が解呪を拒むなら。私のこの熱も、解呪では、消えないのだろう。
外因の、せいには、できない。
もう、できない。
「アイリス」
私は、立ち上がった。声が、震えないように、腹に力を込めた。
「今日は、ここまでにしましょう」
アイリスが目を開ける。淡い琥珀に戻った瞳が、不安げに私を見た。
「……解呪、できなかったよ。わたしの、せい?」
「いいえ」
私は、嘘をついた。
生まれて初めて、この子に。
「式に、想定外の干渉があったみたい。原因を、調べ直すわ。少し、時間がいる」
アイリスは、こくりと頷いた。私の嘘を、疑いもせずに。
その素直さが、刃のように、私の胸を抉った。
本当のことを、言えなかった。
君の本能が、この恋を手放さないと言っている、と。だから解呪は、永遠に起動しない、と。
そしてそれは――私にとって、絶望ではなく、どうしようもなく、甘い報せなのだ、と。
言える、はずがなかった。
窓の外を、雲が流れていく。
完璧な式を描いた白墨の陣が、私の足元で、無力に、白く沈黙していた。




