第6話 続・スタンド部員① 山田
【読者の皆様へ】
本作品はフィクションです。実在の人物・団体・高校・特定の大会および行政機関・制度等とは一切関係ありません。
「あれ? これ山田じゃね?」
大学の食堂で、隣の席の男が画面を覗き込みながらそう呟いた瞬間、俺の背筋に冷たい氷が突き立てられた。ビクッと肩を跳ね上げ、心臓の動悸を必死に抑えながらスマホの画面を盗み見る。……ただのよく似た他人だった。
大学に進学してからの俺は、前髪を重く下ろすようになっていた。人間、眉毛さえ隠してしまえば顔の印象は激変し、個人の特定が著しく困難になると心理学の講義で学んだからだ。
毎年、夏が近づくのが心底恐怖だった。
八月になれば、SNSにはあのアルプススタンドでの珍妙なダンス動画は毎年拡散され、タイムラインを埋め尽くす。
いつか、大学の友人にバレるのではないか。
もしバレたら、俺はどんな顔をして、どう振る舞えばいいのか。
ヘラヘラ笑って誤魔化すのか、それとも居直るのか。答えなんて、何ひとつわからないまま逃げ回っていた。
眉を隠す前髪は、いつも俺の心を守ってくれた鎧だった。
——そして今。ついに勝負の時が来た。
俺はトイレの鏡の前で前髪をきっちりと上げ、額を露わにしている。
スポーツ庁の幹部と、高野連の理事が一堂に会する第2会議室。ずらりと並ぶ重鎮たちの末席には、先日あのYouTube生配信で謝罪と改革の必要性を訴えてくれた中村監督の姿もあった。
トイレにいた時、中村監督から声をかけられた。
「山田くん。君も私を恨んでいただろう」
「当時はそうでした。今はシステムを恨み、変えようとしています」
そう返した。
世論は確実に動かした。相沢の改心、田村の泥臭い草の根活動、彩花の後押し、そして中村監督の支援。外堀はすべて埋めたはずだった。
スポーツ庁長官が口を開いた。
「それではこれより山田案をベースに実務面での議論に進みます。異論はございませんか?」
シーン…。
いける。今度こそ、この狂ったシステムを根底から破壊できる——。
……だが。
議論が理念から「実務者による具体的なルール調整」へと移った途端、部屋の空気が急速に冷え込み、雲行きがおかしくなっていった。
「山田君、君の言う『部員出場機会均等化(複数チームの予選参加)』だがね……予選の参加団体が倍増した場合の、球場の手配と日程消化はどうするつもりだ? 地方大会の会期をどれだけ延長することになるか、試算はできているのかね?」
高野連の実務担当者が、無表情に書類をパラパラと捲りながら淡々と問いかけてくる。
「それに、大会中の故障者発生に伴うAチームとBチーム間の選手入れ替えは認めるのか? もし認めれば、強豪校が戦況に応じて主力を行き来させる抜け道として悪用されるリスクがある」
現場の運用、日程、規定の隙間、予選会場の確保、審判員の不足——。
具体的な問題点を洗い出していけば行くほど、俺が練り上げたはずの改革案は角を削られ、丸め込まれ、どんどん「現在のルール」へと逆戻りしていった。
「……その課題はこのようなサポートシステムでカバーします! 現場の混乱は実施不可能なレベルではありません!」
必死に食い下がる俺の声を、上座に座るスポーツ庁幹部が静かに諌めた。
「まあまあ、山田君。現場の混乱を最小限にするのが行政の基本だよ。君の情熱は買うが、何も一度にすべてを変える必要はない。まずは『努力目標』として通達を出し、少しずつ、何年もかけて徐々に理想へ近づけていくやり方じゃダメなのかね?」
努力目標。自主的な改善。要するに、ただの不実施の言い訳だ。
……だって……。
それじゃ……。
結局、何も変わらないじゃないか……!
15年経っても、来年の夏も、またどこかの高校の補欠部員が泥ひとつない綺麗なユニフォームを着せられ、猛暑のスタンドでピエロとして踊らされるのだ。
会議室のエアコンの冷気が、薄くなったスーツ越しに皮膚を刺す。
喉の奥がカラカラに乾き、視界が歪んでいく。
……また、忍び寄ってきた。
あの夏の、あの冷たい「敗北の予感」が。
会議室を支配する、諦めと事無かれ主義の冷たい空気。
敗北の予感を身に纏い、俯きそうになる頭を必死で支えていたその時——ふと、先日居酒屋で田村が口にしていた言葉が脳裏をよぎった。
『最近わかってきたんだけどさ、彩花って諦めの悪い男が好きなんだよな。でも少年マンガの主人公みたいに一旦いじけてから這い上がるタイプじゃなくて、最初から「諦める」って概念が無いタイプ。多分付き合ってた頃の俺はそんな感じの雰囲気が少しはあって、ああレギュラーにはなれないって察し始めた頃からはそうじゃなくなってたんだ』
『ずっと「諦める」って概念が無いままでいられるやつなんて、この世にいんのかよ。ああ、一条選手みたいな圧倒的な力を持つ奴か。』
『いや、あれはちょっと違うかな。あれは諦めるきっかけさえない人だし』
『今特別な人間じゃないのにってことか?そんな人間いるか?』
『いるわけねーと思うけど、彩花は今結婚して幸せらしい。旦那さんがそうなのかもな』
『そりゃ、すげー人がいたもんだな』
『……実在してんならさ、俺にだってなれるのかもしれない。俺は目指すよ』
——そうだ。あいつは、そう言っていた。
15年前、スーパーの帰り道で背中を叩かれ、折れかけた心を繋ぎ止めた田村が。今や少年野球の現場で、そして相沢を巻き込んで泥臭く足掻いている田村が、本気でそこを目指しているのだ。
俺はどうだ。
一度の会議で大人のロジックに押し込まれたくらいで、また15年前みたいに「やっぱり勝てない」と絶望して諦めるのか?
……冗談じゃない。
冷気が刺す会議室。
誰もが「この若手官僚も折れたか」と静観する沈黙の中、俺は深呼吸をし、前髪を上げた額を真っ直ぐに持ち上げた。
誰にも聞こえないくらい小さな、けれど自分自身の骨に響くような声で呟く。
「……俺も、目指すよ」
一発で制度を変えられなくてもいい。
今日がダメなら、明日また資料を作り直して通す。
一度蹴られたら、何度でも切り口を変えて提案し直す。
何ヶ月、何年かかったっていい。
俺から「諦める」という選択肢を消し去るんだ。
「……山田君? 聞いているのかね?」
高野連の幹部が眉をひそめてこちらを見る。俺は腹の底から声を絞り出し、きっぱりと言い放った。
「失礼いたしました。今ご指摘いただいた懸念点、すべて持ち帰って精査いたします。次回までに、現場の負担を抑えた別の代替案を提出します」
幹部たちが一瞬、呆気にとられたように顔を見合わせた。
——それから、数ヶ月が経った。
「開催期間が足りない」「予算がない」「前例がない」。高野連の実務者たちが繰り出してきた何十通もの拒絶の壁に対し、俺はその都度、徹夜で修正案を叩きつけて粘り強く穴を埋め続けていた。
相変わらず相手は頑固で、一向に頭を縦に振ろうとはしない。だが、今の俺は以前の俺じゃない。
「次回、その課題に対するまた別の解決策を提示します!」
深夜のスポーツ庁の執務室。書類の山と冷めた缶コーヒーの横で、俺はPCの画面に向かってニヤリと笑った。
折れない。何度だって、叩き潰しにいってやる。
ふと、あの夏の記憶が蘇る。
俺たちの高校が完敗し、甲子園から姿を消した準々決勝。
あの試合、俺は胸の奥で一度も「負けろ」とは願っていなかった。……隣にいた田村も、きっとそうだ。
相手投手の一条選手は、それほどまでに圧倒的な「ホンモノ」だった。マウンドに立つ彼の前にあっては、レギュラーも補欠も、歓声をあげる観客すらも関係ない。すべての人間が、等しく打ち伏せられる絶対的な敗者だった。
——そして今日。
何度目かになる高野連との実務者会議。会議中だというのに、部屋の巨大プロジェクターにはニュース番組のテレビ中継が映し出されていた。長官の意向で「世論の動向を確認する」という名目のもと、つけっ放しにされていた画面だ。
映し出されていたのは、私服姿の一条選手だった。
激しいシーズンを終え、どこかリラックスした表情でインタビューに応じている。
15年の歳月を経て、一条選手は日本を代表するどころか、名実ともに世界一の野球選手となっていた。
投げても世界一。打っても世界一。今後、彼以上の選手が野球界に現れることは二度とないだろうと言われる、さながら「野球の化身」そのもの。
画面の中のインタビュアーが、少し緊張した面持ちでマイクを向けた。
『一条選手、昨今日本では、高校野球における部員の出場機会均等化や、補欠問題が大きな話題となっていますが……これについてどう思われますか?』
会議室の空気がピタリと止まった。
スポーツ庁の幹部も、高野連の頑固な実務者たちも、そして俺も、息を呑んでスクリーンを見つめた。
圧倒的な「光」の頂点に君臨する、ホンモノ中のホンモノ。諦めの良い悪いじゃない。壁にぶつかっているところすら見たこともない男。
野球界に影響力があり過ぎる。この男が言う方向に世論は大きく動くだろう。
そんな男が、この制度問題に対して一体どんな見解を語るのか——。
一条が、無邪気な少年のように首を少し傾げ、口を開いた。
「ああ、それ僕、前から思ってたんですよね。なんで野球って、9人じゃなきゃいけないのかなって」
……え?
「部員が50人いるなら、50人全員でグラウンドを守ればいいじゃないですか。50人全員で打順を回して。その方がみんなでボール追いかけられて楽しそうだし、見る方も面白いですよね。子どもたちだって、全員試合に出られた方が絶対に嬉しいじゃないですか」
『……え、えーと、それは……ルールの根本を……』
動揺するインタビュアーをよそに、一条は心底不思議そうに、爽やかな笑顔で付け加えた。
「だって、野球ってグラウンドでみんなでやるのが一番楽しいじゃないですか」
……?
…………?
会議室どころか、テレビを見つめる日本中の野球人の頭の上に、巨大な「?」が浮かんだ瞬間だった。
常識も、9人のポジション争いも、高野連の歴史も、制度の摩擦も。
そういえば、甲子園優勝後のインタビューで「明日はもっと強い相手とやりたい」って言ってた異常者だったな……。
天才のあまりにも純粋で規格外な「そもそも論」の前に、すべての議論がサラサラと音を立てて崩れ去っていく感覚がした。
わずか一ヶ月後。
高野連を含む、日本国内のすべてのアマチュア野球のルールは電撃的に改正された。
あれほど頑固だった高野連の幹部たちは、まるで憑き物が落ちたような顔でインタビューに答え、口々にこう語っていた。
「あの、一条選手が言うのですから……歴史の変わる時なのでしょう」
新ルールの下で始まった新たな野球。
通称「一条ルール」。
それは、各校の野球部に所属する選手「全員」が同時にグラウンドに立つという、前代未聞のスポーツだった。
広い外野には何十人もの部員が隙間なくひしめき合い、打順も五十人いるチームなら、一巡するまでに五十打席を要する。
やがて、各高校ごとに妙な個性が生まれ始めていた。
とにかく大人数で守備の穴を塞ぐチーム。
あえて登録枠を削り、少数精鋭で打順の回転速度を重視するチーム。
日本の野球は一変した。
一人の伝説的な天才が漏らした、たった一言の「そもそも論」によって。
——八月、夏の甲子園。
スポーツ庁の執務室のテレビに映し出されていたのは、かつて俺が泥臭い制度論の中で目指していた形とは、どこか大きくかけ離れた、しかし確実に「補欠が一人も存在しない」不思議な光景だった。
かつて俺たちが地獄の底で呪いを吐いていた、あのアルプススタンドの「珍妙なダンス」は跡形もなく消え去っていた。
代わりに画面に映るのは、次のイニングで守備に就くためにベンチから溢れかえり、グラウンドの脇でひしめき合いながら出番を待つ部員たちの姿だった。
俺は、その中継をデスクの前で茫然と見つめていた。
手元のデスクには、俺が15年間の執念と命を削って作成した、未完の『部員出場機会均等化(複数チーム制)運用指針』の膨大な資料が、分厚いファイルの山となって積まれている。
ブッ、とデスクの上のスマホが震えた。
画面を見ると、田村からのLINEだった。
『おい山田、ウチの少年野球チームも20人外野に置くようにしたら、フライが飛んでくるたびに全員でお見合いして落としまくってるわ。一条のせいで野球はメチャクチャだよ(笑)』
添えられた動画には、外野で20人の子供たちが一斉に同じ白球を追いかけ、お互いにぶつかって転びながらも、楽しそうに笑い転げている姿が映っていた。
「…………」
俺の喉の奥から、乾いた吐息が漏れた。
そして——数年ぶりに、腹の底からこみ上げてくる心からの苦笑いを浮かべた。
「……まあ、あんなところで踊らされてるよりは、何百倍もマシか」
俺は、次に見せるはずだった分厚い改革案のファイルを掴むと、ためらいもなく足元のゴミ箱へ放り込んだ。
ドサリ、と重い音を立てて落ちる15年間の怨念の塊。
俺は冷めきった缶コーヒーをぐっと飲み干し、前髪をもう一度指先で軽く持ち上げた。
窓の外には、眩しいほどの夏の青空がどこまでも広がっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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