第75話:西方の封鎖
ヴェーバー伯領の城門をくぐった瞬間、リオは足を止めた。
「……嘘だろ」
市場広場だ。西方随一の穀倉地帯を抱える豊かな領のはずが、露店の台に商品がない。荷車が一台も停まっていない。石畳の上を乾いた風だけが吹き抜けていく。
リオは商人だ。市場を見れば、その街の血の巡りがわかる。
ここは――止まっている。
「お客さん、今日は市が立たないよ」
声をかけてきた老婆の顔色が悪い。頬がこけている。飢えてはいないが、余裕もない。物流が詰まった街の典型的な顔だ。
ミチカの領を初めて見た時と同じ。
いや、もっと悪い。あの時は倉庫に穀物が眠っていた。ここは――そもそも物が入ってきていない。
「ヴェーバー伯にお目通り願いたい。自由都市連盟の公使だ」
リオは懐から連盟公使証を取り出した。
―――
ヴェーバー伯ゲオルクは、五十を過ぎた温厚な男だった。
執務室に通されたリオを迎えた伯爵の目には、怒りでも敵意でもなく、疲弊があった。
「連盟の公使殿か。……来てくれたことには感謝する。だが、わしには会議に出る力がない」
「力がない、ですか」
リオは椅子に腰を下ろしながら、部屋を見回した。調度品は質素だが手入れが行き届いている。横領する領主の部屋じゃない。壁に掛かった地図には、西方街道沿いに赤い印がいくつも打たれていた。
「率直に聞きます。不参加の理由は外敵への恐怖じゃないですよね」
ゲオルクの眉が動いた。
「……なぜそう思う」
「外敵が怖いなら、むしろ会議に出て連盟の防衛条項に乗るのが合理的だ。出ない理由は別にある」
沈黙。
リオは地図の赤い印を指さした。
「この印、全部街道の要衝ですね。関所、橋、峠。ここを押さえられたら、ヴェーバー伯領は外から完全に遮断される」
ゲオルクが目を閉じた。
「……三週間前だ。街道の四箇所を同時に押さえられた。正体不明の武装集団――いや、正体は分かっておる。第二宰相派の残党だ。奴らは通商路を人質にして、こう言った」
伯爵の声が低くなった。
「『諸侯会議に出席すれば、街道を永久に閉鎖する。領民を飢えさせたくなければ、黙って屋敷にいろ』と」
リオの頭の中で、パズルのピースがはまった。
離反じゃない。脅迫だ。
「ランツ男爵も同じですか」
「同じだ。ランツの方が被害は深刻でな。元々備蓄が少ない。一週間持つかどうか」
リオは立ち上がった。
「伯爵。俺に三十分ください。一つ確認したいことがある」
―――
同じ頃。王都の仮本営。
ミチカは寝台の上で、ユリウスが差し出した二通の書状を見つめていた。
見つめる、というのは正確ではない。体を起こす力がないので、ユリウスが書状を顔の横に並べてくれたのだ。
体力値、十一。
視界はぼやけているが、文字は読める。
「ユリウス」
「はい」
「この二通、並べて」
ユリウスが無言で二通を隣り合わせに置いた。ヴェーバー伯とランツ男爵の不参加通告書。
ミチカの目が細くなった。
「……同じだ」
「同じ、とは?」
「筆跡。封蝋。書式の改行位置まで同じ。別の領主が別々に書いた書状で、ここまで一致することはあり得ない」
ユリウスが息を呑んだ。
彼も気づいていたのだ。ただ、病床の盟主に余計な負荷をかけまいとしていた。
「……視察、ね。寝たまま視察とは恐れ入る」
「実務です」
ミチカの唇がかすかに動いた。
「この二通は、ヴェーバー伯とランツ男爵が書いたものじゃない。誰かが同一の書式で作成し、二人の名前だけ差し替えた。つまり――」
「組織的な脅迫。不参加を強制された」
「そう。定足数を崩すための工作。残党はまだ動いている」
ユリウスが顎に手を当てた。
「しかし、どうやって二人の領主を同時に黙らせた? 西方は王都から離れている。残党の兵力で二領を同時に制圧するのは――」
「物流を止めたのよ」
ミチカの声は小さかったが、確信に満ちていた。
「西方街道の要衝を押さえれば、兵力は少なくて済む。領民を飢えさせるぞと脅せば、領主は動けない。これ、うちの領で御用商会がやったのと同じ構造」
飢饉の正体は流通詰まり。
何度目だろう、この構造を見るのは。スケールが変わっても、本質は変わらない。
「……ユリウス、この書状は保全して。原本のまま。証拠になる」
「了解。だが、証拠があっても定足数が足りなければ――」
「わかってる」
ミチカは目を閉じた。
八名必要。確定六名。あと二名。
その二名が、脅迫で押さえ込まれている。
―――
伝書鳩が届いたのは、その日の夕刻だった。
カイからだ。
文面は極端に短い。カイらしい。
『密約書の写し確保。残党指揮官と辺境伯、城外の天幕で密会。内容三点。一、西方街道封鎖の継続指示。二、諸侯会議の定足数妨害指示。三、王都占領後の通商独占権を辺境伯に約束。ただし辺境伯側に不信の兆候あり。独占権の履行を疑っている。以上』
ユリウスが読み上げ終えた時、ミチカの目が開いていた。
「……来た」
小さな声。でも、確かに笑っていた。
「キター、って言いたいところだけど体力が足りない……」
「無理しないでください、と言いたいところですが、あなたは聞かないでしょうね」
「聞かない。――整理する」
ミチカの頭が回り始めた。体は動かない。でも頭は動く。
残党が西方街道を封鎖して、西方領主の不参加を強制した。同時に辺境伯には通商独占権を餌にして軍事協力させた。でも辺境伯は気づき始めている。その約束が空手形だと。
二つの戦線。外の敵と、内の妨害。
でも――繋がっている。
残党が両方を動かしている。つまり、残党を潰せば両方が崩れる。
「ユリウス」
「はい」
「口述する。二つ命令を出す。書いて」
ユリウスが羽ペンを取った。
「一つ目。リオへ」
ミチカの声は途切れ途切れだったが、論理は明晰だった。
「西方街道の残党拠点を正面から攻撃する必要はない。連盟の物流網を使って迂回路を設定して。ヴェーバー伯に伝えて――『諸侯会議に参加すれば、連盟物流網による物資輸送を即日開始する。街道封鎖は無力化できる』と。脅迫の根拠を消せば、伯爵は動ける」
ユリウスのペンが走る。
「二つ目。ユリウス、あなたへ」
「私に?」
「カイが確保した密約書を証拠として、残党による国家反逆――外敵との共謀による諸侯会議妨害――を、会議の正式議題に追加して。
これは単なる軍事的脅威じゃない。
王国の統治機構そのものへの攻撃。
議題に載せれば、参加を迷っている諸侯にとって『出席しなければ自分も共犯と見なされる』圧力になる」
ユリウスのペンが止まった。
「……なるほど。定足数の問題を、恐怖ではなく大義で解決する」
「恐怖で人を動かすのは残党と同じ。こっちは制度で動かす」
ミチカの目が、一瞬だけ強い光を帯びた。
「統一憲章に広域交通保障の条項を入れる。どの領主も、街道封鎖で脅迫されない仕組みを。今回の件は、その条項の直接的な根拠になる――」
言葉が途切れた。
「ミチカ?」
ユリウスが顔を覗き込んだ。
ミチカの目が閉じかけていた。
――あ、まずい。
ステータスオープン。
体力値の数字が見える。
十一だったはずが――九。
一桁だ。
「ユリウ……ス……命令は、以上……あとは……」
「ミチカ!」
扉の外から飛び込んできたのはミナだった。
「ミチカ様っ!」
ミナがミチカの手を握った。小さな手が、さらに小さな手を包む。
ミチカの唇がかすかに動いた。
「……あとは、任せ……」
意識が途切れた。
―――
静寂が落ちた。
ユリウスは羽ペンを置き、書き上げた二通の命令書を見下ろした。
インクはまだ乾いていない。
「……口述は完了しています。命令は有効だ」
声が平坦だったのは、感情を押し殺しているからだ。
ミナがミチカの額に手を当てた。熱い。
「体力値が……九って……」
「一桁です。前回一桁に落ちた時は、数日意識が戻らなかった」
ユリウスは立ち上がった。
「ミナ。ミチカの傍にいてください。あなたがいると、ストレス値が下がる。それは数字で証明されている」
ミナの目に涙が浮かんだが、頷いた。
「……はい。ここにいます。ずっと」
ユリウスは二通の命令書を手に、部屋を出た。
廊下でレオンと目が合った。
レオンは何も聞かなかった。ユリウスの顔を見れば分かった。
「盟主は」
「倒れた。体力値九。意識なし」
レオンの拳が握りしめられた。
「――命令は」
「出た。リオへの迂回物流指示と、残党弾劾の議題追加。盟主が意識を失う直前に口述で完了している」
レオンは一度だけ目を閉じ、開いた。
「なら、俺たちがやる」
「ええ。そのために制度がある。盟主一人に依存しない統治――それがミチカの作った仕組みだ」
ユリウスは命令書の一通をレオンに渡した。
「これをリオに届けてください。伝書鳩では細かいニュアンスが伝わらない。信頼できる急使を」
「了解した」
レオンが踵を返す。
その背中にユリウスが声をかけた。
「レオン。カイはまだ敵陣にいます。密約書の写しは確保したが、本人の帰還はまだ。リオの交渉とカイの帰還――二つが同時に動く。どちらかが欠ければ、定足数も弾劾も成立しない」
レオンは振り返らなかった。
「全部、間に合わせる」
短い言葉だけを残して、廊下を去った。
―――
仮本営の窓から見える空は、夕焼けに染まっていた。
ユリウスは机に向かい、諸侯会議の議題追加書を起草し始めた。
――残党による外敵共謀および諸侯会議妨害の件。
ペンを走らせながら、ミチカの最後の言葉が頭の中で繰り返された。
『恐怖で人を動かすのは残党と同じ。こっちは制度で動かす』
十二歳の少女が、体力値九で意識を失う直前に吐いた言葉だ。
「……血筋でも武力でもなく、制度で天下を治める、か」
ペンが止まらない。
ミチカが目を覚ました時、この書類が完成していなければ話にならない。
いや――ミチカが目を覚まさなくても、動く仕組みを作る。それがこの連盟の存在理由だ。
隣の部屋から、ミナの小さな声が聞こえた。
「ミチカ様……起きてくださいね。みんな、待ってますから」
ユリウスはペンを握り直した。
リオは西方で交渉を続けている。カイは敵陣から帰還していない。ミチカは意識がない。
それでも――命令は生きている。制度は動いている。
定足数八名。確定六名。残り二名。
この二つの席を埋めなければ、統一憲章は成立しない。
そしてミチカの命が、また一つ削られた。




