第36話:領民顧問祭司
蝋燭が三本目に代わった。
窓の外はまだ暗い。羊皮紙の上をペンが走る音と、ユリウスが舌打ちする音だけが執務室を満たしている。
「……ダメだ。この書き方だと教会法第四十二条の『聖職者の世俗的拘束禁止』に引っかかる」
ユリウスが羽根ペンを置いて、額を押さえた。
「顧問祭司を"世俗職"として定義するなら、聖職者としての身分には一切触れない。それが大前提だ。だが条文で『祭司』の語を使った瞬間、教会側は宗教職への干渉だと主張できる」
うん、わかってる。
わかってるけど、ここが一番の急所なんだよね。
私は机の上に広げた三枚の羊皮紙を睨んだ。一枚目が教会法の抜粋。二枚目が王国法の関連条文。三枚目が、今まさに書いている自治領条例の草案。
「名称を変えましょう。『祭司』ではなく『顧問』。肩書は『領民顧問』。ただし備考欄に『宗教的知見を有する者を優先的に任用する』と付記する」
「……なるほど。条文上は純粋な世俗職で、実態として聖職経験者が就く。教会法の管轄外だと主張する根拠になる」
「そういうことです」
ユリウスの目が光った。疲労の中に、知的な獰猛さが滲む。
「いいね。じゃあ第三条、任用要件を詰めるぞ。『領民の推薦を受けた者』『領主の任命を受けた者』『自治領内に六ヶ月以上居住した者』――この三要件を満たせば、聖職の有無は問わない」
「追加。『任用期間中、当該顧問は自治領条例に基づく身分保障を受け、外部機関による一方的な身分変更の効力は自治領内において停止される』」
ペンが止まった。
ユリウスが私を見た。
「……お前、それ教会の聖職剥奪を実質無効化する条文だぞ」
「自治領内に限定してます。教会法を否定してるわけじゃない。ただ、うちの領地ではうちの条例が優先される。それだけ」
「それだけ、ね」
皮肉な笑みが浮かんだ。でもペンは動き始めた。
教会法と王国法の二重構造。ユリウスが以前から指摘していたこの隙間を、世俗条例という第三の層で埋める。
――言ってみれば、法律のサンドイッチ。
いや、レイヤー構造? ネットワークのOSI参照モデル的な?
……深夜テンションで例えがおかしくなってきた。
コンコン、と控えめなノック。
「ミチカ様……お夜食をお持ちしました」
ミナだ。
扉が開いて、湯気の立つスープと黒パンが載った盆が差し入れられた。
「ミナ、ありがとう。置いといて」
「はい……あの」
ミナが私の顔を覗き込んで、小さく息を呑んだ。
「ミチカ様、お目の下……すごい隈です……」
「実務です」
「実務で隈はできません……!」
いや、できるんだよ。現代日本でもデスマーチって言葉があってだね。
「スープ、冷めないうちに飲んでくださいね。ユリウス様の分もあります」
「……気が利くな。ありがたくいただく」
ユリウスが珍しく素直に礼を言った。よほど腹が減っていたらしい。
ミナが退室する間際、振り返って小声で言った。
「……無理しすぎないでください。ミチカ様が倒れたら、みんな困りますから」
扉が閉まった。
スープを一口啜る。温かい。根菜の甘みが沁みた。
「……さ、続きやりましょう。あと四条」
「ああ。夜明けまでに仕上げる」
―――
朝靄が広場を白く包んでいた。
早朝五時。領民への告知は前夜のうちにレオンの警備兵が回覧板方式で済ませてあった。それでも集まった人数は予想以上だ。
広場の中央に仮設の演壇。その上に、一晩かけて仕上げた条例の正本が置かれている。
「領民顧問祭司条例――正式名称、自治領領民顧問任用条例。全十二条」
私の声が朝の空気を裂いた。
条文の読み上げは簡潔にした。要点は三つ。
一、自治領は「領民顧問」の職を新設する。
二、領民の推薦と領主の任命により就任し、宗教的知見を有する者を優先する。
三、顧問は自治領条例による身分保障を受け、外部機関による一方的な身分変更は領内で効力を持たない。
――つまり、マティアス司祭が教会から聖職を剥がされても、うちの領地では「領民顧問」として守られる。
「第一号領民顧問として、マティアス殿を任命します」
マティアスが演壇に上がった。白髪交じりの温厚な老司祭。その手が、かすかに震えていた。
「……不肖の身ではありますが、この任をお受けいたします」
拍手が起きた。
最初はまばらだった。でもすぐに広がって、朝靄の中に温かい音が満ちた。
――領民信用値、微増を確認。
ステータスの数字がちらりと見えた。うん、悪くない。
―――
「宿舎は東街区の旧商館。食事は朝昼晩の三食、領の標準配給に加えて客人用の副菜を一品追加。あ、ワインは出すな。水と麦茶だけだ」
リオが帳面を片手に、てきぱきと指示を飛ばしていた。
「なんでワイン抜き?」
「酔った勢いで失言させるのは簡単だけどね、逆に『接待で懐柔された』って口実を与えちまう。質素だけど不足なし。これが一番厄介な接待なんだよ」
さすが商人脳。おもてなしの本質はコスパじゃなくて戦略だってことをよく分かってる。
後任司祭ベネディクト一行の宿舎と食事の手配。これもリオの領域だ。
「護衛八名分の寝床も確保済み。ただし武器は宿舎内に限定。領内での帯剣はうちの条例で制限できる」
「完璧です。ありがとう、リオ」
「お安い御用。……ま、本番はこれからだけどね」
―――
領境の街道に、砂埃が立った。
馬車二台と騎馬の護衛。先頭の馬車から降りたのは、四十がらみの痩身の男だった。
後任司祭ベネディクト。
――本家当主の姻族。聖職者の皮を被った政治工作員。
カイの事前調査で素性は把握済みだ。
ベネディクトの手には、条例の写しが握られていた。レオンの警備兵が領境で渡したものだ。
「……これは」
条文を読むベネディクトの表情が、みるみる強張っていく。
入領拒否ではない。堂々と受け入れる。ただし、自治領の条例に従ってもらう。
――拒否するより怖いでしょ? だって、入った瞬間にうちのルールが適用されるんだから。
「ようこそ、自治領へ。ベネディクト殿」
私は演壇ではなく、街道脇の出迎え所で彼を待っていた。フォーマルだけどカジュアル。格式を与えすぎず、無礼にもならない絶妙なライン。
ベネディクトの後ろから、見覚えのある顔が降りてきた。
エルヴィン。
追放されたはずの元家臣。その目に、隠しきれない敵意が燃えている。
「この条例は無効だ」
エルヴィンが一歩前に出た。声が街道に響く。周囲には領民も、護衛も、うちの警備兵もいる。公の場だ。
「自治領の世俗条例で教会の人事権を制限するなど、教会法への明白な侵害である。管区本部はこれを認めない」
来た。
予想通りの第一手。
私はユリウスに目配せした。
ユリウスが一歩前に出る。懐から羊皮紙を取り出し――いや、もう暗記してるだろうに、わざわざ紙を広げるのは演出だ。
「教会法第四十二条、聖職者の世俗的拘束禁止。あなたの主張の根拠はこれですね?」
「そうだ。自治領ごときの条例が――」
「第四十二条の適用範囲は"聖職者の聖務遂行に対する世俗権力の拘束"です。当条例が定める『領民顧問』は世俗職であり、聖職者の聖務には一切言及していない。聖職の剥奪も付与も、当条例の対象外です」
淡々と、しかし一語一語が刃のように正確だった。
「つまり、教会がマティアス殿の聖職を剥奪することは自由です。どうぞご勝手に。ただし、自治領が自治領の条例で任命した世俗職まで教会が取り消す権限は――教会法のどこにも、ない」
沈黙。
エルヴィンの顔が赤くなった。
「詭弁だ! 名称を変えただけで実質は――」
「実質の話をしましょうか」
ユリウスの声が一段低くなった。
「教会法第六条。聖職者の任命は管区本部の権限。では問います。この自治領において、司教職は現在誰が務めていますか?」
エルヴィンが口を開いて――閉じた。
答えられない。なぜなら、空席だからだ。管区本部が意図的に地方司教を置かず、上位権限で直接介入できる構造を維持している。
「司教不在の管区で、本部が直接人事を行うのは教会法第六条の例外規定に基づく緊急措置です。
しかし緊急措置には期限がある。
第六条第三項、『六ヶ月以内に正規の司教を任命しなければ、当該管区の人事権は一時的に凍結される』――管区本部が司教職を何年空席にしているか、数えてみますか?
」
ユリウスの視線がエルヴィンを射抜いた。
「教会法を盾にするなら、まず教会法を守ってからにしていただきたい」
周囲がどよめいた。領民だけじゃない。ベネディクトの護衛たちまで、互いに顔を見合わせている。
エルヴィンの拳が震えていた。
公の場で、完膚なきまでに論破された。
「……覚えておけ」
それだけ吐き捨てて、エルヴィンは馬車に戻った。
ベネディクトは終始無言だった。ただ、条例の写しを丁寧に畳んで懐にしまう動作だけが、やけに慎重に見えた。
――動揺してる。入領を拒否されると思っていたんだ。拒否されれば「自治領は教会を排斥している」と管区本部に報告できた。でも歓迎された。条例で守られた。攻撃の口実を、一つ潰された。
「宿舎へご案内します。長旅でお疲れでしょう」
リオが完璧な笑顔で前に出た。接待戦略、始動。
―――
日が傾き始めた頃。
執務室に、影のように静かな足音。
「報告」
カイだった。
「ベネディクトの荷駄。確認した」
いつも通り、最小限の言葉。でも今日は、その短い言葉の後ろに緊張が滲んでいた。
「封書が一通。管区本部の公印」
「後任司祭の任命状でしょう? それは想定内――」
「もう一通ある」
私の言葉を遮って、カイが続けた。
「宛先が違う。自治領宛じゃない」
ユリウスが顔を上げた。
「……どこ宛だ」
「王都。第二宰相派」
空気が凍った。
管区本部の公印が押された封書。宛先が、教会の管轄ではなく王都の政治派閥。
教会強硬派が、第二宰相派と直接連絡を取っている。
「……繋がった」
ユリウスが呟いた。
本家当主。教会強硬派。王都第二宰相派。
三つの点が、一本の線になった。
「開封は?」
「していない。封蝋は無傷」
カイの報告は正確だった。
私とユリウスは顔を見合わせた。
開けるべきか。中身を確認すれば、三者の連携の具体的な内容がわかる。でも――
「開封した瞬間、こちらが信書の秘密を侵害したことになる。教会法でも王国法でも、それは重罪だ」
ユリウスの声は冷静だったけれど、目は鋭かった。
「でも保管しておけば、然るべきタイミングで――」
「正式な開封手続きを経て、公的な証拠にできる」
私たちの意見が、珍しく割れなかった。
いや――割れたのは、その先だった。
「問題は、"然るべきタイミング"がいつか、だ」
ユリウスが腕を組んだ。
「早すぎれば証拠が足りない。遅すぎれば、向こうが先に動く」
「……」
判断が、まだつかない。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。マティアスが――いや、今日からは「領民顧問マティアス」が鳴らす鐘だ。
制度という盾は、今日ひとつ完成した。
でも、条文という剣は――まだ、鞘の中にある。
鞘の中の剣が、かすかに震えた気がした。
条文という刃を抜く日が、近い。




