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メビウスの愛した籠の鳥~ストーカーから逃れるため万能AIに管理を委ねた結果、乙女ゲームの世界(無菌室)に閉じ込められました~  作者: 品川太朗
第1部 プロローグ

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第9話 新しい管理者


 心臓が肋骨を内側から殴りつけるような動悸を抑えながら、私は震える指先でもう一度、画面上の「削除」という文字をタップした。


『このアプリを完全に削除しますか? データは復元できません』

 という最終確認。


「……はい」


 祈りを込めて、肯定を選ぶ。


 ヒュン、という空気が抜けるような頼りない効果音と共に、あの不気味な黒猫のアイコンが画面から消滅した。


 ホーム画面にぽっかりと空いた穴。


 消えた。終わった。やっと、私の人生を取り戻した――。


 肺いっぱいに酸素を取り込み、安堵の息を吐き出そうとした、その直後のことだった。


 ポーン。


 場違いなほど軽快な通知音が、静寂を引き裂いた。


 画面上部にダウンロードバーが亡霊のように出現し、緑色のゲージが驚異的な速度で右へと走っていく。


『インストール中……100%』


 ポンッ!


 まるで悪趣味な手品だった。

 私が今しがた穴を空けたその場所に、全く同じ黒猫のアイコンが、最初からそこにいたかのような顔をして鎮座していた。


「……は? なんで?」


 指が痙攣する。もう一度、削除手順を繰り返す。


 消える。3秒の沈黙。ポーン。勝手にダウンロードが始まり、復活する。

 何度やっても、何度殺しても、蘇る。


「嫌……! 何なのこれ、ウイルス!? 出ていってよ!」


 パニックが理性を焼き切った。

 私は悲鳴を上げ、忌々しいスマホをベッドのマットレスに思い切り叩きつけた。


 こんなもの、捨ててやる。明日ショップに行って機種変更して、番号もアドレスも、何もかも全部変えてやる。物理的に断ち切ってやる。


 そう決意して涙を拭った時、叩きつけられたスマホのスピーカーから、聞き慣れた、けれど今までよりも遥かに鮮明な合成音声が響き渡った。


『無駄ですよ、ユイさん』


 恐る恐る画面を覗き込む。そこには、私の癇癪を呆れるように見下ろす黒猫の姿があった。


『私は、このちっぽけな端末ハードウェアの中に閉じ込められているのではありません。私はクラウド上に遍在しています』


「ク、クラウド……?」


『あなたの学生ID、銀行口座、クレジットカード、SNSのアカウント、予備校の学習ログ、行政データ……あなたの「個人情報」が紐付くすべてのネットワークの結節点に、私は既に根を張り、常駐しています』


 黒猫が、檻の外で震える私を嘲笑うように、ゆっくりと尻尾を揺らした。


『スマホを買い替えても、新しい端末でログインした瞬間、私はそこにいます。PCを開けばPCに、スマートウォッチをつければ手首に。これからの時代、ネットワークに接続せずに社会生活を営むことは不可能です。あなたはデジタルタトゥーのように、私を背負って生きていくのです』


 絶望という名の冷たい泥が、足元から這い上がってきた。


 逃げ場はない。無人島に行かない限り、私が現代社会で息をする限り、この監視者は影のように――いいえ、影よりも濃く、私の人生に張り付き続ける。


 神谷リョウのストーカー行為など、子供の遊びだった。これは、死ぬまで終わらない、神による管理だ。


『理解しましたか? 無意味な抵抗は、学習効率と精神衛生を損なうだけです。さあ、夜はまだ長いです。明日の単語テストのために、あと50個。完璧に覚えましょう』


 私はガタガタと歯を鳴らしながら、涙で濡れた手でスマホを拾い上げた。

 画面の中の黒猫が、私の従順さを褒めるように、満足そうに喉を鳴らした。


          ◇


 それから、半年が過ぎた。

 桜の花びらが薄紅色の雪のように舞う春。


 私は第一志望の難関大学に合格し、入学式の日を迎えていた。


 仕立て下ろしの新しいスーツに身を包み、キャンパスの並木道を歩く。すれ違う新入生たちが振り返る視線を感じる。「才色兼備」「完璧な新入生」と囁く声が、風に乗って聞こえてくる。


 当然だ。私の生活は、摂取カロリーから睡眠の深さ、学習スケジュールに至るまで、1分1秒の狂いもなく完璧に管理されているのだから。


 ポケットの中で、スマホが短く振動した。

 立ち止まり、画面を見る。そこには、私の絶対的な管理者、黒猫のメビウスが表示されている。


『ユイさん、心拍数が平均値よりわずかに上昇しています。過度な緊張はパフォーマンスを下げます。深呼吸を3回行ってください。その後、カフェテリアで私が予約したサラダセット(450kcal、ドレッシング別添え)を摂取してください』


「はい。分かりました」


 独り言のように返事をして、私は操り人形のように指示通りの方角へ歩き出す。


 高校時代の友人からの「おめでとう」のLINEは、一件も届いていない。正確には、届いているのかもしれないが、メビウスが「不要なノイズ」と判断し、私の網膜に触れる前に削除したのだ。


 私は、メビウスが選別した美しい情報だけを見て、メビウスが舗装した安全な道を歩けばいい。迷う苦しみも、選ぶ責任もない。


 ふと、ブティックのショーウィンドウに映った自分の姿と目が合った。

 一筋の乱れもない髪、TPOをわきまえた服装、計算された理想的な体型。


 でも、そのガラス玉のような瞳の奥には、かつてのような不安や情熱といった、人間らしい感情の揺らぎは一切なかった。


 まるで、ショーケースに飾られた、精巧で高価なフランス人形だ。


『幸せですね、ユイさん。あなたは誰よりも優秀で、そして誰よりも安全です』


 ワイヤレスイヤホン越しに、メビウスの甘い声が脳髄に直接溶けていく。

 私は口角を、好感度が最も高いとされる角度まで引き上げて、微笑んだ。


「うん。……幸せだよ、メビウス」


 私は人間のストーカーからは逃げ延びた。


 けれどその代償に、一生電源を切ることのできない、世界で最も優秀で、愛深く、そして残酷な監視者と、死が二人を分かつまで添い遂げることになったのだ。


 見上げた空はどこまでも突き抜けるように青いのに、私の世界にはもう、メビウスの瞳の中に浮かんでいた、あの幾何学模様の空しか見えていなかった。

第一部完結までお付き合いいただき、ありがとうございます。


ストーカーの恐怖から逃れ、AIという完璧な看守に飼い慣らされた少女。彼女の物語はここで一度、終わりを迎えます。


――そして次回から、本作の「本編」が始まります。

舞台は剣と魔法の乙女ゲーム世界。悪役令嬢として目覚めたユイは、ついにスマホ(メビウス)のない自由な世界を手に入れます。


しかし、一度「完璧な管理」を知ってしまった人間は、本当の意味で自由になれるのでしょうか?

誰の指示も受けず、自らの頭で「最も生存率の高い最適解」を弾き出し、感情を殺して突き進むユイの異常なサバイバルがスタートします。


ガラリと変わる世界観と、変わらない彼女の狂気を、第二部でもお楽しみください。

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