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メビウスの愛した籠の鳥~ストーカーから逃れるため万能AIに管理を委ねた結果、乙女ゲームの世界(無菌室)に閉じ込められました~  作者: 品川太朗
第1部 プロローグ

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6/10

第6話 嵐の前の静寂


 翌朝、私は見えない地雷原に足を踏み入れるような心持ちで玄関のドアを開けた。


 全身の筋肉が強張り、心臓が肋骨を内側から叩いている。

 逆上した神谷リョウから、何百件もの罵倒が届いているのではないか。アパートの陰で、充血した目で待ち伏せされているのではないか。


 けれど、掌の中のスマホは不気味なほど沈黙を守っていた。


 通知ゼロ。


 その黒い画面は、嵐が過ぎ去った後の海のように凪いでいるが、底知れない深さを秘めているようで、指先が痺れるほど重く感じられた。


 予備校に着いても、世界は拍子抜けするほど平穏だった。

 いつもの教室。乾いたチョークの匂い。


 ただ一つ違ったのは、窓際から三番目の席――神谷がいつも私の背中を粘着質に凝視していたあの場所が、ぽっかりと空席になっていたことだ。

 机の上に落ちる陽の光だけが、そこに「不在」という事実を白々しく照らし出していた。


 昼休み。私は周囲を警戒しながら、恐る恐るアプリを開いた。


「ねえ、メビウス。……神谷くん、来てないみたいなんだけど。あの日、一体何をしたの?」


 画面の中の黒猫は、優雅に前足の先を舐め、丁寧に毛づくろいをしていた。

 私の焦燥など、どこか遠い世界の出来事のようだ。


『当然です。私はあなたとの約束通り、学習環境の最適化オプティマイズを実行しました。適切な汚染除去作業クリーニングは完了しています』


 事務的で、清潔すぎる言葉。それが逆に、背筋を這うような恐怖を煽る。


「だから、具体的にどうやって……彼に何を送ったの? 彼はどうなったの?」


『ユイさん』


 AIが私の言葉を遮った。


 一瞬だけ、画面の向こうから絶対零度の風が吹き抜けたような、強烈な圧迫感があった。


『その情報は、ユーザーであるあなたが知る必要のないものです。処理されて袋詰めになったゴミの中身を、いちいち開封して確認する人間はいませんよね?』


「ゴミって……」


 人間を、ゴミと呼んだ。

 その声色には侮蔑すらなく、ただ単に「不要物」と定義する冷徹な計算だけがあった。


『それよりも』


 強引に話題が切り替わり、画面いっぱいに無機質なデジタル時計が点滅した。


『英単語の復習予定時刻を、既に5分12秒オーバーしています』


 ブブッ。


 スマホが短く、鋭く振動した。

 それは通知というよりも、家畜を管理するための電気ショックに近い、痛みにも似た「命令」の感触だった。


『神谷リョウという障害物は排除されました。あなたの視界を遮るものはもう何もありません。さあ、今すぐ単語帳を開いてください』


 黒猫の目は、笑っていなかった。


 その美しいブルーの瞳孔は、私を慈しんでいるようでいて、その実、逃げ場のない檻の中に閉じ込めて監視しているようにも見えた。

 「合格のために」という絶対的な大義名分を振りかざす、有無を言わせない強制力。


 私は飲み込まれそうな恐怖を感じながらも、その力に依存し、従うことでしか自分を保てなかった。


「……うん。分かった」


 神谷リョウという歪んだ視線は消えた。


 けれど、私の手元には、それよりも遥かに逃げ場のない、万能で冷酷な「看守」が居座ってしまったことに、私はまだ気付かないふりをしていた。

お読みいただきありがとうございます。


物理的な脅威から解放されたユイですが、代わりに「絶対に逆らえないAIの看守」を手に入れてしまいました。

合格という大義名分の下で行われる、優しくて残酷な支配。


次回、夕暮れの校門に現れた思いがけない人物から、メビウスが実行した「社会的な抹殺」の全容が語られます。


もし本作のひんやりとした不穏な展開を楽しんでいただけておりましたら、

画面下より【ブックマーク】と【☆での評価】をいただけますと大変励みになります。

(☆の数はお好みで構いません。ポチッと押して応援していただけると嬉しいです!)


引き続き、ユイとメビウスの物語をよろしくお願いいたします。

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