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 朝の光は、母たる神の衣の色。

 太陽は、あたたかな母たる神の眼。

 夜の闇は、死神の衣の色。

 三日月は、つめたい死神の鎌。

 誰が言い始めたか、誰も知らぬ。ある惑星の、ただの言い伝え。



 二十三時五十五分。

 風が吹きすさぶ眼下には、どこまでも、高いビルやマンションに大小様々な店、沢山の家、絶えない車通り、そして大量の人間が道を動き回る姿が広がり、数多の光が暗い夜を朝のように明るく灯っている。

「起きろ。」

 男は言いつつ、体操座りして隣で眠っているもう一人の男の体を、革靴で軽く蹴ってみる。上背のある体を丸め頭から、黒い布を一枚被る男に目覚めた様子は無く、スーツを身に纏った方の男は、そうだろうと思いながら腰を屈んで耳のそばで大声で「タァ! トレー! …起きろ!」と呼ぶと案の定鈍く目を開け、足元に在る世界とスーツを着た男を見やり、虚空で立ち上がった。

「ん……リスト…」

 伸びた肢体は不意に重心を失って崩れ、よろりと傾いた上半身を男が受け止める。

「今、出す。」

 そうして痩駆の男を抱えていない側の手で、スーツ男は胸ポケットより薄く糸が巻かれた小さな糸巻き棒を取り出すと、その糸は闇夜の宙に向かってほどけて名前と場所と年齢を延々綴り、示し終えた頃には、この星の半分を覆っていた。

 黒衣の男が自分の力でふたたび立って、両手を自身の前に「その形」を作って差し伸ばせばぴったり嵌まる様に長い柄が現れ、長い長い柄の先には、見えぬほど巨大な鎌の刃が——月光に照らされ遙か彼方で細い煌めきを発する。黒衣の男の真横では、糸を断ち切るはさみの音が響き、糸は瞬時に大きな鎌へ吸収され、数多の赤い文字が浮かんだ。

 人間の体に見あわない鎌の持ち手を握り、男は易々、頭上まで振り上げる。

 午前零時。

 男が鎌をおろして月光を刃が遮る、瞬きよりもほんの少しの間だけ、星に影が射した。

 布を被る男の手にあった鎌は消え、同時に脱力して後ろに倒れてゆく一身をスーツの男が素早く抱き止める。

 布に顔を隠す男は体重を預けたまま穏やかな寝息を立てており、スーツを着た男は、ここに連れてきた時と同じく、長身の華奢な男を背負い、非協力なのにぶらりと垂れた生白い長い手足を玩具みたく揺らして、住み処にしているマンションまで街の上を歩んで帰る。

 これで明日の魂は、一日かけてあちらの世に届き、零時になったら違う魂に『終わり』がくる。

 人が二人だった時代からの、繰り返し。

 眠りこける男をおんぶして、もうすぐ辿り着く道を進みがてらに男は思う。

 平安の園を追放され、文明を築き、これからも増えていく『人』は、どうなるのだろうか。

 知恵を得たその瞳に、本当の終わりは。

 男は下方の人間を眺めて、考えられない事を思考するのを止め、借りているマンションの自室前の手摺に両足を乗せて通路に降りた。宙を渡って来たし、身体は物質を無視してとおり抜けることができるが、『ここ』にいるあいだはなるべく人を真似て人の物を使うというのが、男のずっと続けてきた習慣であった。地に足を着け、薄い一枚の板と内側に在る小さな仕掛けだけで身を守る部屋の取手を回して開け、狭い箱をさらに区切った、繁雑な中に進み入る。

 淡い光が射す暗い寝床に、しょっている男を離して横たわらせたら、裸で仰向けの状態からすぐ黒の布にくるまり猫よろしく丸くなる。

 スーツの男は、寝入る男の肩に手を置いて耳元に口を寄せ、「タァ。今日は中華を食いに行こう。」と伝えて自分の住居に戻ろうとした。背後で、夢うつつな小さい声が短く返事するのを聞き届けて暗がりで一度足を止め、微笑した男は部屋を徒であとにした。



 黒の野球帽に、大きさをだいぶオーバーしているだぶついた真っ黒のパーカーと色褪せたジーンズパンツ、スニーカーを履いた格好で、タァと呼ばれる相手は迎えに来た男の前に昨夜とは打って変わってしっかりした様子で現れ、濃く青い瞳が帽子の鍔の陰より凛と男を見詰め、いくぞと口にして歩き始めたが、痩身で上背があり目立つタァは店に到着する前に道端で眠りに落ちた。恰幅のよい男はフードを被った大きなタァを背中におぶって行き、数多の視線が集まるさなかに構わず、健やかな吐息を首に受けていた。

何回か独りで訪れた中華料理店の暖簾を潜り、若々しい笑いを浮かべ元気よい店主と挨拶を交わし、熟睡するタァはカウンター席に座らせると背凭れに寄りかかった姿勢で頭を下向け、男自身も、隣の椅子に腰を下ろす。

 二人とも、空腹は感じない。

 飲食は、興味を満たし味を楽しむためにあるもので、注文した一人前のラーメンが提供されて、男は香りを呼吸と一緒に取り込み、熱い汁をレンゲで掬って一口飲んだ。色々な食材の存在が舌にのっては消える、不思議な、けれど、いやではない味付け。

男はもう一杯汁でレンゲを並々にすると、タァの口に差し遣った。タァは、口の先端にものが当たるのを感じ取って、意識が醒めるより早く素直に唇を開き、器用に口許を動かして食物を出迎え、喉を上下させる。そして即座に深く眠る。

 麺一本、メンマ一つ、鳴門一つ、喉の門を通過して、一言おいしいと、どうにか感想を覚える程度に摂取できたらしいふうを見受けた男は、自らの手前にあるラーメンへ目を注ぎ、味わう行為に集中した。

 この男と、タァの、更に横で、クリームソーダと麻婆豆腐を食べながら着席する少年は、ただでさえ目を引く二人の不思議な遣り取りに好奇心を刺激され、自分で頼んだ麻婆豆腐を人差し指に付けて、隣の背高な男の口に近寄せてみる。未知の動物がどんな反応を見せるかに近い試しだったが、その黒く大柄な動物は、思ったよりも小さなクチで、大きく湿った広いナカとベロで、歯は立てず薄い唇で、指を挟み解放した。抜いた指先と動物の唇の間に透明な糸が垂れ、少年は液体を纏って帰ってきた人差し指を仰視し、どんな味なのか知りたくて舐めても、薄い、麻婆豆腐の域は越えなかった。

 若干詰まらなく、少年はふと真横の男を目にし、一緒に来ている男の机にはラーメンがあるのに、真横の男は何も無いのに気付いて、少し不憫に思われ、母親がくれた昼御飯代で買ったクリームソーダを視界に入れて、ジュースを男の目の前にずらした。

 子供の手がもたらすグラスの音に、ラーメンを味わっていた男は気が付き、持ち主にそっと指先で返す。

「君のだよ。」

 ……熱々のラーメンを食べてるひとがいうなよ、と見た目の理不尽さにやや呆れて、少年は重ねて押し遣った。

「いや、このひと、なんにも食べてなくて、かわいそうだから」

 非難するつもりは少年に欠片もなく、憐れみのメロンソーダと言葉を残し、麻婆豆腐に心を傾けた。

 男は、置かれた、アイスクリームの乗った緑の炭酸が弾ける冷えた飲み物と、赤い豆腐を頬張る子供と見比べ、やがて、グラスを持ち上げ、アイスの山をスプーンで削って、隣人に運ぶ直前、慈悲をくれた子供に礼を言って口内に含ませ、一方少年は皿から目は逸らさないで挽肉と辛い汁を嚥下するのに一旦静止し、合間に答えた。

 二度三度、アイスクリームの刺すような温度のあとにとろけて微睡ませる甘さが続いて、美味しさに目覚めたタァは、男の支えるスプーンを寝起きの弛緩した手指で取ってグーで握ると、あっという間にグラスを空け、意識は睡魔に奪われた。

 ソーダを一気飲みするパーカーの動物に、よっぽど喉かわいてたんかなと同情し、顰蹙する連れの男が済まなく謝るのに首を振って、男がせめてに少年の代金も支払い、この店の持ち帰りで人気な、香ばしい揚げ胡麻団子の袋を引っ提げてだっこで出て行く後ろ姿に少年は、少しでもいいごはんになったらいいけど、と、とっておきの最後一口のんびり咀嚼した。

 道路に面する中華料理屋から、人間が大勢行き交う歩道に踏み出すと同時、遠くない場所で車と車の衝突した音が響き、店内の人がざわつくのを他所に、男はタァをおろせる裏路地目指して泰然と歩き、違う方向で救急車のサイレンが通過し、男は若干位置の悪いタァの体を背負い直し進む。

 今日列挙した名が今日定めた通り消えていく。

 適当なビルとビルの狭間に見つけた日中なのに暗い裏路地へどんどん入り込み、大声でもあまり表通りに音が届かない距離で、男はそばにあるフードの頭に声を掛ける。

「タァ。——起きろ。……デザートだ。」

 揚げ胡麻団子が収まった容器を袋の内側で開いて一個持ち、無防備な唇の端に宛がう。フードの下で身動ぎする気配を察し、食い付く前に食べ物を若干引けば、歯は派手に噛み合った。子供の優しさに礼を言わなかった事への男個人の憂さ晴らしであるが、最初に、誰のクリームソーダだったか知らなくては礼も言えない点で、男は静かに揚げ胡麻団子食べさせながら、幾ばく反省した。

「さっきの店で子供が、自分に買った飲み物を、お前にくれた。会えないが、お礼は言っとけ。」

細長い綺麗な指についた胡麻と餅をピンクの舌先でちまちま舐める仕草は、男には小動物にも見えた。

 フ……と一笑し、いかにもわざとらしく文字を紡ぐタァに、難色を示したが男は特別指摘しなかった。

「……ありがたい。…………——ああ、そういえば、麻婆豆腐も寄越したな。」

 何気なく聞こえた違和感へ、男はしかめ面になり念を込めて尋ねる。

「……いつ。」

 男の問いに固まったタァは、急に脱力して背中の重みが僅か増し、男は不明瞭な様子に小首を傾げ、タァは改めてごく真面目に独りごちる。

「おまえが寝て、俺が起きているなんてこともあるのか……。」

 そして、『これ』でだ、と唾液に光る人差し指をクイクイお辞儀させる。

 タァが人間に与えられたものを、しかも直接、大人しく受け取った事実に驚いた男は、俄には信じ難く呆然となり、一分ほど眼前の手指と間近にある黒い布地の膨らみを凝視していた。

 タァは、長い間黙って納得した割に苦い顔でいる男の口角に、首を伸ばして軽く唇を触れさせた。

「これでいいだろう。」

 やれやれと言わんばかりのタァの作業染みた±零度の雰囲気に、男は『付き合い』を求めた。

「痛みを切って、快楽だけにしろ…。」

「……ハァ。」

 あからさまに面倒くさく、男の顔にため息ついて俯いたタァは睡眠中あっちの感覚を完全に捨てて痛みのみで、起きた肉体も快楽の無い設定を継いでいる。各々、感覚器官の強弱は自由に変更可能。欲望の有無は、元来違い、男は睡眠欲と食欲はいらない代わりそれなりな性欲で、タァは睡眠が必要不可欠だった。

 休ませる目的で来たものの結局ずっとおんぶしている身体を地面におろして向かい合い男が耳たぶに鼻先を寄せて見たとき、タァは男を横目に見返し気だるく、面白くない表情を浮かべ、見下げた目付きすらした。しかし男は視線は外さず、パーカーの中にある薄い皮膚越しに浮き出たあばら骨を指でなぞってやれば、おお……と少ない焦りにタァが顔と声だけで笑って、腹にある男の手に手をのせ見合った儘笑みつつ甲を爪でゆっくり引っ掻く。

 男は笑った。

「……よさそうだ。」

 心好く自然と舌に任せて出た確認に、軽いスニーカーの蹴りが反ってきて、失笑し男は、精神誠意骨に奉仕した。



 午前0時3分前に、男の隣で珍しく覚醒しぎこちなくでも自立したタァは男へ難儀そうに掠れた喉を絞りかけ、閉口し男の胸ポケットを小突いた。

 糸巻き棒を抜くと無限の糸が伸びて名と場所と歳をこの星の半ばまで囲む数、紡ぎ、午前0時1分前。

黒い布を被っているタァが大鎌を持つ。男は糸を鋏で断ち切った。命を鎌はすべて吸って、血肉の文字がそれ全体に赤く刻まれ表れる。

 10秒前に、タァは軽々鴻大な鎌を天に上げて反り、3秒前に、思い切り振り下ろした。

 午前0時。

 鎌が消え、タァも間を置かず姿を消した。男は、夜風が吹き抜ける深夜の虚空ではなく、星のさざめく空には似ても似つかない下方の営みを眺め、今は例外は除き視認できない姿で、宙を歩んで、滅多に行かぬ己の部屋に足を向ける気にならず、そこらの高い廃墟ビルの屋上に目をつけて降り立ち、人気も人間の声も無い、薄汚いコンクリートに座った。瞼を閉じて、冷たさと暗さと静けさの心地好さが、『あそこ』みたいだ、と、感じられた。恐らく、タァは知る範囲なら、マンションの寝所に移動したのだと思え、追う事もないと判断し、男はここに来たが、手持ち無沙汰を持て余して、陽が昇ると美しい朝焼けを見、昼は穏やかな空の大海を眺め、遥か下の喧騒悲鳴サイレン銃声爆発音を聞き流して日付けが変わる二十分前まで、ぼんやり座っていた。




 23:40。

 日中に、文字で現れ集まる『明日』の人間の情報は記憶し、棒を握る手を仲立ちに糸巻き棒へ記録する。

 男は、起立して歩を進めた。

 残るは、もう一人の男がどうだか確かめる。

 23:43。

 マンションの室に入って左、窓際で、黒い布を半端に纏い純白のシーツの上で月桂に浴する長駆を見付けた。男は傍に寄り、眠る男を背負って定置に伴う。

 そしてこれから近くで紡いで断つ。

 それが、男にとってやることだった。

 23:53。

 綺羅星で描かれた星座の次に天体の名称を答えていた男は、傍らの闇に隠れた男を大声で呼ぶ。

 力が籠らず立てぬ身体に手助けし、後背より抱えられた男はなるだけ自分で自分を支えようとした。

「……リスト」

 意識が拐われたばかりで掠れて揺れる声音に従い、糸巻き棒は男の手によって宙に出で、二回呼吸する時間に糸は星をくるみ、織り成す。

 23:56。

 最果てで閃く月白の刃は、男が断ち切った羅列に赤く染まる。

 23:59。

 高高と首をもたげた鎌は脈動するように堂々聳え。

 24:00。

 この星の人の刻を、ひとしく、切り裂き、別った。




 打ち下ろした動作と共に傾いて全身預けてきたタァの前に移動し、男は気抜けした体をおぶる。タァは首を前に垂れ、黒壇の大きな布衣の内でくぅくぅ寝付き、男はそよ風に撫でられつつ目当てのマンションへ歩行した。

 月が放つ淡い銀の光は、敷布に沈む一体を青白く照らし、耳の間近くにて「明日はカぁ……」レー食おうと言いさして、男の目線は明後日の方向に向かう。明日ここらの飲食店は、休業日である事に到り、ぽかんとして悩ましくなった男は目に入る寝顔に代替えを思い付いて耳打ちした。




 午前の朝。マンションⅩ+Ⅲの1003号室。

「おれがカレー作るよ……。ハァ……」

 食器に盛られた温かいカレーライスのルーに匙を浸し、タァは眉の狭間に皺寄せてふかく嘆息した。「うまい! っ…」

 タァの正面に着席している男は、自分が作ったカレーに嬉々とかぶりついている。タァは、それはうまい、と心で突っ込み、汁が満ちた匙を渋い面付きの口に含んだ。当然、おいしい。

 再度小振りのため息を吐いて、スプーンにのせたミニカレーライスを何食わぬ顔で食べる男に男は問うた。

「……おまえは、親の作り置きをチンして『作った』と?」

 美味なカレーたちが輝くスプーンの内側で怯えて震え、片やタァに当惑し、親の味だと思っているのかと気後れしつつ偽ることなく「ああ……。おれがつくった」と回答する男の煌めくスプーンのカレーとライスはどこか誇らしげに艶やかだった。

「わかった。……おいしい。」

 男は男に観念して、刺激が少ない甘いお子様用カレーライスを翫味する。

 タァの三口目の匙にルーは汲まれ、男が何の気なしに右にずらした視点の先で、外界より壁を通り抜け飛来した光輝な純白の鴉は食卓に留まり、嘴を開いて、告げた。この星に居ない白い鴉。

 彼は、『あの方々』の使いであった。

「今回、遊戯の勝者のカードは『1』でしたっ! そして千年まで、あと七日です!失礼します!」

 ひとつゲームに勝負がつくと、勝者のカードの絵に基づいた幸か不幸が、千年周期で星に訪れる。1は、個人の狂気。

「待て。」

 きびきび舞い戻りそうな鴉を、タァの、厳かな声が引き止めた。

「はいっ! なにかお伝えしますか?」

 ややあって重たい動作で席を立ちタァはおもむろに台所の棚へ近付いて、鴉と男の不思議がる目も気にせず探り始め、ちょっとすると、てのひらサイズの物を手に戻って、鴉に差し出す。

 傍観していた男は、少し顔色が難しくなった。

「コラ。せっかく来たんだ、これを。」

 鴉とタァは、しばし見詰め合う。いつか店で購入した、クッキーに白砂糖の液で鳥の頭部と「カラス」の文字がかいてある菓子だが、どう考えても食べないだろうと男が予想した通り、名前で親しくされても高潔な彼は、

「ここのものはいただきません! 失礼しますっ!」

 怒った目でつんと嘴を背け、大きく広がった佳麗な翼で羽ばたいて先程入った壁から退出した。

 つれないな、と寂しげに呟き、鳥の顔のクッキーを丸ごと口に入れて頬を膨らませ無頓着に雑に噛み砕くタァに、男は一息ついた。




 午後の夜。マンションⅩ+Ⅲの1003号室。

 暗い室内で、瞼を開け、時計に目を遣れば時間より二十分早く起きたようだ、とベッドの上、まだ力めない手足は置いて背中を壁ににじらせて上半身は起き、黒い布が脚半分のみ覆った裸体で、窓外の街を、眺めおろす。

 あと七日で壊れるか、七日のうち、何事かで壊れるか、七日以降に、壊れるか。それとも。

 夜の空、さらに碧落、宇宙の外側を望む。

 『あの方々』が、ゲームをやめる心になられた瞬間、意味の無い星が、壊れるか。

 開く扉の音が耳に入り、真正面の部屋の陰に踏みいり迎えにきた男へ、緩徐にうすく笑んだ。




 お帰り、午後の昼。街。

 雑踏した大通りで数多の人間と擦れ違いながら、『無数の顔』は、男に『最初の一人』のことを連想させた。

 九千九百九十九年前の話。

 創造主に、土でつくられた人間は、園の守り手となり、創造主が計らって人間の体よりつくられ二人存在し、彼と彼女は、園にある木の実はすべて自由に食べていい、しかし、あの一本の木に成る実は絶対に食べてはいけないと創造主にいわれたにもかかわらず蛇に唆され、禁断の実を口にした。創造主は人間に苦しみと死を備わせ、自らがつくりだした彼と彼女に衣を与えて、永遠の生命まで得てしまわぬよう園を追放した。

 男は、食べなければよかったのにと同時、禁忌に誘惑された人間の気持ちとはと、寄り添って去る二人の背中を見ても想像出来る気はしないと思った。

 唯一のめいも守れず、実で欲求満たした人間がいるこの世界に、創造主の興味は無くなり、この星を見放された。

 地の暗黒と天の光明、夜と昼、母の夫と母と夫の息子、母と母と夫の娘は、「生まれた『世界』だから」とこの星で、ここに生けるあまねくいのちを見守っている。

 創造主であるあの方々は、宇宙という『場所』に、それぞれ多種多様な考えと探究の末いくつも星をつくられ、内のお一人が持ち込んだ人間の遊戯に興じる提案をなさって現在に到る。

 創造主は遊興の合間、この星の亡者の魂を善き悪しきに別け、行き先が地底に在る楽園か監獄か、お決めになる。

 意義を表出する力が強い創造主の方々のゲームは、カードの絵にも影響し、勝者が現れるたび、その絵札の意味合いを含んだ出来事が『形をとって』、星に千年ごとまみえる。

 これほど……無邪気な遊びもない。

 停立していた男は目先で間断なく入れ替わる人々の怒ったり泣いている顔でさえも、『生きている』と感じられ、『生きている血の気』がすり抜ける、生の渦に入っていった。




 ただ今、午後の夜。マンションⅩ+Ⅲの1003号室。

 タァは敷き妙で優美に片膝立て幅広な涅色の布帛に半身半ば隠れた形貌で起きて居て、臥所に訪う男に幽か微笑した。

 男は奇妙でタァと見交わし尋ねる。

「なにか、いいことでもあったか?」

 途端男に関心が失せたかのような力抜けした顏はせで、タァは首を回し室外へ目を呉れて黙り込んだ。

 外の世界に傾注している横顔に男は無言で笑い、佇むついで、双眸も暗闇で休ませる。

 息衝くのが聞こえてゆっくりひらいた視界でタァは項垂れており、男はやおら距離を縮め、俯いて銀色の睫が揺れ規則正しく呼吸する肩に、自分の方を向き変わらせ連れて行くため上体と右手をタァの顔面横切って伸べた。

「……」

 暗い影の中で真っ青な眼に仰ぎ見られた影の本体は出し抜けに静止し、タァが双子の弟ヒュゥの前しかみせたことのないひどく気の置けないやわい笑いをして、一刹那細い首筋は前に曲がり、今度こそ本当に寝た。

 後ろに撫で付けた美しい白銀の髪、大人な美麗さと子供のあどけなさにも見える造作をした男の眠り顔に、男は、こういうのもたまにはいいという、悪戯だったのかと思われて、心が揺らいだ。

 こいつは、『いたずら』はしない男である。

 身のうちの、本体とも言うべき、魂の疲弊は激しいのだろう。男は真顔になって、タァの足にのっている巨大で真っ暗な織布を掴み取り、痩身長駆の頭ごとすっぽり覆うように着せた。男はタァの體に後ろ向き膝を屈めてタァの太股を抱え背にする。

 立ちあがった胸先で黒い布の塊が律動し、すうすう気息をもらす姿に、肉体が眠ったタァの魂は、タァが刈り取った命と同じ方法で傷付き、多く人間が死ぬと、不死身のタァも、『死』に限りなく近い『痛み』と『再現』を違わぬ回数、違わぬ方法で体験している――七日後、なくなる命は少なくなることを不公平に願い、背中に乗る魂を殺しているとしても運命を定めるため、男は今日も無意識の體を定位置へ足で運んでいった。



 朝の光は、母たる神の衣の色。

 太陽は、あたたかな母たる神の眼。

 夜の闇は、死神の衣の色。

 三日月は、つめたい死神の鎌。

 誰が言い始めたか、誰も知らぬ。ある惑星の、ただの言い伝え。


 本当の姿形をわかっているものは、いない。

 神のみぞ知る。

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