プロローグ 呼ぶ思い、第1章 どこに
プロローグ 呼ぶ思い
ド。
棚から紙袋が落ちた。粉が舞う。
走るネズミに電気コードが絡んだ。すると壁際に火花が生まれた。
ダンッ!
炎の塊が壁を破り、塀も壊し道を襲った。
通り掛かりの少年も襲った。
その僅か前、少年は気を落とし、嘆いていた。
そしてどこか遠い森の中に、それを聞いている者がいた。
———— 焼けただれた地平線よ
孤独な旅路の果ての空虚な、空虚な、ええと、空虚
何だっけ。
駄目。
漫画の世界観に当てたところで楽になれない。
そもそも、『オラシオン・ソルダード』は西洋ファンタジーだ。
こんな、日本の田舎の路地では無理がある。
生まれて十四年、地平線は見たこともない。コイン精米所の看板は、孤独な旅路の果てにあってはいけない。通学路沿いの庭に佇む、ちゃんちゃんこを着たお爺さんもだ。
いつもどおり挨拶をするけれども。
「こんにちは」
「はい、おかえりい」
〈〈 紙袋が落ちる 〉〉
絶望の路。その縁に並ぶ敗者達の眼窩には何も映らず。
この一節はどうにか合うか。ブロック塀の影に散らかった舗装の欠片。
俺は。
俺は蓬に避けられている。
声を掛けたのだ。久しぶりに言葉を交わしたかった。
なのにたった二秒で去られた。
惨めだ。
恥ずかしい。
〈〈 粉が舞い、閉じた空間に満ちた 〉〉
蓬と俺は特別な仲だった。
それは俺の独りよがりか。
あんなに一緒に遊んだ。笑った。楽しさに時間を忘れた。
でも、今は違う。
俺が風変わりだからか。俺が、格好悪いからか。
多分そうだ。
でも。
いや。
でも。
想いは堂々巡り。自転車のスポークと一緒に廻っている。
〈〈 ネズミ 〉〉
トタン塀を越えてはみ出した庭木が見える。あの夏、蓬はその花を欲しがった。
鮮やかなオレンジ色だった。
「ふう」
俺は記憶から目を逸らして、また漫画の中へ逃避する。
祈り
オラシオン
この無慈悲な地を離れよう。
オラシオン、傷だらけだ。哀れな男を海の彼方へ。
何処でもいいから遠くへ行きたいんだ。
消えたいよ、消えたい消えたい ————
〈〈 ダンッ! 〉〉
———— 消えたい?
誰なんだ。
枝の上で休んでいた、静かな午後に。
森の片隅を渡る風は、いたって穏やかだというのに。
気のせいに決まっているか。
「キリの顔の模様が言ったかな。そのうち自然に消えるよ」
赤ん坊のキリは眠いらしい。ゆっくりと目蓋を閉じたが、オレの言う事が伝わっているのかどうか。
こうして話せるのは、オレの不思議な特徴なんだ。
赤い毛も特別。日差しの中ならさらに赤だ。
気に入っている。
火の玉のように森を跳び回り、時々話すのがオレ。
ただ、話せるように生まれたこのオレと、話したいと言う奴はいない。
今日も山が震えている。何か言っているのか知らないが、山の言葉は分からないよ。
誰かオレの所に、話しに来てくれないか。
頼むよ ————
第一章 どこに
優しい風が少年の頬に触った。
「ふすう」
と少年は息をはいた。
(ああ気持ちいい)
青空の下に少年はいた。
目を閉じ、砂の上うつ伏せで、髪と服が濡れていた。
波の音が聞こえていた。
(何だったかな)
少年には、ここで眠っていた訳が解らなかった。窮地に追い込まれた感覚が胸にあるが、それは夢かどうか。
波の音に鳥の羽音が重なる。
少年は疲れ切っていて、その体で横たわる気持ちよさにしばらく浸っていた。
だが次第に、手の甲がジリジリと熱くなってくる。
背中は突然むずむずした。何か小さな生き物が歩いて降りた感じなのだ。
少年は落ち着かなくなり、いよいよ目を開ける。
遠くに波打ち際が見えた。
少年は寝返りを打つ。
眩しさに目を細め、景色は青空を通って緑の茂みへ移った。顔にパラパラと砂がかかる。体は軋むように強張っていた。
少年はその動きで、頭のヘルメットと、片腕に何かが引っかかっている事に気付く。
とろんとした意識は、腕の物はリュックサックの肩ベルトだと遅れて判別した。
濡れた黒いリュックだ。見覚えは無い。
茂みの方には、白黒の大きな鳥が数羽いた。緑色の小鳥はたくさん。一匹の、ネズミか何かの後ろ姿もある。
(俺から降りた奴)
ネズミか何かは、振り向きもせず茂みの方へ行った。
少年は、その景色に南国の趣を感じた。
鳥達の色は鮮やかだし、いくつも咲いている赤い花はハイビスカスかと考えた。並んで生えている木の、大きな黄緑色の葉は羊歯に似ていた。
人は誰もいない。建物も電線も、車も何も、自然以外のものは見当たらない。
少年はよく考えた。
(ここどこだっけ)
波の音がする。
おもむろに大きな鳥が飛び立ち、つられて小鳥達も去って行く。
(え、ここどこだっけ。これ何よ)
波は何度も、遠く近くと行き来した。
少年は体を起こした。そしてもぞもぞと砂の上に胡座をかき、だるい腕を上げてヘルメットを外した。すると濡れて頭にへばり付いていた髪の間を、風と日差しが通って気持ちが良かった。
それで心を落ち着かせると、自分は人で、男だと分かった。
(あと、あと)
それだけの筈はないと焦る頭に、もう一つ言葉が浮かぶ。
『オラシオン』
でも意味は分からなかった。すぐに思い出せるような身近さがあるのに、瞬き程の手遅れで去ってしまった。
少年は、自分の名前が分からなかった。年齢も家も、何も思い出せなかった。
そして思考は疲れに阻まれた。
なので次に、砂まみれのリュックを見ることにした。
中には黒い布が入っていた。リュックとその中身の境界すら判らず、少年は放り出して途方に暮れた。
少年の視界には、緑色の小鳥がまた集まりだしていた。
少年は、空が赤色になるまで同じ所で、海や茂みに視線を漂わせていた。
他に何もできなかった。それでも何回目か腹の音が響いた時に、やっと動く気になった。
潮もすぐ側まで満ちて来ていた。
少年はよっこらしょと立ち上がった。
「そんで、どうしよ」
初めて聞く自分の声は宙に浮き、波の音にさらわれた。
少年はヘルメットとリュックを拾い、弱々しく歩き出した。
服は殆ど乾いたが、スニーカーは水を吸って重く、体重を乗せる度にブシュブシュと音を立てた。
少年は茂みの中に分け入った。
海風は背後で低木に阻まれた。
植物と土の香りに包まれる。
すると幸運が続いた。
先ず、器のような葉に溜まった水に出会った。それを飲むと、鼻から抜ける埃臭さがあったが、体が楽になった。
さらにオレンジの木があっけなく見つかった。
少年は熟した実が一つ付いた枝に手を伸ばした。それを下に引き寄せて折ると、口を大きく開け、皮ごと実を食べ、葉も食べ、さらに枝を噛み砕いた。
(ああ、美味しい)
一息ついた少年はさらに先へ進む。
程なく木の茂みは終わり、竹薮が見えてきた。
竹は、少年の体の幅もない程に混んでいた。
太い、細い、明るい緑色、艶のない薄茶色、黄色と、複雑な縦縞模様の景色が広がる。折れて斜めになっているものも多い。
少年は狭い竹の間に体を差し込み、跨いだりして進んで行った。
竹藪の中、太い竹がひときわ密集している所があった。明らかに周りと違い目立っている。
少年は妙だと思ってそこへ近付いた。そして、手で何とか竹を分けて先を覗く。
すると意外にも、ぽっかりと開けた空間があった。
その空間には、平らで大きな四角い岩があった。少年の膝位の高さがあるその岩は、黄緑色の苔に覆われている。竹は、その岩をぐるりと取り囲んでいたのだった。
(これ部屋っぽいよ)
少年は、三本並んで枯れている竹を手前に倒し、そこから中に入り込んだ。
そして岩に座ってみると、不思議とほのかに暖かかった。苔は柔らかい。
この空間には、外よりも優しい空気があった。
少年は今夜ここで過ごすことに決めた。
スニーカーと靴下を脱ぎ、リュックを枕にして寝転ぶ。すると広々とした砂浜にはなかった、壁に守られる感覚に癒される。
そして上を見ると、差し交わす竹の枝葉の間に薄い星空が見えた。
(誰もいない。記憶もない。ああ困った)
だが少年は眠くて考えられない。
「明日でいっか」
少年はあえて、声で気楽さを発して耳で聞いた。
そして体は気怠さに飲み込まれる。
意識はあっという間に目の奥へと閉じこもっていき、朝には忘れてしまう夢へ入った。
———— 星がいっぱいだ。
みんな後ろに流れてく。
俺はぐんぐん進む。
波みたい。
俺、荒波みたい ————
†
少年が忽然と消えた町にも、夜が訪れる。
明人は、茶の間で祈った。
———— 荒波が危険から免れて、安全な場所にいますように。
家の近所の建物で爆発があった。荒波は下校途中で、それに巻き込まれたのに違いない。
現場は、住人が留守中の平家住宅だ。
面した路地には、荒波の自転車とその荷台に括り付けられた鞄があった。でも荒波はいない。
平日の午後だ。
会社にいた俺は、妻の綾から連絡を受け現場に駆けつけた。そしてまだ小さい繁を一人にしたくないと、綾を先に帰らせた。
警察官は言った。通学路の数箇所に監視カメラがあり、その時間に荒波が現場に差し掛かった可能性を示しているのだと。逆に爆発後は、荒波の姿も不審なものも映っていない。
爆発の直前に、その細い道に入る荒波を見たと言う人もいる。自宅の庭から道を眺めていたお爺さんだ。
お爺さんは自転車の特徴を覚えていた。
サドルの下方で揺れていた虹色の物。それはおそらく、鍵からぶら下がったキーホルダーだ。荒波がしょっちゅう鍵を落として探す羽目になるから、好みはどうでも目立つものを付けさせていた。
俺は警察官を介してお爺さんと顔を合わせた。お爺さんは荒波の事を心配して、気を落としている様子で話した。
「細っこい中学生のお兄ちゃんだろ。元気無かったけど、こんにちはって。はあ、そんですぐだもんな。…… ううん」
爆音のせいで動悸を起こしていたお爺さんは、その後家族に近くの医院へ連れられて行った。
そして俺たち家族は、荒波の行方について手掛かりもないまま夜を過ごしている。
心配でたまらない。気が狂いそうだ。
でも。
何かと俺に似た息子だ。臆病な質も奇妙な能力も。それで咄嗟にどこかへ逃げたんだと思いたい。
一瞬の事だから、きっと、行き先など吟味できなかったんだよな。
綾もそれに思い当たり、俺が現場に着く前に警察に話したと言う。
瞬間移動だ。近道の様なものを使う能力、と言えるのか、癖みたいなものか。
おそらくこれは俺の突然変異だ。親、兄弟、親戚からも、こんな話は聞いたことがないから。俺にしたって意のままにできる訳ではない。たまたま何度かあっただけのものだ。
それでも綾には、もしも俺がいなくなったら荒波の所だと思ってくれと話し、昨夜から何度も試みている。
けれど全く駄目だ。いったい、どうやるんだよ。
荒波。外国でもどこでも迎えに行くから、居場所を教えてくれよ ————
壁際のソファに腰掛けていた明人は、固く閉じていた目を開けると耳を澄ませた。
そして、いつものように二階から荒波の立てる物音が聞こえはしないかと、探した。
†
朝になった。
竹に囲まれた岩の上で、青々しい香りと、間近に聞こえる鳥達の声に少年は包まれていた。
そして、体を横たえたままで思った。
(ああ、そうだ、竹藪だここ。ああ)
でも、空腹が呆気なく戦慄を退けてしまった。
少年は手近にあるオレンジで一旦満たされ、竹の部屋から出たついでと、少し近くを歩き回った。
竹や木の隙間をぬい、先を覗き込み、最後には砂浜に出る。
そしてやっと考えにふけりだした。
この状況が何にせよ、誰かに頼れないものかと。
でも少年は、人の存在を全く感じらずにいた。
竹薮よりも内陸方面は暗い森だった。少年は、記憶はなくとも、漫画に出て来そうな異世界を起想していた。奥は様子が分からない。遮る木々を、さらに幾重もの蜘蛛の巣が目隠しする不気味な景色だった。
(いや、もう全部が異世界か。そうなのか? そうだったりして)
そんな事を考えていると、
「見ろ、闇の王国だ。オラシオン」
という文句が口をついた。
(またオラシオンか。俺が好きな漫画かゲームだよ、きっと)
でも『オラシオン』は、少年が身に付けている服やスニーカーの世界観に合うものを、一つも伴ってくれないのだった。
とにかく少年は森であれ異世界であれ、踏み込んで人を探し、無駄骨になって動けなくなるのが怖かった。だから、今はこの砂浜と薮で、精一杯生きることにした。
少年がいる海岸は南向きの細長い砂浜で、東西とも、海に突き出た崖が輪郭となっていた。その小高い崖の上に登ってみても、景色は海と、森につながる茂みだけだった。
住み着いた竹藪は砂浜の西寄りにあった。少年は西の崖下を散策し、その狭い岩場に夢中になった。海洋ゴミの溜まり場だ。少年には、そこはホームセンターの様だった。
ただ、他の曇りなき美しさからかけ離れた景色に、少年の心中は複雑になった。
(人の所為で、鳥とかみんな、嫌だろ)
少年は周りに顔を振り向けながら、
「でも助かります。すいません」
と言った。
それにゴミには他にも感謝すべき側面があった。いくつかには、ここは少年の知る世界だと語っている物があり、少年は嬉しかった。『さらさらサラダ油』や『抗菌・消臭・部屋干し』などという鮮烈な日本語表記は異世界には無いものだと、少年は無意識下で断じている。
そしてそれに伴い、
(ああ、そか。そだった)
と、自分が日本人であることにも思い当たった。
食料の確保は最初から順調だった。あのオレンジの木には、青い実から熟したものまで沢山ぶら下がっている。
竹薮には、足元を探ればそこいら中に筍があった。
ここで少年は拾ったゴミを活用した。鉄板をスコップ、瓶をレンズ代わりにして、焼き筍を作った。火起こしは半日かけて身につけた技だった。
炎の上に串刺し筍をかざし、香ばしい匂いが立ち昇ったとき、何となく、嗅いだことのある匂いなのだろうと思った。
キャベツの味がする木の芽も見つけた。
波打ち際にいる小さな生き物達も大切な食べ物だ。寂しいからと言って心を寄せてはならないと自分に言い聞かせる。
中でも蟹はよく見つけた。少年は、可愛いと思わないようにした。
二枚貝は毎日大漁だった。浅瀬を歩くだけで足裏に当たる。掘り出してもまた砂に潜ろうとする貝を少年は見つめて、これも可愛いと感じそうになったが、食べることにした。
初めて水を飲んだあの葉には、朝露がよく溜まるのだった。
それに、海に流れ出る細い小川も見つけた。
(水が綺麗なの、人がいないからかな)
流れの際で膝をついた少年は、複雑な気持ちで透明な水をすくった。
着替えもした。
砂浜で目覚めた時の少年は重ね着をしていた。下着の上下に、半袖Tシャツと袖半ズボン。その上に、ジャージの長袖長ズボンだ。
ここは暑い。だから少年はそれらを分けて着て洗い替えにした。
服の洗濯は海で濡れたら乾かすというので、少年の中では完結していた。
パンツは干している間は無しになるが、気になったのは最初だけだった。
暑い時に半裸になり、細く白い体も気になったが、それも最初だけだった。
それから、リュックの中には色々と入っていたことが分かった。
少年は初めてのゴミ溜め散策の後で、砂浜の木陰に座り、リュックの全てのファスナーを開けてまさぐった。
まず、黒い布とだけ思ったものは学生服だった。襟には二つのバッジが付いていた。ごちゃごちゃしたデザインの物と、Ⅲ《さん》の形の物だ。白のワイシャツも奥で丸まっていた。
それから、中学三年生用の社会の教科書と、紙パックのジュースが二つあった。
ジュースは非常用にとっておくことにした。
少年は、社会の教科書の中に何かあるかと期待した。例えば自分の名前だ。
見ると裏表紙に『A・闇・M』と手書きされていた。イニシャルに違いないと思った。
でも何も思い出せない。
(それにしても『闇』は恥ずかしいよ)
少年は、もしかしてこの闇の字が邪魔して思い出せないのかと考え、指先で見えなくしてみた。或いはこういうことを書く自分を見付けられないかと、頭の中を探ってもみた。
「俺ってそういう奴? そうなんだろうな。そうかも。はあ、でも駄目。わかんない。とりあえず、中学3年生。そうか中3か」
少年はここで思い出すのを諦めた。
「かっこわる」
少し嫌になったが、少し嬉しくなった。
だが胡座をかいて、何とかまた考えた。この学生服を着てみれば、友達なり先生なり、場所なり何かを思い出せるかもしれない。
でもやってみると、南国の風景の中、この黒の分厚い服が浮いていると感じただけだった。
何も思い出せないことには違いなかったが、持ち物の中に不穏なものがあり気になった。
ガラス片だ。リュックには数カ所、点々と溶けたような傷もある。
(これで記憶を失くしたんだな俺は。ああ、爆発とか)
だがそうだとして、一人で砂浜に倒れているだろうか。
厚着をしているのだから、元は寒い土地にいたのだろうが、それだとここから遠いということにもなる。
「はあーあ」
少年はお手上げとなった。
†
一人きりの板の間で、山葡萄の蔓の籠を手に綾は思った。
———— いつもなら、完璧に整った網目を生み出す私だが、今日は滅茶苦茶だ。
自転車と鞄だけだった。
破れた服や血、そういう恐ろしい物は無かった。ヘルメットも無い。
荒波はいなくなってしまった。背負っていた筈のリュックサックと共に、忽然と消えてしまった。
付近に荒波がすっぽりと隠れてしまうような物は無い。だから騒ぎを聞きつけて集まった人々の間には、戸惑いと動揺の空気が満ちていた。
それに逆らうような格好で、
「ああよかった。きっと逃げられたんだ」
と私は独りごちた。そして警察官に可能性の話をした。努めて冷静にしたつもりだ。
「荒波は、どこかへ瞬間移動したのかもしれません」
私の夫で、荒波の父親である明人の能力の事を、結婚前から聞いていたから。
普通は信じ難いだろうが、自分の祖父もかなりの特殊体質を持っていたものだから、明人の話を私は、受け入れられなくはなかった。ただ、明人が私の目の前でその能力を発揮した事はなかったから、本当に信じたのは後のこと。荒波のそれを目撃した時だ。
荒波が三歳の頃のある昼間。私と荒波、二人で茶の間にいた時に地震があった。特に大きな揺れではなかったが、棚がガタガタと音を立てた。
すると、私のすぐ隣にいた筈の荒波が見当たらなくなっていた。そして意外にも隣の部屋から声が聞こえ、慌てて立ち上がり覗いて見ると、キョトンとした表情で座っている荒波がいたのだ。
「あれ? 大丈夫?」
と、まずはこんな言葉をかけたが、
「ほしさん」
と荒波は言って、顔をこちらに向けた。これは当時、荒波が時々、脈絡もなく口にする言葉だった。絵本にもテレビにも心当たりはなく、日によっては『おしすん』になることもあり判然としない。それを小さい子にはよくある事なのだろうと思った。
私は『ほしさん』には取り合わず、疑問を投げかけた。
「荒、急いでねんねのお部屋に来たの?」
「ママ」
荒波は答えず、ただ抱っこを求めて両腕を上げる。
私は荒波を抱き上げ、体をあっちこっちと触って異常のないことを確認した。柔らかくて温かい、いつもの愛しい匂いのする荒波だった。不思議だった。
そして荒波はその後、いつもより大分長い昼寝をした。
後で明人にこの事を伝えはした。でもあの頃の私達は、ちょっとした連絡も難しい程に忙しくて疲れていて、心が毛羽立っていた。だから改めて話し合うこともできず、日々に追われた。
そしてそれきりになり、繁が生まれ、更なる多種多様な日々の奮闘が始まった。
もっと荒波の事が解っていたら足しになるのにと、私は歯をくいしばる。
明人の瞬間移動の話を聞いてから、もう随分と年月は過ぎ、時代は進んだ。社会は、超能力というものを認める方向に動いている。怪しげだと目を背けたり、笑ったりする人もまだ多いのは確かだが、ひとたび興味を持てば、世界中から肯定的なニュースが聞こえて来る。
だから私は腹を括った。私は荒波の能力について、率直に警察に伝えた。嘲笑や冷ややかな目をやり過ごして、最後まで話すつもりの淡々とした態度を尽くす。
だが意外にも、信じて貰える方向で会話はなされた。
警察官田上の話はこうだ。
まだまだ未知の領域ではあるが、警察内にも瞬間移動についての認識と記録がある。その中に、大海を越える様な長距離の移動は今の所ない。殆どの事例は目が届く範囲か、それに近いものなのだそうだ。だから荒波がそれで爆発から逃れたのだとして、県外、まして外国等、極端な可能性は考えなくてもいいのではないかと言う。
田上はこの時、道の曲がり角にいる女性の警察官を気にしているようだった。その人は、耳を塞ぎ目も閉じて立っていて様子が変わっていた。
とにかくここでまた私の脳裏に、幼い荒波が隣室に居た光景が蘇った。『目が届く範囲』だ。
田上が最後に付け加えた一言が気にはなった。
「他の要素が加わった場合については、より一層未知ですが」
爆発のことか。
そしてあれから五日たった。心配で気が狂いそうだ。
散らかった荒波の部屋の机には、携帯電話がポツンと置かれている。学校への持ち込みは許可されているが、登下校時以外の起動は禁止だし、学校が家からそう遠い訳でもないから、平日はいつもこの状態だ。溜め息が出る。
でも、きっと大丈夫。どうにかそう思うことができるのはもう一つ、私の先祖のお陰がある。荒波は曽祖父の特性も受け継いでいて、人よりも怪我をしにくい。
まったく。荒波は、変な遺伝子がこんがらがってる子なのだ。性格はことさら地味なのに。
何にしても、何処かにはいる筈なのだが。近くには穴も、川も水路も無い。しばらくの間、警察の小さなドローンが何機も飛び回っていたようだが、近隣の屋根の上にも手掛かりは無かったのだそうだ。
やっぱりお父さんの瞬間移動を、荒波もやったんだよね? 思いっきりやったの? 遠くに行ったの? でも、そんなの、本当なの?
そうであって欲しいけれど、明人の話もよく分からなくて ————
「もう! なんでよ、オラシオン! 荒波をここへ返してください、それか私を荒のとこ連れてってよ! お願いです、うう、荒波守ってください」
綾は小声に力を込めて祈り、鼻をすすった。そしてしばらく止めていた手をまた動かし、籠を編んだ。
毎日1章を、10時10分にアップ致します。
第16章で完結致します。




