第二十三段 岩戸隠れ
思兼と共に天安河へやってきた国之常立は、一瞬、感慨深げに目を細めた。
その河畔には天岩戸があるだけではなく、天照と素戔嗚が誓約をした天真名井もあった。
それは幼き日の伊邪那岐と伊邪那美が丈比べなどをして遊んだ井戸でもあった。
「ここへ来るまでに素戔嗚の様子は見てきたが、天照の方はどうなっているのだね?」
国之常立が高皇産霊を掴まえて問うと、高皇産霊は国之常立に天岩戸を拇で差してみせた。
「あそこに引き籠もって黙りだ。天斑駒は天照の神馬であるゆえ、呪力が繋がっている。きっとあいつも力が荒れ狂っていることだろう」
「天岩戸はあの子が自らに施した封印です。天斑駒に呪力を供給する自分の力を分解させないために。そして、神馬よりも暴走が甚だしい自身の呪力で皆を傷付けないために」
神皇産霊が高皇産霊の答えを引き継ぎ、国之常立を鋭く睨んだ。
「封印のおかげであの子は眠ってるようなもんさね。力の暴走で命を落とすようなこたあないよ。でも、こんな事態を招いたアンタの責任がそれで帳消しにゃあならないけどね」
豊受が説明を補足した。
その通り天津神たちは国之常立に敵対的な視線を向けていた。
彼らは今回の事件に関しては国之常立に最終的な責任があると見なしていた。
月読が知れば泣いて喜んでいただろうが、天津神たちは天照を愛していた。
本当は孤独や不安に苛まれながらも必死に明るく振る舞って努力するその姿を。
彼女が庇ったというだけで素戔嗚のことを憎めないほどに。
「それで、卿たちは天照を救う手立ての一つでも思い付けたのかね?」
そうであるからこそ国之常立は敢えて挑発的な物言いをした。
天津神たちは浮き足立っていた。
天照と素戔嗚を憎んでいないとは言え、騒動が起きていることに違いはなく、国之常立は天津神たちが抱く危機感の捌け口たらんとした。
「ならば、意見の一つでも出すと良い」
その意を汲み、高皇産霊は憎まれ口を叩きつつ、国之常立に意見を求めた。
「御中主は?」
「姉者の助力を願っていたのなら残念だな。父上の指示がなければ梃子でも動かん。その父上もどこにいるものやら」
空亡の介入する危険が少ないことに国之常立は内心で胸を撫で下ろした。
「そうか。まあ、それはともかくとして案を持っていないわけではない。卿たちが実行できるかは別問題だが」
それゆえ、他人事のような物言いでわざと恨みを買いながら、彼は真剣に対策を提案した。
◆
天岩戸に隠れる直前、天照は素戔嗚に天斑駒たちを託した。
天照の呪力が暴走しているのは、素戔嗚の目にも明らかだった。
素戔嗚は天照の力を鎮めるのが先だと言ったが、彼女は首を横に振った。
「わたしの神馬を黄泉神にするなら、このわたしが黄泉神のように呪力を荒れ狂わせねばならん。本当は保食の力を借りてそうするつもりだったんじゃがのう。でも、月読を恨むでないぞ」
激しい痛みに耐えながら、天照は寂しげに笑ってみせた。
「わたしも月読にきつく当たってしまったが、それを最後にあやつともう会えないかも知れないと思えば悔いしか残らん」
「天照姉に何かあれば悔やむどころではない」
苦り切った表情で素戔嗚が天照を睨んだ。
それは彼が姉に怒っているからではない。
彼女は父でさえ共有してくれなかった母への思慕を分かち合い、文字通り身を捧げてもくれた。
天照という理解者によって素戔嗚は初めて肉親なるものを実感できた。
それが再び感じられなくなりかねないことに彼は平気でいられなかった。
一筋の光が差し込んだからこそ以前よりも更に闇を恐れた。
そのような素戔嗚の胸を天照は拳で小突いた。
「お主の姉を余り舐めるでない。わたしは最高に凄いのじゃからな。寧ろお主こそちゃんと母上を見付けてこいよ?」
素戔嗚が口を開く前に天照の姿が消えた。
天照がその呪能を使ったのだ。
素戔嗚は天照のいなくなって騒ぎ出した天斑駒たちに囲まれて歯を食い縛った。
◆
天斑駒たちを制御できるようになると、素戔嗚は妣国を見付け出すべく天降ろうとした。
しかし、その行く手を遮る者たちがいた。
高皇産霊と神皇産霊の二人だった。
「これで三貴子の全員に稽古を付けられる。俺はお前の呪力を全身全霊で感じ取りたいゆえ、どうか思う存分に力を振るってくれ。なあ、神皇産霊?」
牙を剥いて笑いつつ、高皇産霊は神皇産霊に話し掛けたが、彼女はつんとそっぽを向いた。
「俺にもまだ怒っているのか?」
「……当たり前です。貴方のせいでこのようなことになったところもあるのですから」
「だったら、責任を取らねばならんな」
苦笑して高皇産霊は前に出た。
「俺が素戔嗚を何とかする。天斑駒の方は任せた」
「興が乗ってやり過ぎないようにしてください」
高皇産霊のことを誰よりも理解している神皇産霊は、そう言って釘を刺した。
この状況でも高皇産霊はやらかしかねなかった。
最後の三貴子は高皇産霊の闘争心に火を点けるのに十分だった。
「お前こそ情が移って手を抜くなよ?」
「高天原どころか葦原中国の存亡も懸かっているのですから有り得ません」
天斑駒たちが黄泉神と化し、大挙して葦原中国に天降れば、呪力の均衡が崩壊してしまいかねかった。
そのようなことを神皇産霊は国津神の御祖としても看過できなかった。
国津神たちが力を暴走させれば、地上の生き物も無事では済まなかった。
「天斑駒は任されました。素戔嗚のことを頼みますよ。信じていますからね?」
神皇産霊と拳をぶつけ合って高皇産霊はそれに応えた。
典拠は以下の通りです。
天津神たちが素戔嗚尊を攻める:『太平記』




