第二十一段 夜食国
高皇産霊が思兼に言った。
「何やら騒がしいな」
「天照と月読が喧嘩しているんですよ」
「どうしてです?」
夫と共にいた神皇産霊が息子に訊いた。
高皇産霊と神皇産霊は天照を訪ねようとしていた。
そして、その御殿から思兼が出てきたのだ。
「月読が保食を斬ったからです」
「まさかあの子が……」
神皇産霊は二重に信じられなかった。
御殿に入らなくとも聞こえてくる喧嘩は、いつも仲の良い天照と月読のものとは思えなかった。
また、月読は無闇に暴力を振るいなどしなかった。
「保食の呪力がそれほどまでに荒れ狂っていたのか?」
養母としての心配から冷静でいられない神皇産霊に代わり、高皇産霊が事情を察してその言葉に思兼は頷いた。
「殆ど黄泉神のようなものだったそうです。それゆえ、月読は私の持たせた剣を使いました。伊邪那岐の呪能が付与されている剣を」
「それで、どうして喧嘩になるのですか? 天照は月読に保食を連れてくるよう頼んだと聞きます。呪力を分解しただけで殺していないのなら、安全を図ったとして寧ろ褒められるべきでしょうに」
分からないというように思兼は首を左右に振った。
神皇産霊は胸騒ぎを覚え、御殿に駆けていこうとしたが、高皇産霊がその腕を掴んだ。
それを振り払って彼女は相手を睨み付けた。
「見守ると国之常立に約束しただろう」
「あの子たちに万一のことがあれば、陽根を引き千切って捻り潰すだけでは済みませんよ?」
「お前とやり合うのも悪くはない」
神皇産霊の顎を高皇産霊がくいと持ち上げた。
そうして二人は見詰め合ったが、思兼が咳払いをすると、神皇産霊が高皇産霊を突き飛ばした。
元来た道を神皇産霊は憤然たる足取りで引き返した。
◆
月読はわけが分からなかった。
彼女は天照から保食を自分のところに連れてくるよう頼まれたが、それは農牧の力で天斑駒をより良く成長させるためだと受け取っていた。
それゆえ、探し当てた保食が黄泉神のようになっていたのを見ると、このままでは天照に害を及ぼすと考え、伊邪那岐の呪能が付与された剣で呪力を分解したのだ。
保食の呪能から牛馬などの力を神として祀る神人たちが生まれた。
天照の希望を叶え、同時にその安全を図ることしか月読の頭にはなかった。
ところが、同行していた素戔嗚がそれを見て怒り、月読を取り押さえて天照に突き出した。
天照も月読がやったことに激怒して彼女を罵倒した。
「素戔嗚も手伝ってくれたというに、お主が全て台無しにしてしまったわ!」
「しかし、あのままでは高天原にも被害が──」
「そんなことわたしが何とかするわい! 余計な気を回すな!! お主なんぞ顔も見とうない!!!」
「そうか……」
天照に罵られて月読も怒りに火が点いた。
姉のために頑張ってきたのを本人から否定され、自分よりも弟が気遣われていることに嫉妬の念も生じた。
それが本当は臆病な月読の背中を押した。
「私も姉御殿にはうんざりだ! そこまで言うなら好きにすれば良い!! もう心配なんてするものか!!!」
初めて天照に声を荒げ、月読は踵を返し、足音を響き渡らせながら去っていった。
驚いた天照は月読を追おうとしたが、足を止めて俯いた。
暫し逡巡した後、自分の座にどさりと腰掛けた。
◆
衝動的に外へ出たが、月読は途方に暮れた。
高天原にいたくはなかったが、天照のために働くこと以外の生き方を知らなかった。
そこではたと気付いたことがあった。
(姉御殿は黄泉神としての保食を欲しているようだった。保食は天斑駒のために求められた可能性が高い。いずれ天斑駒も保食のような黄泉神になるのではないか?)
もし天照の育てた神馬が黄泉神となれば、彼女の築き上げてきた信頼は、一挙に失われるかも知れなかった。
月読は天照に怒ったが、姉を憎むことは出来なかった。
彼女は父の呪能が付与された剣を握り締めた。
「天斑駒を残らず斬り捨てる」
思兼の作った道具は、何度も使用すれば壊れた。
それでも、天斑駒を全て斬るぐらいは出来そうだった。
その呪力はまだ暴走していなかった。
「そのようなことをしてもらっちゃ困るな」
神馬たちのいる方へ月読が歩き出すと、その足がずぶりと地面に沈んだ。
そこには白黒の勾玉を組み合わせたような太極図が浮かんでいた。
声のした方角を振り返れば、稚日女の立っているのが目に入った。
「曙は太陽が夜の闇を切り裂くことでもたらされる」
しかし、稚日女は月読が知る普段の彼女と全く異なる雰囲気をまとっていた。
いつもと違って旭日のように輝く赤い瞳を高皇産霊や神皇産霊が見たなら思っただろう。
それは空亡の眼であると。
「その切れ目を空亡と言うんだぜ」
そして、彼らならば稚日女の発動している呪能が御中主のものであると分かっただろうが、月読には知る由もなかった。
「夜食国でじっとしててもらおっか」
太極図が月読を呑み込んでいった。
月読は太陰の力を神として祀り、太陰暦の基となる月の満ち欠けが不死を象徴するように桁外れの耐久性と再生速度を彼女に与えた。
だが、それは稚日女の呪能から逃れるには適さず、月読は闇に呑まれた。
典拠は以下の通りです。
保食神のことで天照大御神と月読命が別れる:『日本書紀』




